4-12
文字数 2,408文字
悟のテスト期間は終了して、合宿は終わり、悟は自宅へ帰っていった。
合宿期間中、少しずつ悟の身の回りのものが増えていた。パジャマやセーター。歯みがきコップと歯ブラシ。もう悟はいつでもここで暮らせるのだった。テストの結果次第で志望校が決まる。地域最高レベルの学校は、遼一の部屋からすぐだ。そこを受験でき、合格できれば、遼一の部屋に下宿する意味が発生する。そこ以外の学校なら、遼一の部屋からでも悟の自宅からでも、利便性にとくに差はない。
そうなったら、部屋を移ろうかと遼一は最近考えていた。
いずれにせよ、今の部屋はふたりで住むには狭い。寝室にはふとんをひと組しか敷けないし、悟の勉強机もいるだろう。高校生にもなって、勉強はいつも床置きの小さなテーブルでは可哀想だ。
春から遼一は新しく引き受けた仕事のせいで、本業の株取引に時間と意識を避けず、確定できた利益は少なかった。ロシア貿易関連の仕事も大分コツをつかめた。そろそろ本業に意識を振り向けようと思った。
もう少し金が欲しい。あの子のために遣ってやりたい。
蓄えはあるが、遼一は十代の頃から自分の生活の面倒を自分で看てきた。浮かれて金遣いが荒くなることはない。余計に遣いたければ余計に稼ぐ。
買いものに連れ出すと、悟は遼一の部屋で使う生活用品を嬉しそうに選んだ。照れくさそうに、くすぐったそうに、目の周りをうっすら紅くして、あれこれ吟味して品ものを選び、遼一が会計を終えると毎回行儀よく礼を言った。
三十数年、ずっと自分ひとりのために生きてきた。
悟のために何かをするのが、こんなに脳髄を痺れさせる。
だがその当人は、そんな遼一の心を理解しない。そればかりか、遼一の心を独り占めしようと必死なのだ。
このギャップは何なのだろう。これがひとと生きるということなのか。
悟は自分の手許に置かないとダメだ。
遼一は思った。いつでも手の届くところに置いて、いつでも抱きしめてやって、あの不安をあの子の心から追い出してやらないと。
悟もいつか、遼一の愛を信じられるようになるだろう。遼一の許容範囲を確かめる「お試し行動」が止む日まで。
それまで、そしてそれからも、思いつく限りのことをしてやる。
遼一はそう決めていた。
前場で利益確定できた。ひさびさの大金星だった。
遼一は機嫌がよかった。
面倒なロシア企業との契約書も、法律用語に慣れてきて、初めの頃より短時間で片づくようになった。冬は新規案件が少ないらしい。夏ほど歩合が入らないなら、かえって本業に集中しやすいというものだった。
遼一がPCのモニターにいくつもの画面を開いて、複数銘柄の比較検討をしていると、ドアのブザーが鳴った。
「おかえり」
ドアを開くと、悟がそっと遼一の胸に頬を寄せた。
「……ただいま」
そう小さな声で呟いて、赤い顔をして慌てて離れ、靴を脱いだ。
「どうだった?」
遼一はそう尋ねた。各教科、ぞくぞくとテスト結果が帰ってきていた。
「うん。A校、狙えるって。内申はリカバーしたみたい」
悟は台所で薬缶に水を入れながら言った。
「担任から、そう言われた」
「大塚先生か」
「うん」
遼一は背後から悟の肩に腕を回した。
「よくがんばったな」
悟は薬缶を火にかけた。
「うん、先生にも同じことを言われたよ」
そして多分、悟はもうこのことを親には伝えない。血がつながっているというだけの存在を、捨てる準備はできていた。父親とは契約が成立していた。あとは母親だけだった。
「遼一さんのおかげだね」
悟は目を閉じて、遼一の胸に寄りかかった。
「悟の本来の実力だろう」
遼一は悟の細い身体を慈しむように抱きしめた。遼一の腕の中で、悟の胸郭が呼吸していた。悟の細い腰が、次の手順のために動いた。
「遼一さんはさあ……」
悟はドリッパーに湯を注ぎながら言った。
「ん? 何だ?」
「甘えんぼだね」
「えぇ?」
「だってさあ」
悟は薬缶を置いた。
「いつもこうやって、ベタベタ甘えてくるじゃない。大人なのに、可愛いよね」
そんなに、僕のこと好きなの?
