2-6
文字数 2,208文字
狭いソファの上で、ひとつブランケットにくるまって。
ふたりは時折ゴーッというストーブの音を聞いていた。
純香の肌はなめらかで、触れているだけで遼一を夢見心地にした。
「純香さん。俺さあ、純香さんのことが好きだよ」
遼一は純香の背をそっと撫でながら呟くようにそう言った。
「あらそう。あたしは別に好きじゃないわよ」
純香の答えはにべもない。
「うん、知ってる。いいんだそれで」
遼一は熱い何かに胸を灼かれながらまぶたを閉じた。
いいんだ、それで。
遼一は自分の腕の中で息づく大切なもの、この世で最も尊い宝物に頬を寄せた。
期末試験はさんざんだった。模試の順位も校内で百番近く一気に落ちた。
成績表を鬼のような目で舐めるように読んだ母は、最後に大きくため息をついた。
「お父さんが何て言うか」
遼一の目の前がぐらりと揺らいだ。
「俺はあんたたちを喜ばせるために勉強してるんじゃない」
歯を食いしばり、遼一は辛うじてつなぎとめた理性で努めて静かにこう言った。
「勝ち馬に乗りたいか? 冗談じゃない。俺の人生は俺のものだ。あんたがあいつを搾取する梃子として俺を産んだとしても、俺はいつまでも黙ってあんたの道具ではいない」
母も黙ってはいなかった。男の罵声に怯む女ではない。
「一丁前に偉そうなことをほざいてんじゃないよ、この莫迦。あたしはあんたのためを思って」
「要らねえよ」
遼一は母の手から成績表をもぎ取って、廊下へ続く居間の扉を勢いよく開けた。その背に浴びせた母の捨て台詞に、遼一の背中は凍りついた。
「ほどほどにしときなさいよ、裏の小屋へ通うのは」
あんたにしては随分とうまくやったじゃないの。
母の哄笑が耳に響いた。
クリスマス。冬休み。正月。遼一の記憶からそうした季節の行事はすっぽり抜けている。
ただ暗い冬の夜、風に震える窓枠の音、煙突からの風にバチバチと爆ぜる古い灯油ストーブの音だけが残っている。
作業場の明かりを点けず、カンテラとストーブの炎の光に浮かび上がる純香の白い肌。ブランケットにくるまって隙間風を防いでいると、肌の奥から吹き上がる熱量。
そうして何度逢瀬を重ねたことだろう。
ついに、あの夜がやってきた。
「誰だ。ここで何をしている」
低い男の声がした。
ブランケットを引き剥がされた。いきなりの眩しさが遼一の目を灼いた。太い指に二の腕をつかまれ、ソファを引きずり下ろされた。
純香は露わになった白い素肌を曝していた。
(寒いから。純香さん、寒いから早くくるまって)
どこか現実味を失った風景に、遼一は叫んだ。
頬かどこかをぶたれたようだ。物音に何人かが駆けつけたようだ。取り囲まれて、遼一はブランケットごと作業場を引きずり出された。
「遼一っ!」
悲鳴に近い母の声がする。
遼一は母屋の納戸に、衣服とともに放り込まれた。
失敗、したのだ。
殴られた頬、引きずられたときにできた全身の擦り傷。痛みが遼一に何が起きたか知らしめた。多分、父の怒りはもっともだ。それだけのことを自分はしたのだ。
妙に現実感がない。
(純香さん……)
自分はいい。この世界は自分が長くいる場所じゃない。どうせ出ていく。だが。
「純香さん!」
遼一は外から鍵のかかった納戸の扉を力の限り叩いた。扉に体当たりした。あらん限りの力を振り絞って。声の限りに純香の名を呼んだ。
「父さん! 母さんでもいい。誰か、誰かいないのか。俺の話を聞いてくれ……!」
拳に新たな傷がついた。木製扉のささくれが刺さったのか。舐めるとしょっぱく血の味がした。
