4-13
文字数 2,753文字
悟はカバンのひもを握りしめた。
「いくら誘っても、絶対行かないの、自分で気づいてないの?」
「え……?」
そんなことはない。ないがしかし。
思い返すと、確かに商店街を悟と連れ立って歩いた記憶はなかった。専門店や催しが揃う、この街一番の繁華街に、半年間一度も足を踏み入れないのは不自然だった。
いや、この街に戻ってからは車を手に入れたので、街中にわざわざ車を乗り入れるのは面倒だから――。
「僕の顔を見ているようで、あなたの視線はときどき遠い後ろに焦点が合ってる。そんな遠い目をしてるよ」
商店街には、服屋もあるし、靴屋もある。昔のものとは違っていても、本屋もあるだろうし飯屋も食料品店も、何でもあるはずだ。そして遼一の部屋からは徒歩で行ける。ちょっとした買いものなら、郊外のショッピングモールへ車を飛ばして、広い駐車場に車を止め、広い店内を歩いて買い回るよりよほど早く済むかもしれない。昔よく行ったラーメン屋も、同じビルにあったレコード店も。大道芸人のパフォーマンスの間に走って戻ったあの店は、今も営業しているだろうか……。
「ねえ、あなたは、僕を通じて誰を見てるの?」
その言葉に遼一はハッとした。辿っていた記憶から引き戻された。目の前の悟の顔を見た。悟の指が、遼一の頬にそっと触れた。
「そのひとと僕は、よく似てるの?」
悟は小声でそう言って、遼一に優しく微笑んだ。
こういうとき、悟はいつも激しい怒りの発作に見舞われ、遼一にひどく八つ当たりする。こんな穏やかな笑みを浮かべる悟は初めてだった。キレイな、そして淋しい笑みから遼一は目が離せなかった。抱き寄せることも忘れていた。悟の瞳からつーとひと筋涙がこぼれた。
「昔何があったかは聞きたくない」
悟は遼一の頬から指を離し、拳をきつく握りしめた。
「でも、あなたの心を傷つけた昔の誰かは、今もあなたの心を縛ってる」
悟の目からポタポタと涙があふれ、膝の上の拳に落ちた。
誤解だ。遼一はそう言おうとして、声が出なかった。
「嫌だ」
悟は大きく首を振った。
「僕のものだ」
身動きできずにいる遼一に向かって、悟は顔を上げて叫んだ。
「もうあなたの前には戻ってこないひとを追いかけないで」
誰のことだ。悟、お前は何を誤解して――。
「そのひとは、あなたを幸せにしてはくれなかったんでしょ? なら……」
悟は肩を大きく震わせ、遼一のシャツをつかんだ。
「僕のものになってよ」
お願いだから……。
悟はそう言って、遼一のシャツの胸の辺りを揺さぶって泣いた。
「……何のことを言ってるんだ」
遼一は自分のシャツを握ったまま震えている悟の肩に回そうとした手を止めた。
「そうか……。お前は、俺のこと好きになればなるほど、辛くなるんだな」
不安な悟は、これまで安定した人間関係を築いたことのない悟は、本当に自分は愛されているか、どこまで許されているか、確かめずにはおれなかった。悟は遼一の愛を試していた。だから、遼一の悟への愛が本物だと得心がいけば、お試し行動は止むはずだった。遼一はそう思い、その日まで待つと決めていた。
だが――。
「もう、……止めようか」
遼一の存在そのものが、悟を不安に突き落としているのならば。
悟の遼一へ気持ちが高まれば高まるほど、遼一を失う不安が増してしまうなら。
もう、遼一自身が、悟から離れることでしか、悟の不安は消えないのかもしれない。幼い時期の愛のレッスン。その短い相手になるだけが、この子の人生における、自分の役目だったのか。
「俺がお前の手を離してやれば、お前は今よりラクになるか?」
遼一の声はかすれていた。のどがヒリついて痛かった。シャツをつかんだ悟の震えが止まった。
俺が離れることでしか、この子を苦しみから救えないのなら――。
遼一は悟の肩に触れられなかった両手を下ろした。狭い天井を見上げた。
「……俺はどこか欠陥があるのかもな……」
人間として、男として、何ひとつうまくやれたことがない。
誰のことも幸せにできない。
遼一が相手を幸せにしたいと望めば望むほど、得るのは相手の涙だけだった。ひとなみに、誰かと幸せになろうなんて、土台無理な話だったのか。特に悟は。
「未成年だし、歳もこんなに離れているし」
遼一は床に手をつき、がくりと頭を後ろに反らした。
「そもそもお前は、俺が手を触れちゃいけない宝物みたいなものだったんだしな」
諦めるしか、ないのか。
「待って」
悟は遼一のシャツから指を離した。
「……今の、何?」
悟はゆっくりと宙に向かって問いかけた。
「『止めようか』って、何を止めるの?」
僕を愛するのを、止めちゃうってこと?
