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文字数 2,512文字

 助手席で、悟はひっくひっくと肩を上下させていた。
 車は繁華街、悟の疑惑の根拠となった、街一番の商店街へ向かい、併行して南北を走る一本東の道で折れた。建物のひとつへ車を入れた。
「ひと前では俺を『兄さん』と呼べよ」
 遼一はただひと言悟にそう言った。
 地下駐車場の入り口から入りエレベーターで一階へ上がると、市内で最も格式高いとされるホテルのロビーだった。華やかな礼服の男女がロビーを行き交っていた。泣き腫らした顔の悟をソファに残し、遼一はフロントへ向かった。
 遼一は「続き部屋の空きはあるか」と尋ねた。受験ノイローゼ寸前の甥を教育熱心な自分の兄から一晩だけでも離し、気分をリセットさせたいのだと説明した。もちろん、その母親の依頼で動いていると匂わせて。フロント係はPCを叩き、「ございますが、あいにく寝台はひとつでして」と申し訳なさそうに言った。遼一は、自分は次の間のソファで寝るので問題ないと言った。毛布の一枚ももらえれば充分だと。フロント係はエクストラベッドを入れることを提案したが、大掛かりになると従弟が過敏に反応するので不要だと断った。いずれにせよ、万一のことがあるといけない、今夜自分は熟睡してはいけないのだからと。
 フロント係は大筋で納得したようだった。
「行くぞ」
 言葉少なにそう言って、遼一は悟を促した。悟はおとなしくついてきた。
 
 最上階のひとつ下の階でエレベータを降りた。遼一は足音もしない絨毯敷きの廊下を進んだ。悟も黙って後を続く。
「え……?」
 悟は遼一の開けた部屋に入るなり、驚きに言葉を失った。
 遼一は立ち尽くす悟をよけて部屋に入り、バーカウンターに無言でもたれた。
 荷物はとくにないとポーターは断ったが、このあと客室係が予備の毛布を持ってくる。チェックインが混み合っていたので時間は読めない。
 悟が小さな声で訊いた。
「遼一さん、どうしたの、こんな部屋」
 遼一は手許で鍵をぶらぶらさせ、無言でそれを眺めていた。
「すぐそばに遼一さんのウチがあるのに、どうして……」
 遼一はなおも答えなかった。
 悟は諦めたのかそれ以上訊かず、重いかばんを手に提げたまま窓から街を見下ろした。大きくはない地方都市だが、明かりが灯るとそれなりに美しい。雑多な汚れが闇に沈む。
 優雅なチャイムが係の訪問を告げた。遼一は扉を開けに立った。部屋係は低めの声で挨拶し、予備の毛布と枕を置いていった。遼一がフロントで話した事情は抜かりなく伝わっているようだった。
「こうして見ると、それなりにキレイだな、この街も」
 遼一は悟の背後でそう言った。
「遼一さん……」
 悟は遼一を振り返った。遼一は真っ先に悟の瞳を確認した。大丈夫。生きている。
「……ひどい顔だな」
 呟くような遼一のひと言に、悟はまた拳で顔を隠した。
「可哀想に」
 遼一はゆっくりと腕を上げ、顔を隠す悟の拳をそっとつかんだ。
「遼一さん」
 悟の膝が崩れ、遼一の胸にふわりと倒れてきた。何日間かでさらに質感が軽くなった、細い身体。強がりでようやく立っていたのだろう。
 遼一は小鳥をその胸に取り戻した。
「悟……」
 この名を呼ぶのも何日ぶりか。
「何」
 遼一の胸に突っ伏したまま、くぐもった声で悟は答えた。遼一は胸の小鳥に小さく尋ねた。
「今でも俺を疑ってるか」
 悟は身体を硬くした。
「俺を信じられないか」
 悟は遼一の胸の中で身じろぎした。が、返事はない。
「俺さ……さすがにこの歳で、これまで何もなかったとは言わないよ。だけど、もう随分昔のことだし、いい思い出なんて何もない。もし生まれ変わったら、絶対別の人生を選ぶよ。そのくらい」
 遼一はそこで言葉を切った。そのくらい。
「……不幸な人生だった」
 認めてしまうのは初めてだった。初めて来し方を正当に評価できたのは……。
「今の俺がそう気づけたのは、俺が『幸せ』ってヤツを経験したからだ」
 そう、小鳥が身の周りを飛び交う幸せ。そのさえずりを楽しむ幸せ。小鳥はひとりの生きた人間で、遼一と愛を交歓できる。
「遼一さん……」
 悟がその腕を遼一の腰に回した。ギュッと自分の身体を遼一に押しつけてくる。
「解説が必要か?」
 遼一は悟の頭を撫でてそう訊いた。
「主語と目的語を明確にして、もっとかみ砕いて言わなきゃダメか?」
 ウケなかったギャグを解説させられるより、もっとキビシイけど、悟がどうしてもと言うのなら。
 悟はぶんぶんと首を振った。
「いい。もういいよ、遼一さん」
 僕が悪かった。ごめんなさい。悟はそう遼一に詫び、その胸に頬をすりつけた。
 窓の外はすっかり夜だった。高層階の周りにはほかに明かりもなく、車の騒音もない。森の中の洋館のように静かだ。
「俺ももうこんな歳だ。若い頃のようには回復しない。これ以上お前が俺を捨てようとするなら、俺はもう手を離すよ。次は、ない」
 限界だった。悟が納得するまで何度でもつき合えるとうぬぼれていたが、自分はそんなに強くなかった。遼一の小鳥が、遼一の許を飛び立ち、去ってしまう。それがあんなにもざっくりと、遼一の胸を深くえぐった。
「もう一度言うぞ。俺は悟、お前が好きだよ。愛してる。ほかの誰のことも心にはない。お前はどうだ?」
 俺のこと、好きか。そう問うた自分の声は震えていた。そのことに遼一は驚いた。そして小鳥が返事をするまで、判決を待つ囚人のように怖れている。
「僕は、これまでに何度も言ってるよ」
 そしてそんな遼一の気持ちを知ってか知らずか、悟は焦らすように結論を延ばす。
「知ってるでしょ、遼一さん。僕は……」
 こんなとき、悟はまさに小悪魔だ。
「遼一さんのこと…………ずっと好きだよ」
 初めて会ったときから、ずっと。
 耳を寄せても聞き取れないような小さな声で悟はそう呟いた。
 体温を感じて、耳許でささやきを交わして。そうしていると、めまいのような熱い想いが立ち昇る。脳髄が痺れるような狂おしさが。
 衝動に唇をむさぼり合って、離れたあと、遼一は優しく悟の背を押した。
「先にシャワー、浴びておいで」
 悟はパタンとバスルームの扉を閉めた。中では初めて見る豪華さに、この部屋に足を踏み入れたときと同じくらいには驚いているだろう。
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