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文字数 2,554文字
雪が降って、そして融けた。
北国の冬は、これを繰り返して深まっていく。
二学期の期末テストは来週だった。テスト前の土日から、悟は今回も遼一の部屋で勉強漬けの毎日を過ごす。正確には、金曜の夜から合宿だ。コーヒーを淹れ、教科書を再確認して要点をまとめ、遼一の作った夕食を摂り、問題集をひたすら解いて、シャワーを浴びる。遼一は悟の淹れたコーヒーを味わい、悟の走らせるシャーペンの音を聞きながらロシア語か株かどちらかの仕事をし、時計を見て夕食を作り、好きな本を読んだり悟の勉強を見たりしながら穏やかな時間を過ごす。冬は新しい案件も少なく、契約書がらみの脂っこい仕事が減ってラクだった。今は契約先の企業が受注した、他社サイトのロシア語ページの制作が主だった。
金曜日、学校が終わって遼一の部屋にたどりつくと、悟はコーヒーを淹れる前にあることをした。いつも通りドアを支える遼一の胸に頬を寄せて、靴を脱いで台所に上がって。
首にかけた銀の鎖を外し、下げてあった指輪を指にはめる。
悟の頬は薔薇色に輝く。
悟は指輪をはめた左手を差し出した。
遼一はその手を取り、薬指に口づけした。
悟は、もう不安にさいなまれたりしない。
遼一の気持ちが間違いなく自分にあることを信じている。
その自信は、悟を、以前に増して美しくした。ただ可愛い子供のように見えた悟は、今では肌も目も輝いて眩しいほどだ。顔の骨格が変わらないのに、別人のようだった。
金曜の夜から、月曜の朝まで。学校という他人に囲まれた息苦しい空間から遠ざかり、誰の視線も気にしないこの期間、指輪は本来の場所で輝くことができる。
合宿の合間、勉強道具を入れ替えに、悟は自宅へ一度戻った。車を出そうとした遼一を押しとどめ、悟はひとりで歩いて出た。歩くと頭がスッキリしていいのだと悟は言った。冬に珍しい好天が続き、道路もよく乾いて歩きやすかった。
「ただいま」
自宅から戻り、悟は自分で扉を開けて入ってきた。
「おー、お帰り」
遼一は振り返らず、PCのモニターを見たまま言った。カチャカチャと遼一が叩くキーボードの音は止まない。翻訳業務は、ノッたとき勝負だ。
「どうだった?」
遼一は指を止めることなくそう訊いた。
「どうって?」
悟の答えに、遼一は初めて指を止めた。椅子を回転させ、戸口に立ったままの悟を振り返った。遼一は悟の答えを待った。悟はほんのり頬を赤く染めた。
「……金曜日、二時半にお願いしますって」
「分かった」
遼一は軽くうなずいてPCに戻った。
来週の金曜は、期末試験の最終日だった。給食は出ないので、多分遼一が学校まで悟を迎えに出て、何か食べてゆっくりしてから向かうことになるだろう。丁度よい時間だった。おそらく悟もそう考えて、その時間にしたはずだ。賢い、よく気を遣う子なのだった。
悟はいつものようにコーヒーを淹れた。PCデスクの上にカップをひとつ置くと、自分は静かに床のテーブルに勉強道具を拡げた。
実際、悟の母と会ったところで、何を話したらよいのだろう。間違っても、ネグレクトを責めてはいけない。悟がぽつんとひとり本を読んでいた長い時間を思うと、遼一の胸は痛む。成長につれこの子を構わなくなったというその母親を責めたくなる。人間は玩具じゃない。飽きたら放ったらかしにしていいわけがない。だが、今回の面会の目的は、遼一の側からすると「同居の許可をもらうこと」だ。わざわざ相手の機嫌を損ねることのないよう注意しよう。
だからまあ、向こうが言いたいことを言わせて黙って聞いてやり、心にもないお世辞のひとつも言って、こちらの言い分を呑むよう誘導すればいいのだ。あんたが一切構わない息子さんはとても優秀で、ご家庭の環境もよかったのだろうが、ちょっと本気で勉強すれば短期間で成績がこんなに上昇する勢いだと。将来がとても有望だと。自分も長く大学で研究してきたが、こんな優秀なお子さんは早いうちからその芽を伸ばした方がいいと。篠田家に通用するかどうか分からないが、母親というものは、息子の能力を褒められれば喜ぶものだ。社会で自分自身が評価される機会を失う母親たちは、何より自分の子供が自分の手柄であり、成績なのだ。
