2-2
文字数 2,726文字
遼一は顔を上げた。姉の純香だった。
純香は遼一を見ると、キッと眉をつり上げた。すれ違いざま、遼一は会釈らしいものをして、さっさと出ていこうとした。純香の長い黒髪が揺れた。
「ここはあんたなんかの来るところじゃないわ」
母屋のことか。いや、この屋敷そのもののことだろう。遼一は立ち止まった。
「そうですね。俺もそう思います」
とは言え、同じ敷地に住むのなら、すれ違う事故は起こる。そのたびにからまれてはかなわない。何かひとこと、純香の気が済むような言葉をかけられれば。そう思って遼一は顔を上げ、姉の顔を見た。
不思議な感じがした。
初めて会ったのに懐かしいような、冷たいのにとても親しいひとのような。
玄関の計算された穏やかな照明が、黒い瞳に映って揺れていた。化粧っ気のなさが、かえってその造作を際立たせていた。表情はきついが、笑うと多分もっとキレイだ。
遼一は彼女から目を離せなかった。
玄関で、ふたりはしばらくお互いの顔を見つめ合っていた。
もっとも純香は遼一を見つめるというより、にらみつけていたのだったが。
引っ越したせいで学校が遠くなった遼一は、朝食を食いはぐれてしまった。母はもともと朝が弱く、ほんの二十分早く起きて食事の支度をすることができなかった。十七にもなって、食事を親に依存するのもおかしい気がした。これからは夜のうちに、軽いものを自分で用意しようかと遼一は思った。どうせ将来進学したら、ひとり暮らしをするのだから、慣れるのは早い方がいいだろう。
空きっ腹を抱えていると、意識はどうもおかしな方へ向かう。授業中遼一は、昨夜の不思議な感じを思い起こしていた。その感覚に、純香の顔をじっと眺め続けてしまった。純香には変に思われたに違いない。
何だろう。あの不思議な感じの正体は。
初めて会ったのに、昔から何度も繰り返し会ってるようなおかしな感じ。
昼間に一度作業場で、夜に母屋の玄関で会った。二度ともきつい言葉をかけられたが、このシチュエーションならどんな高邁な人格者だって毒づく。空気のように無視されるよりはマシなような気もした。
それから純香とは何度かすれ違った。
短大に通う純香は、サークルなのかバイトなのか、あまり家にいなかった。本屋に長居して遅くなった遼一が自転車を飛ばして帰ってくると、いつも違う車から純香が降りてくるのに出くわしたり。用を言いつかって母屋のお手伝いさんのところへ行くと、そんなときに限って純香が広間への階段を降りてきたり。
純香は笑わないひとのようだった。
遼一は自分がこの屋敷にいる方がおかしいと思っているので、いつも使用人のように会釈をして通り過ぎた。純香はときたま遼一をにらんだが、そうでないときは何の表情もなく、何を見ているか分からない虚ろな目をしていた。多分、何も見ていないのだ。目に映るあらゆるものに興味がないのだ。遼一もそうだった。母が喜ぶ模試の点数も、父から受け取る小遣いも、休み時間に同級生がヒソヒソ交わす艶話も、遼一の気を引くことはなかった。読みたい本が読め、生命維持に必要な栄養が摂れれば、あとはもう何も要らない。自分の人生は、自分が自分のために何かを選ぶ生活は、すべて大学に進学し、家を出てから始まるのだ。
では、純香は?