悟はそう言って、遼一の腕の中でくるりと振り返った。
小悪魔のようにずるい笑みを浮かべながら、その瞳はまた切実な光を宿して、遼一の反応をうかがっている。
「ああ。好きだよ」
遼一はあえて言葉に出す。何度でも、何度でも、悟を安心させる言葉をその耳に吹き込む。言葉が真っ直ぐに、心の深いところに届くまで、何度でも。
「じゃあさ、遼一さん。コーヒー飲んでて」
悟は目を伏せて遼一から身体を離し、甘い時間の支度に立った。
寝乱れたふとんをそのままにして、遼一はPCに向かい、悟は英文法の問題集を開いた。遼一の作った夕食をふたりで摂ると、夜はとっぷり更けていた。親は捨てる覚悟だが、まだそれを気取られてはならない。中学生が帰るべき時間に、悟は親の家に帰らねばならない。
母に話すそのときまでは、品行方正に。
「また、恐怖の時間だ」
遼一が帰宅を促すと、悟はため息をついた。
「悟?」
手許に引き寄せたカバンに、悟は勉強道具を詰めた。
「遼一さんと離れて家にいると、気が狂いそうになる」
遼一は車の鍵を手に取って、呟く悟を見下ろした。
「遼一さんの笑顔を思い出して」
悟ののどがひくりと鳴った。
「遼一さんのセックスを思い出して、大丈夫、僕は愛されてると思おうとするけど、やっぱり怖くて」
遼一は悟の前に膝をついた。
「どうしてだ? 何が怖い?」
遼一はそう優しく問うた。背後から追いかけてくる恐怖は、自室でひとりになった瞬間、悟に追いついてしまうのだろうか。
悟の瞳が昏く光った。
「だって、遼一さん、『街』に足を踏み入れないじゃないか」
「……何のことだ」
見当もつかなかった。いつもいろいろ言いがかりをつけられ暴れられているが、今日のもよく分からない。いざとなったらいつでも悟の身体を引き寄せられるよう、遼一は悟の側で身構えた。
合宿期間中、少しずつ悟の身の回りのものが増えていた。パジャマやセーター。歯みがきコップと歯ブラシ。もう悟はいつでもここで暮らせるのだった。テストの結果次第で志望校が決まる。地域最高レベルの学校は、遼一の部屋からすぐだ。そこを受験でき、合格できれば、遼一の部屋に下宿する意味が発生する。そこ以外の学校なら、遼一の部屋からでも悟の自宅からでも、利便性にとくに差はない。
そうなったら、部屋を移ろうかと遼一は最近考えていた。
いずれにせよ、今の部屋はふたりで住むには狭い。寝室にはふとんをひと組しか敷けないし、悟の勉強机もいるだろう。高校生にもなって、勉強はいつも床置きの小さなテーブルでは可哀想だ。
春から遼一は新しく引き受けた仕事のせいで、本業の株取引に時間と意識を避けず、確定できた利益は少なかった。ロシア貿易関連の仕事も大分コツをつかめた。そろそろ本業に意識を振り向けようと思った。
もう少し金が欲しい。あの子のために遣ってやりたい。
蓄えはあるが、遼一は十代の頃から自分の生活の面倒を自分で看てきた。浮かれて金遣いが荒くなることはない。余計に遣いたければ余計に稼ぐ。
買いものに連れ出すと、悟は遼一の部屋で使う生活用品を嬉しそうに選んだ。照れくさそうに、くすぐったそうに、目の周りをうっすら紅くして、あれこれ吟味して品ものを選び、遼一が会計を終えると毎回行儀よく礼を言った。
三十数年、ずっと自分ひとりのために生きてきた。
悟のために何かをするのが、こんなに脳髄を痺れさせる。
だがその当人は、そんな遼一の心を理解しない。そればかりか、遼一の心を独り占めしようと必死なのだ。
このギャップは何なのだろう。これがひとと生きるということなのか。
悟は自分の手許に置かないとダメだ。
遼一は思った。いつでも手の届くところに置いて、いつでも抱きしめてやって、あの不安をあの子の心から追い出してやらないと。
