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文字数 2,796文字

 それからも悟は、些細なことで暴れては泣くことを繰り返した。
 遼一が何度なだめても、何度抱きしめても、それはまた起こった。
 暴れているときの悟はほとんど五歳児のようで、ただただダダをこねて叫ぶ、ものを投げる、泣く。遼一が抱きしめてしばらくあやしていると落ち着くのも、毎回同じだった。
 悟の理性は、自分が遼一に深く愛されていることを理解している。なのに、悟言うところの「後ろの声」が悟の不安を駆り立てるらしかった。 
 今日片付ける分の作業を終え、遼一はPCデスクで本を読んでいた。コーヒーが飲みたいと思った。咽が渇いていた。遼一はマウスを指先でつついてPCを目覚めさせ、時間を見た。
 平日の昼間にひとりで図書館へ行き、参考になりそうな本を数冊まとめて借りてきた。何をどう調べれば悟を、彼自身がかけた呪いから解放できるのか分からなかったが、研究者の端くれを十年やってきた身だった。心理学と精神療法の棚からピンと来たものをとにかく借り出した。PCのモニターの脇にそれらを積み上げ、上から順に読み始めた。二冊目で「これか」という事象を発見した。
「お試し行動」というのがそれだった。
 被虐待児が、見かけ安全な場所に連れてこられてしばらく、自分の存在はどこまで許されているか確認するため、暴れたり、ものを壊したり、盗んだりして、新たな養育者の覚悟を試す。
(これだ……!)
 被虐待児――。
 悟の、理性では抑えきれない不安の構造は、これだ。
 自分は愛されない。
 愛されたかのように見えるこの状況は、壊れることが前提だから、それがいつ来るか、今日か、今か、タイミングの問題に集約してしまう。失うことへの恐怖が悟を駆り立てる。処刑が決まっている十三階段を、一歩また一歩とゆっくり登っていくのは怖かろう。ならいっそ一気に駆け上がってしまいたくなる。
 普段の悟は論理的で、筋道を立てて思考するタイプだ。だからこそ、全く理性の及ばない部分、自分のコントロールの利かない恐怖と、折り合いをつけることに慣れていないのかもしれない。
「自分は愛されない」という公式を否定できればいいのだろうか。それも、理性の部分ではなく、心の深い深いところで。そんなことができるのだろうか。
 恐怖も感情のひとつだ。何も感じないことにしていた悟が、遼一を愛することで自分の感情を取り戻したなら、それはそれでよいことだ。前進だ。だが、この恐怖は大きい。
 遼一は立ち上がり、台所で水を飲んだ。悟の淹れてくれるコーヒーが恋しかった。遼一に愛されたくて一生懸命に、笑ったり、話題を探したり、コーヒーのおいしい淹れ方を研究したりする悟が可哀想でならなかった。そんなにしても、自分の中の恐怖に苛まれ続けて。そんなにしなくても、もう充分遼一は悟を愛しているのに。
 春に見た、悟のガラス玉のように表情のない瞳を思う。あれはあれで美しかった。だが、あまりに悲しかった。感情という感情をすべて抑え込み、押し殺してしまった者の瞳だった。遼一は遠い昔、そんな瞳を見たことがあった。美しい、悲しい、無感動な瞳を見つめていると、遼一はいてもたってもいられなくなる。何とか感情を取り戻して欲しくて、ガラスの奥に感情を探してしまう。どこかに眠っている感情を解放してもらうには、どうすればいいか、オロオロしてしまうのだ。
 してみると、遼一自身、心に傷があるのだろう。
 感情のない人間に、あの瞳に、敏感に反応してしまう、心の傷だ。
 この傷には形があって、カギとカギ穴のように、互いにピッタリはまってしまう。
 あの子の傷を治してやりたい。
 遼一は、とにかく悟が安心できるまで、ただひたすらに愛してやろうと誓った。
 遼一は再びPCを起こして時計を見た。もうすぐ悟がやってくる。
 おいしいコーヒーを淹れてもらおう。「おいしい」と褒めよう。腕が上がったなと笑ってやろう。そしてたくさんたくさん、抱きしめてやる。
 十五年分の愛情を注ごう。
 台所のすりガラスの向こうで、トン、トンと軽い足音がした。
  

 二学期の中間テストが始まっていた。
 悟は一年生のときから英語の点数が悪く、内申点の蓄積は少々心許なかった。今回、そして次回の二学期期末の点数で、この分を挽回できるかどうかの瀬戸際だった。街一番の進学校に入れれば、遼一の部屋から通うメリットをうたえる。そこでなければどこも、自宅から通うのとそう変わらない。何か条件を変えて、悟を部屋に住まわせるメリットを新たに作る必要が出てくる。
 聞き慣れた軽い足音がして、ブザーが鳴った。カギはかけていないのに、そして部屋のカギは持っているのに、相変わらず悟は行儀よくブザーを鳴らす。そうする訳が、今では遼一にも何となく分かっていた。悟は、自分のために遼一がドアを支えていてくれるのが、ドアを支えて腕を伸ばした遼一がその懐に自分を入れてくれるような短い時間が好きなのだ。最近では、悟の方から遼一の胸にキュッと身体を寄せ、照れたような顔をして慌てて離れる日もあった。
「おかえり」
 遼一はあえてそう悟を迎える。恥ずかしそうに急いで靴を脱ごうとかがんだ悟の頭を、今日はくしゃっと撫でてやった。悟は「ただいま」と返すべきか「こんにちは」と挨拶すべきなのか決めかねた様子で、口の中でもごもご言った。
「どうだった?」
「うーん。どうだろう。悪くはなかったと思うんだけど」
「手応えありだな。よしよし」
 悟は学生服を脱いでハンガーにかけた。
 遼一はPCの前へ仕事の続きをしに戻った。台所でカチャカチャと音がした。遼一は振り返った。
「悟」
 返事がない。遼一は声を張った。
「さー」
 水音で聞こえないようだ。遼一は立ち上がり台所に顔を出した。
「さーちゃん」
 悟は水を止めて振り返った。
「ん? 何?」
「今日はコーヒーはまだいいぞ。給食なかったんだろ。先にメシにしよう」
「分かった」
 遼一は手がけている作業がもうじき終わる旨を悟に伝え、再びPC前に座った。悟は素直に床のテーブルに向かい、明日のテスト科目をさらい始めた。
 くしゅんと可愛い声がした。
「カゼか?」
 悟は多分違うと思うと答えた。寒いのかもしれない。学生服は窮屈で肩が凝る。いつからか悟はこの部屋に「帰って」くると、それをとっとと肩から外すようになっていた。まだ暖房を焚く季節ではないが、一枚羽織るものが欲しい温度だった。
 遼一は押し入れの衣装ケースから、自分の深緑のセーターを取り出した。
「さー。腕挙げて」
「え? 何?」
「いいから」
「何だよ」
 悟が両腕を挙げたところに、遼一はセーターをズボッとかぶせ、着せてやった。
「今日はちょっと寒いもんな。カゼ引いたら大変だ」
 悟は少し目を伏せて、自分の身体には大きいセーターの胸の辺りを押さえて「ありがと」と言った。
 遼一はまたぽふんと悟の頭を撫でて、自分の仕事を片づけに戻った。
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