絞り出すようにそう言って、悟は呆然と何もない空間を見つめた。
「やっぱり、僕は、誰からも愛されることなんて、ないんだね……」
違う。その結論は、絶望と引き替えに、背後から襲ってくる不安を消滅させるだろうが、それは違うんだ、悟。
遼一はそう伝えたかった。が、自分の口から出る言葉は、どれも結局悟の不安を増すだけだった。なら、自分はもうその言葉を言わない。自分がこの子にしてやれるのが、この子の不安を少しでも減らすことしかないなら、どんなにこの子自身が心の底から欲している言葉であっても、自分の口からはもう言えない。
「分かった」
悟はカバンを手許へ引き戻した。
「僕はまた、元の冷たい透明人間に戻るよ」
のろのろと荷物をまとめながら、口の中で呟いた。
「生きながら死んでいる、ただのクラゲの残骸だ」
初めからそうだったんだ。人間になれたと思ったのが間違いだったんだ。
立ち上がろうと膝を立てた悟の動きが途中で止まった。
遼一が、悟の手首をつかんでいた。
「はなして。もうかえらなきゃ」
抑揚のない声で悟は言った。遼一はその手を離せなかった。離してやらなければ、今自分が離してやれば、そう思っているのに、遼一はその手に加えた力を解けなかった。
「もういいから」
「……いやだ」
「はなして」
「嫌だ!」
ガラス玉の瞳がこちらを見ていた。父母に殺され、悪ガキ共に殺され、やっと生き返ったこの子供を、俺がまた殺してしまった。
離してやらなければならない。そう思ったのに。
俺は諦めきれない。
「俺はどうすればいい? 教えてくれ」
お前を諦められないんだ。
遼一はすがるように悟にそう訊いた。
悟は遼一に握られた自分の手首を見下ろして言った。
「わからない……」
遼一は重ねて問うた。
「俺が何をすれば、お前は信じてくれるんだ?」
向けられたのは、ガラス玉の瞳。
「わからないよ……」
遼一の手から力が抜けた。手首をつかんでいたその手は、悟の手を、指を伝って、床に落ちた。
悟はカチャリとテーブルに何か置いて部屋を出ていった。
この部屋のカギだった。
「いくら誘っても、絶対行かないの、自分で気づいてないの?」
「え……?」
そんなことはない。ないがしかし。
思い返すと、確かに商店街を悟と連れ立って歩いた記憶はなかった。専門店や催しが揃う、この街一番の繁華街に、半年間一度も足を踏み入れないのは不自然だった。
いや、この街に戻ってからは車を手に入れたので、街中にわざわざ車を乗り入れるのは面倒だから――。
「僕の顔を見ているようで、あなたの視線はときどき遠い後ろに焦点が合ってる。そんな遠い目をしてるよ」
商店街には、服屋もあるし、靴屋もある。昔のものとは違っていても、本屋もあるだろうし飯屋も食料品店も、何でもあるはずだ。そして遼一の部屋からは徒歩で行ける。ちょっとした買いものなら、郊外のショッピングモールへ車を飛ばして、広い駐車場に車を止め、広い店内を歩いて買い回るよりよほど早く済むかもしれない。昔よく行ったラーメン屋も、同じビルにあったレコード店も。大道芸人のパフォーマンスの間に走って戻ったあの店は、今も営業しているだろうか……。
「ねえ、あなたは、僕を通じて誰を見てるの?」
その言葉に遼一はハッとした。辿っていた記憶から引き戻された。目の前の悟の顔を見た。悟の指が、遼一の頬にそっと触れた。
「そのひとと僕は、よく似てるの?」
悟は小声でそう言って、遼一に優しく微笑んだ。
こういうとき、悟はいつも激しい怒りの発作に見舞われ、遼一にひどく八つ当たりする。こんな穏やかな笑みを浮かべる悟は初めてだった。キレイな、そして淋しい笑みから遼一は目が離せなかった。抱き寄せることも忘れていた。悟の瞳からつーとひと筋涙がこぼれた。
「昔何があったかは聞きたくない」
悟は遼一の頬から指を離し、拳をきつく握りしめた。
「でも、あなたの心を傷つけた昔の誰かは、今もあなたの心を縛ってる」
悟の目からポタポタと涙があふれ、膝の上の拳に落ちた。
誤解だ。遼一はそう言おうとして、声が出なかった。
「嫌だ」
悟は大きく首を振った。
「僕のものだ」
身動きできずにいる遼一に向かって、悟は顔を上げて叫んだ。
「もうあなたの前には戻ってこないひとを追いかけないで」
誰のことだ。悟、お前は何を誤解して――。
「そのひとは、あなたを幸せにしてはくれなかったんでしょ? なら……」
