5-3

文字数 2,424文字

「それ、校則違反じゃないのか。チャラチャラしやがって」
 体育の時間、更衣室の隅で悟が急いで着替えをしていると、首の銀鎖を見とがめられた。
 ガキ同士が足の引っ張り合いか。面倒な。
 悟はうんざりした。声のした斜め後ろをチラと見た。
 石川だった。
「公式の用件以外で話しかけるなよ」
 悟は手許に視線を戻し、手早く脱いだ制服をたたんだ。石川はなおも食い下がった。
「俺たちには規則に従う義務があるからな。規則イコール公式だ」
 みな次々と着替えを終え、体育館へ出ていく。悟はこういうときのために用意しておいた説明を繰り出した。
「これは宗教上のものだから。校則だって信教の自由は……」
 それに校則は華美な装飾を戒めるものであって……。悟はその先の答弁も用意していたが、石川はそれを遮った。
「宗教? 大したもんだな」
 悟は取り合わず石川の前を横切った。石川は押し殺した声で鋭く言った。
「あの男だろ。お前の首にそれをかけたのは」
 悟の足が止まった。
「自分を守ってくれた男にはホイホイついていくってか」
 石川の声は苦かった。
「いい気になってんじゃねえよ。お前なんか、おとなしく俺の人形になって殴られてれればいいんだ」
 悟はそこにある余剰を聞きとった。石川が初めて見せた隙だった。悟はそれを聞き逃さなかった。その隙にすかさず反撃の一打を叩きこんだ。
「それ何? 嫉妬?」
 そう言われた石川は、どんな顔をしているのか。悟には振り返って確認する気もなかった。悟は急いで更衣室を後にした。
 石川は追いかけてこなかった。

 その日の夕、悟は台所でコーヒーを淹れながら、体育の授業の前にあったことを遼一に報告した。
「……て訳なんだよ、遼一さん。冗談じゃないよね」
 面倒なことにならなきゃいいけど。そう言いながら悟はふきんで薬缶の持ち手をくるみ、慎重にドリッパーに湯滴を落とした。
 遼一は隣で頭を抱えた。
「さーちゃん、頼むからそう男の劣情を挑発しないで」
「何だよ、『男の劣情』って。キモチ悪いな」
 悟は心底嫌そうに顔を歪めた。
「あの彼は、サディストだったってことだろ」
「えー。僕を殴って感じてたってこと?」
 遼一は傍らの悟の頬に触れた。
「この可愛い顔が痛みで歪むのがあまりにキレイで、ハマっちゃったんだろうなあ」
 満更分からないでもない。リビドーが破壊衝動と相まって、好きな子を徹底的にいじめてしまう心理もあるだろう。遼一には共感する部分もあるが、とても許せることではなかった。十年にわたり、悟を決定的に壊さない範囲で暴力を振るい続けた異常性。その理由の一端はそれか。
「大体、何で見えたんだ。夏じゃあるまいし、鎖骨が見えるような服装しないよな。着替えを凝視してたのか」
 詰め襟の学生服の下はカッターシャツだし、体育の時間もジャージを着る。悟は肩をぶるっと震わせた。
「それは僕も思った」
「よほどお前の身体が気になるんだろうな」
 悟の顔が快楽に歪むのは確かに美しい。それを見るために、遼一はいつも全身全霊で尽くす。あの表情を、声を味わうそのときは、天国のようだ。それが手に入らないなら、痛みに堪える姿を求めるしかない。悟は遼一のものだった。
「キモチ悪いこと言わないで」
 悟は憮然としてそう言った。
「そう外れてもいないと思うがな」
 今日の悟のエピソードを聞いて、遼一は確信した。そして多分石川本人も、自分の衝動の正体に気づいていない。
「ああ、やっぱあのとき、二、三発殴っときゃよかった」
 遼一は悟に、今後絶対石川と閉鎖空間でふたりにならないよう厳命した。悟は遼一の懸念のどこまで理解したのか、気味悪がって遼一の注意には従うことにしたようだ。
「お前ら受験で、欲望が強めに抑圧されてて、暴発しがちだからな」
「そうだね。僕には遼一さんがいてくれて、欲しいときには欲しいだけくれるから。暴発したりしないけど」
 悟はポットの目盛を確認して薬缶を下ろした。
「またそうやって劣情を刺激する」
 遼一は流しにもたれて悟を軽く横目でにらんだ。
「劣情じゃない。純愛だよ」
 悟は遼一を見上げた。黒い瞳には明るい生命の光が宿る。
「欲しいか」
「まだいい。今日は勉強する」
「余裕だな」
「うん。だって、焦ってあなたを独り占めしようとがんばらなくてもいいでしょ。あなたは、僕だけのものなんだから」
「じゃ、キスだけ」
 遼一は唇で悟の唇に触れた。油断していた悟の顎を指でつかみ、逃げられなくさせた上で、時間をかけてゆるゆると悟の唇と舌を弄んだ。弄ばれるうち悟の呼気が熱くなった。逃れようと悟は首を振った。
「ちょっ……、遼一さん、『キスだけ』ってこんな……」
 唇が離れた瞬間悟は抗議しかけたが、させなかった。遼一は再び悟の唇を塞ぎ、とろけるような甘い感覚を与え続けた。十代の肉体を欲望の淵に追いやるには充分だった。悟の歯の隙間から切ない声がこみ上げた。
「んっ……んん……ん」
 唇が離れたとき、悟の瞳はうるんであふれていた。
「反則だよ、こんなキス」
 遼一はドリッパーを外して二つのカップに均等にコーヒーを注いだ。震える悟とカップをひとつ台所に残し、自分のカップを持って居間へ向かった。
「遼一さんのサディスト」
 恨めしそうに悟は遼一の背中をにらんだ。
「僕をこんな目に遭わせて。遼一さんだって、立派なサディストだ」
 悟の恨み言は、遼一の耳には賞賛だった。征服欲が満たされていた。
 遼一は床に座り、テーブルに向かってコーヒーを飲んだ。今日のコーヒーもいい味だった。遼一の好みの深煎り濃い目。遼一は言った。
「欲しいなら、くればいい」
 悟は悔しそうに唇をかんだ。
「今日は勉強しようと思ったのに」
 悟は遼一の傍らに膝をつき、遼一の首に腕を回した。遼一は胸に倒れ込んできた悟の軽い身体を受け止め、耳に優しく吹き込んだ。
「何が欲しい?」
「遼一さん……」
 遼一は悟の身体をそっと揺すって重ねて問うた。
「さーは、俺にどうして欲しい?」
 悟の唇が紅く開いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み