彼女は地元の短大に自宅から通っている。彼女が自分の人生を始めるのはいつからだろう。
秋が深まり、初雪が降った。
父の屋敷に入り込んでから、母は何かとハイテンションで、近くにいると疲れる。
冬休みまでの土日を、遼一は市の図書館で過ごしていた。図書館へはなるべく自転車で行きたいが、歩けば充分歩ける距離だった。秋から冬にかけては長雨が多く、気温が下がればみぞれになり雪になるので、自転車は使えない。徒歩だと行動半径が小さくなる。その日遼一は徒歩で図書館へやって来ていた。
(あーあ。こんなに晴れるなら、ちょっとがんばって自転車で来ればよかった)
遼一は軽く後悔した。休憩のために図書館を出ると、午後は小春日和で暖かだった。朝は小雨が降っていたのだ。
こうポカポカと明るい日に、屋内で勉強しているのはもったいないような気がして、遼一は息抜きがてら公園をのんびり歩いてみた。図書館は市内でもっとも大きな公園に隣接していて、近くを大きな川が流れている。街の真ん中だが、緑が多くて空気のよいところだ。
子供の歓声が聞こえた。幼稚園児くらいの子供が、ゴムボールで父親とキャッチボールをして遊んでいた。側には優しい笑顔の母親。
遼一は、父とは外で遊んでもらったことがない。誰の目があるか分からないところで、不用意な行動は避けていたのだろう。母はストレスのせいか体調不良の多いひとで、遼一をどこかへ連れていってくれることはあまりなかった。だが、この公園には散歩がてら何度も来た。小さな頃は、ここまで歩いてくるだけで、何か大きなイベントをこなしたような高揚感があったものだ。
緑があって水があって。こうした場所は、神経の疲れを癒やす効果がある。引越以来、さすがの遼一も疲れていた。今日は勉強をもう止めて、のんびり過ごす日にしてみようか。そう思ったとき。
目の前のベンチに、見覚えのある姿があった。
背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪が、秋風に揺れていた。
遼一は足を止めた。
淡くくすんだピンクのトレンチコートから伸びた華奢な脚が、やけに寒そうに見えた。
純香だった。
遼一は、気づかれぬうちに通り過ぎようとした。再び歩き出したちょうどそのとき、風が吹いた。あおられた髪に純香は顔をこちらに向けた。
目が合ってしまった。
慌てて会釈をし、立ち去ろうとした遼一を、純香は呼び止めた。
「遼一くん!」
初めて、名を呼ばれた。
遼一は観念して、ベンチの純香の隣に座った。
「何でこんなとこにいるの?」
憎しみのこもっていない純香の声も、初めてだった。
「勉強、してました。そこの図書館で」
「へえ。優秀ね」
「そんなことないです」
「別に謙遜しなくていいのよ」
遼一は何と答えてよいか分からず、下を向いた。
じっと黙っているのも気詰まりだった。遼一も同じように聞いてみた。
「純香さんは、ここで何をしてたんですか?」
「別に何も」
「何も?」
「そう、何も。行くとこないから、あたし」
純香の語りは抑揚がなく、無感動だった。
「行くとこって……お家があるじゃないですか」
遼一と違って。あの家は純香の家だ。純香は黙ったまま返事をしない。
「……今日は彼氏さん、いないんですか」
遼一はそう言ってすぐに、しまったと思った。嫌味に聞こえたかもしれない。純香は気にする風もなく、
「誰もつかまらないときもあるのよ」
と答えた。
純香は遼一を見ると、キッと眉をつり上げた。すれ違いざま、遼一は会釈らしいものをして、さっさと出ていこうとした。純香の長い黒髪が揺れた。
「ここはあんたなんかの来るところじゃないわ」
母屋のことか。いや、この屋敷そのもののことだろう。遼一は立ち止まった。
「そうですね。俺もそう思います」
とは言え、同じ敷地に住むのなら、すれ違う事故は起こる。そのたびにからまれてはかなわない。何かひとこと、純香の気が済むような言葉をかけられれば。そう思って遼一は顔を上げ、姉の顔を見た。
不思議な感じがした。
初めて会ったのに懐かしいような、冷たいのにとても親しいひとのような。
玄関の計算された穏やかな照明が、黒い瞳に映って揺れていた。化粧っ気のなさが、かえってその造作を際立たせていた。表情はきついが、笑うと多分もっとキレイだ。
遼一は彼女から目を離せなかった。
玄関で、ふたりはしばらくお互いの顔を見つめ合っていた。
もっとも純香は遼一を見つめるというより、にらみつけていたのだったが。
引っ越したせいで学校が遠くなった遼一は、朝食を食いはぐれてしまった。母はもともと朝が弱く、ほんの二十分早く起きて食事の支度をすることができなかった。十七にもなって、食事を親に依存するのもおかしい気がした。これからは夜のうちに、軽いものを自分で用意しようかと遼一は思った。どうせ将来進学したら、ひとり暮らしをするのだから、慣れるのは早い方がいいだろう。
空きっ腹を抱えていると、意識はどうもおかしな方へ向かう。授業中遼一は、昨夜の不思議な感じを思い起こしていた。その感覚に、純香の顔をじっと眺め続けてしまった。純香には変に思われたに違いない。
何だろう。あの不思議な感じの正体は。
初めて会ったのに、昔から何度も繰り返し会ってるようなおかしな感じ。
昼間に一度作業場で、夜に母屋の玄関で会った。二度ともきつい言葉をかけられたが、このシチュエーションならどんな高邁な人格者だって毒づく。空気のように無視されるよりはマシなような気もした。
それから純香とは何度かすれ違った。
短大に通う純香は、サークルなのかバイトなのか、あまり家にいなかった。本屋に長居して遅くなった遼一が自転車を飛ばして帰ってくると、いつも違う車から純香が降りてくるのに出くわしたり。用を言いつかって母屋のお手伝いさんのところへ行くと、そんなときに限って純香が広間への階段を降りてきたり。
純香は笑わないひとのようだった。
遼一は自分がこの屋敷にいる方がおかしいと思っているので、いつも使用人のように会釈をして通り過ぎた。純香はときたま遼一をにらんだが、そうでないときは何の表情もなく、何を見ているか分からない虚ろな目をしていた。多分、何も見ていないのだ。目に映るあらゆるものに興味がないのだ。遼一もそうだった。母が喜ぶ模試の点数も、父から受け取る小遣いも、休み時間に同級生がヒソヒソ交わす艶話も、遼一の気を引くことはなかった。読みたい本が読め、生命維持に必要な栄養が摂れれば、あとはもう何も要らない。自分の人生は、自分が自分のために何かを選ぶ生活は、すべて大学に進学し、家を出てから始まるのだ。
では、純香は?
