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文字数 2,335文字

 遼一はそこで二晩監禁された。
 さすがに退屈して、二日目は食事を運んだお手伝いさんに、離れに置いた読みかけの本を差し入れてくれるよう頼んだ。冷ややかな態度のまま、お手伝いさんは遼一の頼みを聞いてくれた。納戸の弱い灯りと、薄ぼんやりした冬の明かりは、読書するには向かなかった。それでも遼一はページをめくった。それ以外にすることがなかったからだ。
 そうしていないと、今純香はどんな目に遭わされているか、せっかく感情を表しそうになっていた彼女の瞳がどれだけ無表情に戻ってしまったか、苦しくなって息ができなかった。
 翌々日の午後、冬の弱い陽が翳る頃に、ようやく遼一は納戸を出され、広間に引き出された。許されたのではないことは明らかだった。広間には父と、母と、全く表情のない純香がいた。暖炉を模した暖房はついていたが、広間の空気は張りつめて冷たかった。
 遼一はどんな判決が下されても平気な顔をしていようと、唇を引き締めて前を見た。
「お前は自分が何をやったか、分かっているのか」
 苦々しく父が言った。
「あなた方は何をやってきたか、分かっているんですか」
 遼一は真っ直ぐ前を見たまま言い返した。
 父が勢いよく遼一の頬をぶった。経営者となって長いとはいえ、建設業で力仕事に従事してきた拳だ。遼一の身体は吹き飛ばされ壁に打ちつけられた。
 痛みに遼一は壁際にうずくまった。母が哀れな息子の姿に、こらえきれずにすすり泣いた。
「行動には結果がついて回る。お前はその責任を取らなければならない」
「……もちろんです」
 自分はいい。何をされてもいい。
「俺のことは好きにしてくれて構いません。純香さんさえ」
 遼一は唇を噛みしめた。大きく息を吸い込んだ。そうして、言った。
「純香さんさえ、自由にしてくれたら。俺のことはどうでもいいですから。だから父さん、お願いします。純香さんを解放してあげてください」
 会社のために結婚なんて悲しすぎる。いつの世の話だ。時代錯誤にもほどがある。そして、そうするのが当然だと思わされてるなんて。
 遼一の言葉は父を再び激高させた。父は拳を握りしめそれを高く掲げた。母が何か叫び声を上げた。ようやく父は思いとどまり、腕を下ろした。唇を皮肉に曲げて、憎々しげに遼一に言った。
「お前がそれを言うとはな」
 遼一も父の拳をガードしようと上げた腕を下ろした。広間を見上げると、すすり泣く母の隣に、純香が青白い顔をして座っていた。どこを見ているのか、虚ろな表情は変わらない。
 父はふんと鼻を鳴らして暖炉の前の安楽椅子に腰掛けた。クッションがぼふと音を立てた。
「これは来月嫁にやる。式は卒業式が終わってすぐだ。お前がこれの姿を目にするのも今日が最後だ」
 遼一は慌てて身を起こした。遼一がまくし立てようとするのを父が遮った。
「誰のせいで話を早めなければならなくなったと思ってるんだ。全く、新居だってまだ用意できていないのに」
 この業界で生きるもの、自分の住む家はカタログ、看板だ。ひとが見ていいなあと思われる家に住まないと、入る注文も入らないのに。苦々しく父はそうぼやいた。遼一の視覚と聴覚は、ベールに隔てられたように遠くなった。
「そんな……」
 二日間で純香の縁談を進め、新婚夫婦の住処を探し、式の日取りを決めたのだ。それを邪魔させないために遼一を監禁していたのだった。遼一は悔しさのあまり涙がこぼれた。
「そんな……」
 遼一は流れる涙を拳で拭った。
「純香さん! 純香さんはそれでいいの? 自分の人生を取り戻さなくていいの? 俺と一緒にここから出よう。俺のことは嫌いでいいから」
 遼一は自分の敗北を悟っていた。遼一の叫びに、純香は微動だにしなかったのだから。だが遼一は自分の想いを止められなかった。
「俺を嫌いでもいいから……、だから、純香さん、お願いだよ……」
 泣きじゃくりながら、それでも遼一は叫んでいた。
「純香さん……」
 広間の床は冷たかった。ぼやけた視界の向こうで、純香がゆっくりと口を開いた。
「……あんたなんか好きじゃない」
 張りつめた、彫像のような冷たい表情。
「あんたがあたしを見るたびに、申し訳なさそうな顔するのがうっとうしくてたまらなかった。あたしがにらむたびに、気の毒そうにあたしを見るのも腹が立った」
 遼一はいたたまれなくなって目を背けた。純香は抑揚のない声で、詠唱するように呟き続けた。
「すれ違うたびに、わたしの気を紛らわせるような言葉を探して、見つからなくて――。そうして頭を下げて通りすぎる、優しいところ……」
 純香の咽がひくっと鳴った。遼一は顔を上げた。
「あたしが投げやりな気分になるたびに、あたしの気の済むまで側にいてくれて、あたしの背中をそっとさすってくれる、あんたの手のひら」
 純香の目から大粒の涙が流れた。ステンドガラスの欠片のように、暖炉の火を反射してキラキラ光って頬から落ちた。
「全部、全部、大っ嫌い!」
 純香はキッと遼一をにらんだ。そうして絞り出すように叫んだ。
「なんであんたなんかが弟なのよ……!」
 遼一が、生まれて初めて心の底から願った、純香の感情の発露だった。
「あんたみたいな弟、……あんたなんか絶対に要らない……」
 父は大きくため息をついた。母のすすり泣きが大きくなった。
 結局、父の判断は正しかったのだった。
 遼一は春を待つことなく家を出された。再び純香の姿を見ることはなかった。
 初めて知った愛の不幸に遼一は固く心を閉ざした。
 以来、誰も近づけずひとりで生きることを遼一は選んだ。家からも血の絆からも遠く離れて。純香を連れて出ることは叶わなかった。彼女を解放する希望と引き替えに、遼一の目的は達成された。
 遼一にはもう何も望むことはなかった。
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