4-15

文字数 2,633文字

(あなたはどうせ僕のものにはなってくれないんだ)
 悟は悲しくて悲しくて、悲しすぎる自分の感情を放棄するしかできなかった。
(ならもう構わないで)
 遼一は、心の底の底では、決してそのひとを忘れていない。いくら否定されても、遼一の瞳の奥をのぞいてしまう。探してしまう、その痕跡を。
 自分がいつからその疑いを持ったか、今となってはもう分からない。が、遼一の優しいまなざしが、ときに自分を通り越して、もっと遠いところを見つめているのに気づいたとき。
 遼一の視線を取り戻すために躍起になった。いろいろがんばった。がんばればがんばるほど不安は増して――。
「俺の何が悪い?」
(悪くない。遼一さんが悪いんじゃない)
 遼一は大人の男だ。長く生きていれば、何かしらある。過去は過去と割り切って、現在を生きる遼一が自分を見てくれて、自分を愛してくれれば、もうそれでいいじゃないか。悟はそう思おうとした。よくある話じゃないか、彼氏の過去が気になるなんて。自分もそんな「よくある話」のひとつだと。
「悟は俺にどうして欲しい?」
(遼一さんは、僕の欲しいものはみんなくれた。みんなくれたのに、遼一さんのくれないものを一番欲しがる僕がダメなんだ)
 優しく見守ってくれた。その胸に抱き留めてくれた。暴れる自分がいつか安心できるのを待つと言ってくれた。快楽も愛も全部くれたのに。
 全部受け止めると怖くなる。まだ十五年しか生きていない自分は、三十二年生きている遼一の経験が怖かった。このひとを悲しませた昔の思い出は、歳をとらず遼一の心の中でどんなにか美しいことだろう。そのひとと比べられたら、子供で、女性でもない自分に勝ち目はない。
 勝ち目のない美しいゴーストに戦いを挑み続け、負け続けている。
 もう、疲れた。
(僕のことを忘れて欲しい)
 いっそ、忘れてもらえれば。戦いから降りてしまえばラクになる。そう思い続けて三ヶ月。プレッシャーから、たびたび遼一に八つ当たりしてしまう。遼一はそんな悟の八つ当たりも優しくいなしてくれて。遼一は、確かに自分を愛してくれている。そんなことは分かっている。分からないから、怖いんじゃない。分かっているから、怖いんだ。
「そうか。分かった。今まで悪かったな」
 ああ……。本当に、これで、最後なんだ。
(僕は、解放される。虚しい、空っぽな、透明なクラゲに戻るんだ)
 透き通って海を漂うクラゲなら、感情に煩わされることもない。悲しいことも、怖いこともなくなる。嬉しいこと、幸せなこともない代わりに、自由で気ままに生きていける。
 自由で気まま?
 胸が痛くて、身体中重くて、息もできないのに? 
 眠れず一晩中涙が止まらないのに? 
 大丈夫、そんな辛いのは今だけだ。すぐに痛いも重いも、感じなくなる。だって、昔からそうだったじゃないか。何も感じない、空っぽの心にきっとすぐ戻る。
 悟の手首を握っていた遼一の指から力が抜けた。悟はあえてそれを振り払わなかった。伝わってくる遼一の体温。もうこれが最後。一秒でも長くこの体温を感じていたくて。でもこの体温が心地よいと感じるのも、この温かさが涙が出るほど嬉しいのも、今だけ。ちょっとガマンすれば、きっと自分の身体からこの感情は消える。
 本当に消えるのだろうか。
 遼一は、遠い昔のひとを忘れていない。
 悟は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 今遼一から解放される自分も、実際は解放されることなく、遼一のように、何年も何年も、この手の温かさを忘れることができないとしたら。
 遼一の顔が近づいてきた。感情を切り離した悟は、無表情でいるはずだった。遼一の唇がこめかみに触れた。悟の手首から指が離れた。優しい感触。最後の、感触。
 悟の視界の隅で、遼一は悟に背を向け、もと来た方へ歩きだした。
 悟の額を、温かなしずくが伝った。
 涙――。
 遼一のこぼした、涙だった。
(遼一さん……泣いて……?)
 胸に鋭い痛みが走る。悟は振り返った。肩を落とし、ふらふらと歩く頼りない男の姿があった。遼一のこんな姿を、悟は見たことがなかった。
(僕の……せいで……)
 そのとき悟はようやく気づいた。自分がどんなに遼一を苦しめていたかということに。あんなに自分を、親よりも愛してくれたひとを、自分がどんなに傷つけていたかということに。
 自分が苦しみから逃れることばかりを考えていた。
 遼一は、自分が悟を愛することが悟を苦しめるなら、悟を諦めるとまで言ってくれたのに。そして、自分から手を離して。
 そしてこんなにボロボロになって去っていく。
 今ようやく悟にも分かった。
 自分が辛いより、もっと辛いことがこの世にあった。
 遼一が堪え忍んでいた辛さは、もしかして、悟が感じていた辛さよりも大きかったかもしれない。
 もうこらえられなかった。その背を黙って見ていられなかった。自分がこんなに誰かを苦しめたなんて。自分がこんなに傷つけてしまったこのひとは、誰より大切なひとなのに。
 悟は再び走り出した。
「遼一さん……!」
 遼一はビクリと肩を震わせて立ち止まった。
「遼一さん」
 悟は速度を緩めることなく、遼一の背中に飛びついた。遼一の身体ががくんと前へ折れた。
「遼一さん、遼一さん、遼一さん……!」
 悟は大きく首を振った。
(無理だ、僕にはやっぱり無理だ)
「ごめんな……さい」
 悟は遼一の苦しみを放置することができなかった。
「やっぱり僕……僕は……」
 遼一はゆっくりと振り返った。
 表情の抜け落ちた、生気のない瞳で、遼一は悟に小さく訊いた。
「本心か」
 悟は遼一を見上げたまま、コクリと一度うなずいた。
 遼一の腕が、すがりつくように強く悟の身体を抱きしめた。
 
 遼一はしばらくそうしていたが、やがて悟の身体を離し、助手席の扉を開けた。悟が乗り込むのを黙って待ち、遼一は扉を閉めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
 悟は助手席で泣きじゃくった。
 遼一は無言で運転席にいた。悟の泣き声を聞いていた。
 拳で、手の甲で、拭いきれないほどの涙でぐしぐしになって、悟は遼一に許しを乞うた。
 フロントガラスが曇ってきた。初冬の夕闇が下りていた。
「いい。もうやめろ。謝って欲しいわけじゃない」
 遼一はポケットからハンカチを取り出した。悟は責められると思ったのか、びくりと肩を震わせた。遼一は悟を責めなかった。悟の指の隙間から涙に濡れた頬を拭った。
 取り出したハンカチをそのまま悟の指に握らせ、無言で車のエンジンをかけた。
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