悟もいつか、遼一の愛を信じられるようになるだろう。遼一の許容範囲を確かめる「お試し行動」が止む日まで。
それまで、そしてそれからも、思いつく限りのことをしてやる。
遼一はそう決めていた。
前場で利益確定できた。ひさびさの大金星だった。
遼一は機嫌がよかった。
面倒なロシア企業との契約書も、法律用語に慣れてきて、初めの頃より短時間で片づくようになった。冬は新規案件が少ないらしい。夏ほど歩合が入らないなら、かえって本業に集中しやすいというものだった。
遼一がPCのモニターにいくつもの画面を開いて、複数銘柄の比較検討をしていると、ドアのブザーが鳴った。
「おかえり」
ドアを開くと、悟がそっと遼一の胸に頬を寄せた。
「……ただいま」
そう小さな声で呟いて、赤い顔をして慌てて離れ、靴を脱いだ。
「どうだった?」
遼一はそう尋ねた。各教科、ぞくぞくとテスト結果が帰ってきていた。
「うん。A校、狙えるって。内申はリカバーしたみたい」
悟は台所で薬缶に水を入れながら言った。
「担任から、そう言われた」
「大塚先生か」
「うん」
遼一は背後から悟の肩に腕を回した。
「よくがんばったな」
悟は薬缶を火にかけた。
「うん、先生にも同じことを言われたよ」
そして多分、悟はもうこのことを親には伝えない。血がつながっているというだけの存在を、捨てる準備はできていた。父親とは契約が成立していた。あとは母親だけだった。
「遼一さんのおかげだね」
悟は目を閉じて、遼一の胸に寄りかかった。
「悟の本来の実力だろう」
遼一は悟の細い身体を慈しむように抱きしめた。遼一の腕の中で、悟の胸郭が呼吸していた。悟の細い腰が、次の手順のために動いた。
「遼一さんはさあ……」
悟はドリッパーに湯を注ぎながら言った。
「ん? 何だ?」
「甘えんぼだね」
「えぇ?」
「だってさあ」
悟は薬缶を置いた。
「いつもこうやって、ベタベタ甘えてくるじゃない。大人なのに、可愛いよね」
そんなに、僕のこと好きなの?
悟はそう言って、遼一の腕の中でくるりと振り返った。
小悪魔のようにずるい笑みを浮かべながら、その瞳はまた切実な光を宿して、遼一の反応をうかがっている。
「ああ。好きだよ」
遼一はあえて言葉に出す。何度でも、何度でも、悟を安心させる言葉をその耳に吹き込む。言葉が真っ直ぐに、心の深いところに届くまで、何度でも。
「じゃあさ、遼一さん。コーヒー飲んでて」
悟は目を伏せて遼一から身体を離し、甘い時間の支度に立った。
寝乱れたふとんをそのままにして、遼一はPCに向かい、悟は英文法の問題集を開いた。遼一の作った夕食をふたりで摂ると、夜はとっぷり更けていた。親は捨てる覚悟だが、まだそれを気取られてはならない。中学生が帰るべき時間に、悟は親の家に帰らねばならない。
母に話すそのときまでは、品行方正に。
「また、恐怖の時間だ」
遼一が帰宅を促すと、悟はため息をついた。
「悟?」
手許に引き寄せたカバンに、悟は勉強道具を詰めた。
「遼一さんと離れて家にいると、気が狂いそうになる」
遼一は車の鍵を手に取って、呟く悟を見下ろした。
「遼一さんの笑顔を思い出して」
悟ののどがひくりと鳴った。
「遼一さんのセックスを思い出して、大丈夫、僕は愛されてると思おうとするけど、やっぱり怖くて」
遼一は悟の前に膝をついた。
「どうしてだ? 何が怖い?」
遼一はそう優しく問うた。背後から追いかけてくる恐怖は、自室でひとりになった瞬間、悟に追いついてしまうのだろうか。
悟の瞳が昏く光った。
「だって、遼一さん、『街』に足を踏み入れないじゃないか」
「……何のことだ」
見当もつかなかった。いつもいろいろ言いがかりをつけられ暴れられているが、今日のもよく分からない。いざとなったらいつでも悟の身体を引き寄せられるよう、遼一は悟の側で身構えた。