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文字数 2,511文字

 頼む、と遼一は悟に手を合わせた。
「えー、遼一さんの仕事相手のひとの前に、僕なんかが行っていいの?」
 大丈夫? 悟は心配げにそう尋ねた。
「親戚の子を連れてきたって言うよ。『独身男が子供の相手なんて、いろいろ支障があると思って』、そう言えば大概通るだろう」
 遼一のような三十男が未成年を連れ回すのは、諸方面に問題があるものだ。ある程度対策を講じておいた方がいい。こうした方面に気を回すたび、遼一の胸は少し痛む。悟との交際は、本来なら回避すべき性質のものだった。まだ幼い肉体と愛し合うのは、搾取とされても反論できない。だが、あのとき、遼一が手を離してしまえば、せっかく生き返ろうとしていた悟の心が死んでいた。罪科を課されても、失いたくなかった。
 約束の時間に郊外にある取引先の社屋へ向かうと、十歳の少女を託された。がっしりした体格の母親に背中を押されたその少女は、美術館に行きたがっていた。
「カーチャです、村上さん」
 通訳担当の外注スタッフが、ニッコリと紹介の労を執った。
「さあ行こう、カーチャ」
 悟も負けずにニッコリ笑って、少女の小さな手を取った。悟を連れてきてよかったと遼一は胸を撫で下ろした。
 美術館までは車で二〇分と読んだが、日曜のことで一五分かそこらで着いた。美術館は公園に接している。昔図書館があった場所の、公園をはさんで反対側だ。メジャーな展示をしていないせいか、駐車場は空いていた。遼一は悟にカーチャの手を引かせ、三人分のチケットを買った。これは後で経費として精算させてもらう。
 悟が自分と歳近く、小綺麗な(なり)をしているせいか、カーチャは嫌がらずに手をつながれていてくれた。目を離した隙に見えなくなったりしたら、国際問題になりかねない。遼一は、カーチャと悟の三語文程度の会話を通訳するだけでよかった。
 カーチャは絵画が好きらしかった。明るい色の風景画の前を、一枚一枚、ゆっくりと少女は見て歩いた。悟もカーチャにペースを合わせ、ゆっくりゆっくり歩いた。通訳の都合上、遼一はふたりの背後に控えてつき添ったが、絵を見ている間は言葉も少なかった。遼一は絵よりも悟に目が行った。子供のペースに合わせて歩き、段差では手を握ったまま立ち止まって待ち、少女が何か言ったときには笑顔で礼儀正しく返事をする。なかなかのエスコート振りだった。暗い展示室に、白いうなじから耳、頬にかけての曲線が浮かび上がる。その首筋に触れたくなった。細い首と、うぶ毛の感触。
 悟は十五歳、そして目の前のカーチャは十歳だ。五歳違いの恋人なんて、珍しくもない。自分たち三人はどちらかというと、微笑ましい小さなカップルと、それを見守る保護者の組み合わせである方が自然だった。このカーチャと恋に落ちることはないにしても、いつか悟に年回りのよい恋人ができる日が来るのだろうか。そのとき、自分はどうするだろう。今少女の手を握っている悟の細い指を、手放すことができるだろうか。
 そうしてひとり残された自分は、また何の目的もない人生に戻るのだろうか。
 冷たい恐怖を背に感じた。
「まだ時間があるな」
 遼一は腕時計を見て呟いた。展示室を出た後、売店で風景画の絵ハガキを買った。悟の提案だった。土産に、ふたりでカーチャにそれをプレゼントすると、カーチャは可愛らしく笑って礼を言った。
「ケーキかパフェで、お茶はどう?」
 悟は商店街へ足を伸ばそうと言った。女の子なら喜ぶだろう。遼一は少し考えて、首を振った。
「街に入ると、車を停める場所を探すのが大変だ」
 このまま美術館に置いていけば駐車場代が高くつくし、街からここまで戻ってくるのも面倒だ。
「じゃあ、公園を散歩しようか」
 悟に促され、遼一はカーチャに「公園を少し散歩するのは気に入るか」と尋ねた。カーチャは機嫌よく同意した。
 駐車場に車を置いたまま、美術館の公園側の出入り口から三人は芝生の中へ進んでいった。池のほとりを、少女のペースに合わせてのんびり歩いた。カーチャは「あれは何か」「それは何をするものか」などいくつか質問した。日常語の語彙はがっかりするほど錆びていて、遼一は慌ててスマートフォンを取り出し、翻訳ソフトを起動させた。便利な世の中になったものだ。悟がそのさまを見てクスクスと笑った。遼一は悟を肘でつついて反撃した。
 唐突に、カーチャは振り返った。
『二人は恋人なの?』
 遼一は動きを止めた。
「ねえ、彼女何て言ってるの?」
 通訳を催促した悟に、早口にその問いを翻訳して伝えるだけは伝えた。たが、彼女には何と答えたものか。
『大丈夫よ。誰にも言わないわ』
 カーチャはまた笑って言った。
「当たり。よく分かったね」
 悟は目を丸くして答えた。職務上遼一はそれを訳した。
 カーチャは楽しそうに笑ってうなずいた。
『分かるわよ。仲よさそうだもん。』
 わたしのママもね、女のひとの恋人がいるんだ。外ではナイショって言われてるけど、あなたたちになら、言ってもいいわよね。ひそひそ話の要領で、カーチャは二人の耳許でそう言った。
『ママにはナイショよ』
 カーチャはそう言ってウインクした。
 売店のあった辺りに建物はすでになく、自動販売機とベンチがいくつか並んでいた。
 遼一はそこで、二人にはアイスを、自分には熱いコーヒーを買った。
 池のほとりのベンチに二人は座り、アイスを食べながら何てことのない会話を、ぽつりぽつりと交わしていた。遼一はそれを機械的に訳してやった。
 カーチャの髪はブルネットというのか、やや暗めの茶色だった。日本人でも、色素の薄い子なら近い色はある。頭の上の方にリボンを結び、あとはゆったりと髪を肩に下ろしていた。時折風が髪を揺らした。
 池の向こうでは、家族連れが遊んでいた。子供の明るい声が遠く聞こえていた。
 変わったものと、変わらないもの。
(今度来るときは恋人とおいで)
 子供をあやすように笑う、記憶の中のおばさんの声。
 あのとき遼一の隣にいたのは、おばさんの言う通り、恋人にはなれないひとだった。あれから十数年。
 遼一は悟の肩に手を置いて、曇り空を見上げた。夕映えをその厚みの向こうに隠して、雲は温かな色をしていた。
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