(純香さん……)
今頃純香はどんな目に遭わされているだろう。遼一は父の人柄をよく知らない。彼が姉をどんな目に遭わせるか、全く想像がつかない。もし。
もし、純香がこのままここに居づらいほどの目に遭わされたら。
一緒に逃げよう。
あの細い指を握りしめて、どこか遠くに連れていこう。
そうしてふたり、人生をやり直すんだ。
じゃらじゃらと重く自分たちを縛る血の鎖の見えないところで。
そうすれば、きっと純香も、自分の人生を思い出す。自分の気持ち、自分の意志、そうしたものを、意識の深い澱から探し出せるようになるはずだ。
「純香さん……」
遼一は扉に叩きつけた拳の上で、小さな子供のように泣きじゃくって夜を明かした。
愛しいひとの名を呟きながら。
納戸の明かり取りの小さな窓から、冬の弱い光が差し込んだ。朝だ。
しばらくすると、ガチャリと扉の鍵が開けられ、朝食を載せたトレイを差し込まれた。
母だった。
母は目を真っ赤に腫らし、「莫迦だね」と小さく呟いた。
遼一は開いた扉に突進した。母が遼一の腰にすがってそれを止めた。トレイに載せられたコーヒーのポットが倒れた。黒っぽい液体が湯気を立てて納戸の床に拡がった。
母と子は、ホコリっぽい納戸の床に倒れたまま泣いていた。
「莫迦だね」
母はもう一度言った。
「母さん……泣いてるの?」
遼一は涙で母の表情が見えなかった。
「ごめん。俺のせいだ。全部俺のせいだ。あのひとは悪くない。全部俺が悪いんだ」
だから、罰するなら全ての罪を自分に。
純香は今どこでどうしているか。自分の居心地のよいベッドで眠れていたか。ぶたれて傷つけられてはいないか。自分はいくらぶたれてもいい。殴るなら全部俺に。
「頼むから、ここでおとなしくしていてちょうだい」
母は泣きながらそう言い残して再び納戸の鍵をかけた。
ふたりは時折ゴーッというストーブの音を聞いていた。
純香の肌はなめらかで、触れているだけで遼一を夢見心地にした。
「純香さん。俺さあ、純香さんのことが好きだよ」
遼一は純香の背をそっと撫でながら呟くようにそう言った。
「あらそう。あたしは別に好きじゃないわよ」
純香の答えはにべもない。
「うん、知ってる。いいんだそれで」
遼一は熱い何かに胸を灼かれながらまぶたを閉じた。
いいんだ、それで。
遼一は自分の腕の中で息づく大切なもの、この世で最も尊い宝物に頬を寄せた。
期末試験はさんざんだった。模試の順位も校内で百番近く一気に落ちた。
成績表を鬼のような目で舐めるように読んだ母は、最後に大きくため息をついた。
「お父さんが何て言うか」
遼一の目の前がぐらりと揺らいだ。
「俺はあんたたちを喜ばせるために勉強してるんじゃない」
歯を食いしばり、遼一は辛うじてつなぎとめた理性で努めて静かにこう言った。
「勝ち馬に乗りたいか? 冗談じゃない。俺の人生は俺のものだ。あんたがあいつを搾取する梃子として俺を産んだとしても、俺はいつまでも黙ってあんたの道具ではいない」
母も黙ってはいなかった。男の罵声に怯む女ではない。
「一丁前に偉そうなことをほざいてんじゃないよ、この莫迦。あたしはあんたのためを思って」
「要らねえよ」
遼一は母の手から成績表をもぎ取って、廊下へ続く居間の扉を勢いよく開けた。その背に浴びせた母の捨て台詞に、遼一の背中は凍りついた。
「ほどほどにしときなさいよ、裏の小屋へ通うのは」
あんたにしては随分とうまくやったじゃないの。
母の哄笑が耳に響いた。
クリスマス。冬休み。正月。遼一の記憶からそうした季節の行事はすっぽり抜けている。
