5-10

文字数 2,493文字

 街灯が銀色の光を楕円に投げた。
 仕事が退けて家路につく車がひっきりなしに橋を行き交う。
 悟は傾く陽に目を細めて川を見ていた。
 眼下には、あの日初めて遼一と出会った川辺の小公園。
 橋の欄干にもたれ、悟は遼一と過ごした九ヶ月を初めから巻き戻して眺めていた。
(大好きな遼一さん)
 いつものように、融けてはまた凍ってを繰りかえして固くなった雪の中に転ばされ、好きに蹴られていた悟を、遼一は見つけて助けてくれた。いじめっこどもを追い払い、立ち上がるのに手を貸してくれ、マフラーを拾って首に巻いてくれた。正面から見た悟の顔を、息を呑んで見つめていた。
(僕は、初めて会ったあの日から、あなたのことが好きだった)
 夕暮れの赤い光の中を、一緒に歩いた堤防の遊歩道。
(そのときは、自分の気持ちが「あなたを好き」なんだって気づかなかったけど)
 悟は恥ずかしくて、いたたまれないような気持ちになりながら、傍らを歩く遼一の存在を強く意識していた。記憶にしっかり刻みつけた。
(どうしてかな。いくら助けてもらったからって、会って数分一緒にいただけのひとを、そんなに恋することがあるだろうか)
 数日して、連中から逃れようと急いで校門を出たとき。
 奇跡が起きたと悟は思った。
 遼一が、あの日助けてくれたひとが、そこにいたのだ。
 この幸運を、手放しちゃいけない。悟は走り出していた。
 遼一は車に乗せてくれた。本屋へ案内して、コーヒーをご馳走になって。
 この幸運を、手放しちゃいけない。悟は一生懸命考えた。どうすれば少しでも長く一緒にいられるか。どうすればまた会うことができるか。遼一の蔵書を見てみたい。英語を教えて欲しい。悟の虫のいい願いを、なぜか遼一はすべて聞き入れてくれた。悟を受け容れ笑ってくれた。いじめっこたちと交渉して、十年続いたいじめを止めさせてくれた。
 悟はずっと不思議だった。どうして遼一がそんなに親切にしてくれるのか。どうして自分があんなに遼一に恋い焦がれてしまったのか。
(やっぱり、血、だったのかな……)
 あの秋の雨の日。母にまた裏切られた悟は、朦朧となりながら遼一のアパートへ向かっていた。ズブ濡れになって冷え切った身体の底が不穏に熱くて。
 ようやく帰ってきた遼一にバスルームに押しこめられて、もう、どうしていいか分からなかった。身体の衝動が恋情を押し上げ、追い詰められた悟は細い指で遼一のシャツにしがみついた。
 あんなに恥ずかしいのに、自分を抑える機構は、遼一の指が悟の皮膚に触れた途端働きを止めた。回線がショートしたように。
(遼一さんが、僕の、本当の父さんだったからかな)
 悟が恋い焦がれる以上に、遼一が悟に夢中だった。悟はそれを分かっていた。なのに、遼一の視線がときおり自分を通り越して、遠い誰かを見ているのが悲しくて、いつか遼一に棄てられる日が来るのが怖くて、無茶を言って遼一を困らせた。暴力もふるった。だが遼一は毎回悟をあやすように抱きしめ、落ち着かせてくれた。
 ひとの懐の温かさ。それが遼一の懐ならなおのこと。
(父さんで、叔父さん)
 悟は自分の肩を抱きしめた。
 いつもこの身体を抱き止めてくれる遼一の胸を思い出して。
 遼一の指は熱くて、優しいのに激しくて、悟はいつももっと欲しくなる。甘い声を上げてねだれば、遼一は必ずくれる。悟がねだる以上に。
(遼一さん、あなたは自分の血のつながった姉を愛したかもしれないけど、それはいけないことかもしれないけど。僕も同じだよ。血のつながった叔父を、父を、こんなに愛してしまったもの。心も……カラダも)
 夜でも、昼でも、悟がねだればいつでもくれた。人間は、こんなにも、誰かの心で、身体でとろかされる。幸せだった。 
(僕ね、これからはずっとあなたと一緒だと思ってた。一生離れないって)
 指輪の約束。悟が志望校に合格して、春から一緒に暮らす約束。
 遼一はそのために今日――。
 先ほど耳にした遼一の声が、悟の耳に蘇る。三十二引く十七は、十五。姉と関係して故郷を追放されたときの遼一の年齢。この世に生まれて以降、孤独だった悟の年月。そのふたつを足せば、キレイに今の遼一の年齢となる。 
(僕はもう、自分のことよりも、ずっとあなたが好きなんだ)
 悟がどうしてこの姿でこの世に存在するか。遼一はそれを知ってしまった。若かった遼一を傷つけたできごとは消せないばかりか、自分の姿を取って彼の前に顕現している。遼一の心の傷は、もしかして、自分の存在が彼の心で大きくなるにつれ、見えなくなることがあるかもしれない。悟はそんな風に期待していた。が、それどころか。
(あなたを苦しめる全てのものから、あなたを遠ざけたい。そう思う)
 悟の姿は、悟の存在は、遼一の心を苦しめるだろう。傷は見えなくなるどころか、遼一に新たな苦しみを与える。悟の顔が、昔の誰を思い出させるか。悟の姿の向こうにちらつく幻影は誰のものか。遼一はすでに知ってしまった。知らなかったときには戻れない。気づかないふりはもうできない。
(あなたは僕を、過去と切り離して眺めることはもうできないでしょう)
 母の、純香によく似た顔。少年の頃の遼一に、よく似た姿。
(苦しみを伴わず、僕を見ることは二度とない)
 遼一は、遼一が自分で思っているほど、冷酷ではない。頑丈でもない。繊細で、優しくて、温かな心を持っている。悟は誰よりそれを知っていた。そして多分遼一本人よりも。傷つきやすくてもろい魂。守りたい。誰にもこれ以上傷つけさせたりしない。
(僕はもう、あなたを苦しめたくない)
「遼一さん」
 唇が、小さく恋人の名を呼ぶ。
 悟は首にかけた銀鎖を外し、指輪を鎖から抜き取った。
(俺のいないところで外すなよ)
 遼一が笑って悟にそう言い渡した銀の鎖。
 抜いた指輪は左手にはめ、鎖を元通り首にかけた。
(僕はあなたのものだけど、僕はあなたを解放するよ。あなたを守る。僕からも、母さんからも)
 陽はますます低く、オレンジからラベンダーの色へ変わる。
 悟は夕陽に輝く銀の指輪に口づけした。
「……父さん」
 愛してる。
 そう呟いて、悟は瞳を閉じた。
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