悟は肩を大きく震わせ、遼一のシャツをつかんだ。
「僕のものになってよ」
お願いだから……。
悟はそう言って、遼一のシャツの胸の辺りを揺さぶって泣いた。
「……何のことを言ってるんだ」
遼一は自分のシャツを握ったまま震えている悟の肩に回そうとした手を止めた。
「そうか……。お前は、俺のこと好きになればなるほど、辛くなるんだな」
不安な悟は、これまで安定した人間関係を築いたことのない悟は、本当に自分は愛されているか、どこまで許されているか、確かめずにはおれなかった。悟は遼一の愛を試していた。だから、遼一の悟への愛が本物だと得心がいけば、お試し行動は止むはずだった。遼一はそう思い、その日まで待つと決めていた。
だが――。
「もう、……止めようか」
遼一の存在そのものが、悟を不安に突き落としているのならば。
悟の遼一へ気持ちが高まれば高まるほど、遼一を失う不安が増してしまうなら。
もう、遼一自身が、悟から離れることでしか、悟の不安は消えないのかもしれない。幼い時期の愛のレッスン。その短い相手になるだけが、この子の人生における、自分の役目だったのか。
「俺がお前の手を離してやれば、お前は今よりラクになるか?」
遼一の声はかすれていた。のどがヒリついて痛かった。シャツをつかんだ悟の震えが止まった。
俺が離れることでしか、この子を苦しみから救えないのなら――。
遼一は悟の肩に触れられなかった両手を下ろした。狭い天井を見上げた。
「……俺はどこか欠陥があるのかもな……」
人間として、男として、何ひとつうまくやれたことがない。
誰のことも幸せにできない。
遼一が相手を幸せにしたいと望めば望むほど、得るのは相手の涙だけだった。ひとなみに、誰かと幸せになろうなんて、土台無理な話だったのか。特に悟は。
「未成年だし、歳もこんなに離れているし」
遼一は床に手をつき、がくりと頭を後ろに反らした。
「そもそもお前は、俺が手を触れちゃいけない宝物みたいなものだったんだしな」
諦めるしか、ないのか。
「待って」
悟は遼一のシャツから指を離した。
「……今の、何?」
悟はゆっくりと宙に向かって問いかけた。
「『止めようか』って、何を止めるの?」
僕を愛するのを、止めちゃうってこと?
絞り出すようにそう言って、悟は呆然と何もない空間を見つめた。
「やっぱり、僕は、誰からも愛されることなんて、ないんだね……」
違う。その結論は、絶望と引き替えに、背後から襲ってくる不安を消滅させるだろうが、それは違うんだ、悟。
遼一はそう伝えたかった。が、自分の口から出る言葉は、どれも結局悟の不安を増すだけだった。なら、自分はもうその言葉を言わない。自分がこの子にしてやれるのが、この子の不安を少しでも減らすことしかないなら、どんなにこの子自身が心の底から欲している言葉であっても、自分の口からはもう言えない。
「分かった」
悟はカバンを手許へ引き戻した。
「僕はまた、元の冷たい透明人間に戻るよ」
のろのろと荷物をまとめながら、口の中で呟いた。
「生きながら死んでいる、ただのクラゲの残骸だ」
初めからそうだったんだ。人間になれたと思ったのが間違いだったんだ。
立ち上がろうと膝を立てた悟の動きが途中で止まった。
遼一が、悟の手首をつかんでいた。
「はなして。もうかえらなきゃ」
抑揚のない声で悟は言った。遼一はその手を離せなかった。離してやらなければ、今自分が離してやれば、そう思っているのに、遼一はその手に加えた力を解けなかった。
「もういいから」
「……いやだ」
「はなして」
「嫌だ!」
ガラス玉の瞳がこちらを見ていた。父母に殺され、悪ガキ共に殺され、やっと生き返ったこの子供を、俺がまた殺してしまった。
離してやらなければならない。そう思ったのに。
俺は諦めきれない。
「俺はどうすればいい? 教えてくれ」
お前を諦められないんだ。
遼一はすがるように悟にそう訊いた。
悟は遼一に握られた自分の手首を見下ろして言った。
「わからない……」
遼一は重ねて問うた。
「俺が何をすれば、お前は信じてくれるんだ?」
向けられたのは、ガラス玉の瞳。
「わからないよ……」
遼一の手から力が抜けた。手首をつかんでいたその手は、悟の手を、指を伝って、床に落ちた。
悟はカチャリとテーブルに何か置いて部屋を出ていった。
この部屋のカギだった。