ただ暗い冬の夜、風に震える窓枠の音、煙突からの風にバチバチと爆ぜる古い灯油ストーブの音だけが残っている。
作業場の明かりを点けず、カンテラとストーブの炎の光に浮かび上がる純香の白い肌。ブランケットにくるまって隙間風を防いでいると、肌の奥から吹き上がる熱量。
そうして何度逢瀬を重ねたことだろう。
ついに、あの夜がやってきた。
「誰だ。ここで何をしている」
低い男の声がした。
ブランケットを引き剥がされた。いきなりの眩しさが遼一の目を灼いた。太い指に二の腕をつかまれ、ソファを引きずり下ろされた。
純香は露わになった白い素肌を曝していた。
(寒いから。純香さん、寒いから早くくるまって)
どこか現実味を失った風景に、遼一は叫んだ。
頬かどこかをぶたれたようだ。物音に何人かが駆けつけたようだ。取り囲まれて、遼一はブランケットごと作業場を引きずり出された。
「遼一っ!」
悲鳴に近い母の声がする。
遼一は母屋の納戸に、衣服とともに放り込まれた。
失敗、したのだ。
殴られた頬、引きずられたときにできた全身の擦り傷。痛みが遼一に何が起きたか知らしめた。多分、父の怒りはもっともだ。それだけのことを自分はしたのだ。
妙に現実感がない。
(純香さん……)
自分はいい。この世界は自分が長くいる場所じゃない。どうせ出ていく。だが。
「純香さん!」
遼一は外から鍵のかかった納戸の扉を力の限り叩いた。扉に体当たりした。あらん限りの力を振り絞って。声の限りに純香の名を呼んだ。
「父さん! 母さんでもいい。誰か、誰かいないのか。俺の話を聞いてくれ……!」
拳に新たな傷がついた。木製扉のささくれが刺さったのか。舐めるとしょっぱく血の味がした。
(純香さん……)
今頃純香はどんな目に遭わされているだろう。遼一は父の人柄をよく知らない。彼が姉をどんな目に遭わせるか、全く想像がつかない。もし。
もし、純香がこのままここに居づらいほどの目に遭わされたら。
一緒に逃げよう。
あの細い指を握りしめて、どこか遠くに連れていこう。
そうしてふたり、人生をやり直すんだ。
じゃらじゃらと重く自分たちを縛る血の鎖の見えないところで。
そうすれば、きっと純香も、自分の人生を思い出す。自分の気持ち、自分の意志、そうしたものを、意識の深い澱から探し出せるようになるはずだ。
「純香さん……」
遼一は扉に叩きつけた拳の上で、小さな子供のように泣きじゃくって夜を明かした。
愛しいひとの名を呟きながら。
納戸の明かり取りの小さな窓から、冬の弱い光が差し込んだ。朝だ。
しばらくすると、ガチャリと扉の鍵が開けられ、朝食を載せたトレイを差し込まれた。
母だった。
母は目を真っ赤に腫らし、「莫迦だね」と小さく呟いた。
遼一は開いた扉に突進した。母が遼一の腰にすがってそれを止めた。トレイに載せられたコーヒーのポットが倒れた。黒っぽい液体が湯気を立てて納戸の床に拡がった。
母と子は、ホコリっぽい納戸の床に倒れたまま泣いていた。
「莫迦だね」
母はもう一度言った。
「母さん……泣いてるの?」
遼一は涙で母の表情が見えなかった。
「ごめん。俺のせいだ。全部俺のせいだ。あのひとは悪くない。全部俺が悪いんだ」
だから、罰するなら全ての罪を自分に。
純香は今どこでどうしているか。自分の居心地のよいベッドで眠れていたか。ぶたれて傷つけられてはいないか。自分はいくらぶたれてもいい。殴るなら全部俺に。
「頼むから、ここでおとなしくしていてちょうだい」
母は泣きながらそう言い残して再び納戸の鍵をかけた。