彼女は地元の短大に自宅から通っている。彼女が自分の人生を始めるのはいつからだろう。
秋が深まり、初雪が降った。
父の屋敷に入り込んでから、母は何かとハイテンションで、近くにいると疲れる。
冬休みまでの土日を、遼一は市の図書館で過ごしていた。図書館へはなるべく自転車で行きたいが、歩けば充分歩ける距離だった。秋から冬にかけては長雨が多く、気温が下がればみぞれになり雪になるので、自転車は使えない。徒歩だと行動半径が小さくなる。その日遼一は徒歩で図書館へやって来ていた。
(あーあ。こんなに晴れるなら、ちょっとがんばって自転車で来ればよかった)
遼一は軽く後悔した。休憩のために図書館を出ると、午後は小春日和で暖かだった。朝は小雨が降っていたのだ。
こうポカポカと明るい日に、屋内で勉強しているのはもったいないような気がして、遼一は息抜きがてら公園をのんびり歩いてみた。図書館は市内でもっとも大きな公園に隣接していて、近くを大きな川が流れている。街の真ん中だが、緑が多くて空気のよいところだ。
子供の歓声が聞こえた。幼稚園児くらいの子供が、ゴムボールで父親とキャッチボールをして遊んでいた。側には優しい笑顔の母親。
遼一は、父とは外で遊んでもらったことがない。誰の目があるか分からないところで、不用意な行動は避けていたのだろう。母はストレスのせいか体調不良の多いひとで、遼一をどこかへ連れていってくれることはあまりなかった。だが、この公園には散歩がてら何度も来た。小さな頃は、ここまで歩いてくるだけで、何か大きなイベントをこなしたような高揚感があったものだ。
緑があって水があって。こうした場所は、神経の疲れを癒やす効果がある。引越以来、さすがの遼一も疲れていた。今日は勉強をもう止めて、のんびり過ごす日にしてみようか。そう思ったとき。
目の前のベンチに、見覚えのある姿があった。
背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪が、秋風に揺れていた。
遼一は足を止めた。
淡くくすんだピンクのトレンチコートから伸びた華奢な脚が、やけに寒そうに見えた。
純香だった。
遼一は、気づかれぬうちに通り過ぎようとした。再び歩き出したちょうどそのとき、風が吹いた。あおられた髪に純香は顔をこちらに向けた。
目が合ってしまった。
慌てて会釈をし、立ち去ろうとした遼一を、純香は呼び止めた。
「遼一くん!」
初めて、名を呼ばれた。
遼一は観念して、ベンチの純香の隣に座った。
「何でこんなとこにいるの?」
憎しみのこもっていない純香の声も、初めてだった。
「勉強、してました。そこの図書館で」
「へえ。優秀ね」
「そんなことないです」
「別に謙遜しなくていいのよ」
遼一は何と答えてよいか分からず、下を向いた。
じっと黙っているのも気詰まりだった。遼一も同じように聞いてみた。
「純香さんは、ここで何をしてたんですか?」
「別に何も」
「何も?」
「そう、何も。行くとこないから、あたし」
純香の語りは抑揚がなく、無感動だった。
「行くとこって……お家があるじゃないですか」
遼一と違って。あの家は純香の家だ。純香は黙ったまま返事をしない。
「……今日は彼氏さん、いないんですか」
遼一はそう言ってすぐに、しまったと思った。嫌味に聞こえたかもしれない。純香は気にする風もなく、
「誰もつかまらないときもあるのよ」
と答えた。