遼一は苦々しくそう思った。自分の母親がそうだったからだ。
日頃思い出すこともない母は、遼一がこの街を離れて数年経ち、大学院に進学した頃に亡くなった。父もすでに亡く、遼一は葬式にも納骨にも帰らなかった。母の遺骨の所在も知らない。もちろん父のもだ。この街には二度と足を踏み入れないと固く誓っていたからが半分。残りの半分は、興味がなかったからだった。自分の血の由来など、忘れていたい過去のひとつだった。
苦々しい思いを悟の淹れてくれたコーヒーの苦味で洗い流し、遼一は肩を回した。
「ああ、長く集中すると疲れるなあ。俺も歳だな」
悟は遼一の言葉に立ち上がり、遼一の肩をさすった。
「お疲れさま。遼一さん、何だかんだ言って、働き者だからな」
「『何だかんだ言って』って何だ。俺は普通に働き者だぞ」
「ふふふ」
遼一は自分の肩の上に置かれた悟の左手を取った。そこにはふたりの約束が銀色に輝いている。遼一は悟の薬指を優しくなでた。
「これ、気づかれなかったか?」
「母にはあまり近づかなかったから。そうでなくても、あのひとは僕をあまり見ないしね」
悟は、「そういえば、片桐さんが僕の手を凝視してたかも」とつけ加えた。
「片桐さんって?」
「お手伝いさん。佐藤さんじゃない方のひと」
目ざとい女性なら気づくだろう。遼一の腹は据わってきた。いずれにせよ、春からは一緒に住むのだ。ネグレクト母なんて蹴散らして、悟を孤独な家から救い出す。そうしてついでに、不倫父もそこから脱出して真実の家庭を築けばいい。母にしたところで、顔も見たくない息子と離れられて快適なのではないか。遼一はくすりと笑った。自分にしては随分脳天気な結論を導き出したものだ。
「遼一さん、何がおかしいの?」
穏やかで素直な声だった。悟は左手で遼一の指を握った。
「みんなで幸せになれそうだなと思って」
遼一はなおも笑いながらそう言った。
「よかったね」
悟は小さな子供にするように、遼一の頭をなでた。その心地よさに遼一は疲れた目を閉じた。
北国の冬は、これを繰り返して深まっていく。
二学期の期末テストは来週だった。テスト前の土日から、悟は今回も遼一の部屋で勉強漬けの毎日を過ごす。正確には、金曜の夜から合宿だ。コーヒーを淹れ、教科書を再確認して要点をまとめ、遼一の作った夕食を摂り、問題集をひたすら解いて、シャワーを浴びる。遼一は悟の淹れたコーヒーを味わい、悟の走らせるシャーペンの音を聞きながらロシア語か株かどちらかの仕事をし、時計を見て夕食を作り、好きな本を読んだり悟の勉強を見たりしながら穏やかな時間を過ごす。冬は新しい案件も少なく、契約書がらみの脂っこい仕事が減ってラクだった。今は契約先の企業が受注した、他社サイトのロシア語ページの制作が主だった。
金曜日、学校が終わって遼一の部屋にたどりつくと、悟はコーヒーを淹れる前にあることをした。いつも通りドアを支える遼一の胸に頬を寄せて、靴を脱いで台所に上がって。
首にかけた銀の鎖を外し、下げてあった指輪を指にはめる。
悟の頬は薔薇色に輝く。
悟は指輪をはめた左手を差し出した。
遼一はその手を取り、薬指に口づけした。
悟は、もう不安にさいなまれたりしない。
遼一の気持ちが間違いなく自分にあることを信じている。
その自信は、悟を、以前に増して美しくした。ただ可愛い子供のように見えた悟は、今では肌も目も輝いて眩しいほどだ。顔の骨格が変わらないのに、別人のようだった。
金曜の夜から、月曜の朝まで。学校という他人に囲まれた息苦しい空間から遠ざかり、誰の視線も気にしないこの期間、指輪は本来の場所で輝くことができる。
合宿の合間、勉強道具を入れ替えに、悟は自宅へ一度戻った。車を出そうとした遼一を押しとどめ、悟はひとりで歩いて出た。歩くと頭がスッキリしていいのだと悟は言った。冬に珍しい好天が続き、道路もよく乾いて歩きやすかった。
「ただいま」
自宅から戻り、悟は自分で扉を開けて入ってきた。
「おー、お帰り」
遼一は振り返らず、PCのモニターを見たまま言った。カチャカチャと遼一が叩くキーボードの音は止まない。翻訳業務は、ノッたとき勝負だ。
「どうだった?」
遼一は指を止めることなくそう訊いた。
「どうって?」
悟の答えに、遼一は初めて指を止めた。椅子を回転させ、戸口に立ったままの悟を振り返った。遼一は悟の答えを待った。悟はほんのり頬を赤く染めた。
「……金曜日、二時半にお願いしますって」
「分かった」
遼一は軽くうなずいてPCに戻った。
来週の金曜は、期末試験の最終日だった。給食は出ないので、多分遼一が学校まで悟を迎えに出て、何か食べてゆっくりしてから向かうことになるだろう。丁度よい時間だった。おそらく悟もそう考えて、その時間にしたはずだ。賢い、よく気を遣う子なのだった。
悟はいつものようにコーヒーを淹れた。PCデスクの上にカップをひとつ置くと、自分は静かに床のテーブルに勉強道具を拡げた。
実際、悟の母と会ったところで、何を話したらよいのだろう。間違っても、ネグレクトを責めてはいけない。悟がぽつんとひとり本を読んでいた長い時間を思うと、遼一の胸は痛む。成長につれこの子を構わなくなったというその母親を責めたくなる。人間は玩具じゃない。飽きたら放ったらかしにしていいわけがない。だが、今回の面会の目的は、遼一の側からすると「同居の許可をもらうこと」だ。わざわざ相手の機嫌を損ねることのないよう注意しよう。
だからまあ、向こうが言いたいことを言わせて黙って聞いてやり、心にもないお世辞のひとつも言って、こちらの言い分を呑むよう誘導すればいいのだ。あんたが一切構わない息子さんはとても優秀で、ご家庭の環境もよかったのだろうが、ちょっと本気で勉強すれば短期間で成績がこんなに上昇する勢いだと。将来がとても有望だと。自分も長く大学で研究してきたが、こんな優秀なお子さんは早いうちからその芽を伸ばした方がいいと。篠田家に通用するかどうか分からないが、母親というものは、息子の能力を褒められれば喜ぶものだ。社会で自分自身が評価される機会を失う母親たちは、何より自分の子供が自分の手柄であり、成績なのだ。
遼一は苦々しくそう思った。自分の母親がそうだったからだ。
日頃思い出すこともない母は、遼一がこの街を離れて数年経ち、大学院に進学した頃に亡くなった。父もすでに亡く、遼一は葬式にも納骨にも帰らなかった。母の遺骨の所在も知らない。もちろん父のもだ。この街には二度と足を踏み入れないと固く誓っていたからが半分。残りの半分は、興味がなかったからだった。自分の血の由来など、忘れていたい過去のひとつだった。
苦々しい思いを悟の淹れてくれたコーヒーの苦味で洗い流し、遼一は肩を回した。
「ああ、長く集中すると疲れるなあ。俺も歳だな」
悟は遼一の言葉に立ち上がり、遼一の肩をさすった。
「お疲れさま。遼一さん、何だかんだ言って、働き者だからな」
「『何だかんだ言って』って何だ。俺は普通に働き者だぞ」
「ふふふ」
遼一は自分の肩の上に置かれた悟の左手を取った。そこにはふたりの約束が銀色に輝いている。遼一は悟の薬指を優しくなでた。
「これ、気づかれなかったか?」
「母にはあまり近づかなかったから。そうでなくても、あのひとは僕をあまり見ないしね」
悟は、「そういえば、片桐さんが僕の手を凝視してたかも」とつけ加えた。
「片桐さんって?」
「お手伝いさん。佐藤さんじゃない方のひと」
目ざとい女性なら気づくだろう。遼一の腹は据わってきた。いずれにせよ、春からは一緒に住むのだ。ネグレクト母なんて蹴散らして、悟を孤独な家から救い出す。そうしてついでに、不倫父もそこから脱出して真実の家庭を築けばいい。母にしたところで、顔も見たくない息子と離れられて快適なのではないか。遼一はくすりと笑った。自分にしては随分脳天気な結論を導き出したものだ。
「遼一さん、何がおかしいの?」
穏やかで素直な声だった。悟は左手で遼一の指を握った。
「みんなで幸せになれそうだなと思って」
遼一はなおも笑いながらそう言った。
「よかったね」
悟は小さな子供にするように、遼一の頭をなでた。その心地よさに遼一は疲れた目を閉じた。