4-8
文字数 2,492文字
「昼、何か食いたいものあるか」
遼一はキーボードを叩きながらそう訊いた。
「んー。とくに」
悟もさらさらとシャーペンを走らせながら答えた。
「軽いものでいいんだよね。重いものお腹に入れちゃうと、頭が働かなくなるから」
遼一はPCの画面から目を話さずに言った。
「じゃ、蕎麦でも茹でるか」
悟は不機嫌になった。
「そばー?」
不満そうなその声に、遼一は手を止めて後ろを振り返った。
「別に蕎麦でなくてもいいぞ。何なら食べられる?」
悟の目が吊り上がった。
「何だよ、それ」
始まった。
悟は手にしたシャーペンを遼一の膝の辺りに投げつけた。
「テスト期間で、僕、頭がいっぱいいっぱいなの、分かってるでしょ!? この上食事のメニューまで聞かないでよ。そんなことまで考えられないよ」
遼一は椅子から降りた。
「悟」
ノートが飛んできた。
「どうして遼一さんはいつも意地悪なの。そんなに僕のこと嫌いなの?」
「悟!」
遼一は悟を背後から抱きしめた。これ以上ものが飛び交って、遼一の部屋のいろんなものが壊れたり汚れたりしないうちに、悟の動きを止める。悟は「離せ」としばらく手足をバタつかせていたが、少しすると静かになった。落ち着いたのを見計らって、遼一はゆっくりと声をかけた。
「悟?」
悟は返事をしない。遼一は抱きしめた悟の身体を微かに揺すってまた呼んだ。
「さー?」
「ん。何」
やっと答えた悟の声は、予想通り湿っていた。
「落ち着いたな」
遼一は穏やかに笑ってそう言った。
「ごめん。またやっちゃった」
悟は悔しそうにそう呟いた。自分でも、このかんしゃくを止めたいと思っているのだろう。
「さー……、分かってると思うけど」
遼一はそこで言葉を切り、悟がその続きを答えるのを待った。
「分かってる。遼一さんは『僕のこと嫌い』じゃない」
遼一はまた悟の身体をそっと揺すった。
「そう。『嫌い』じゃない。だが、それはちょっと正確じゃないな。正確には、嫌いじゃないんじゃなくて……?」
「『僕のこと好き』」
「ああ」
「『僕のこと愛してる』」
「そうだ」
自分に言い聞かせるように悟は呟いた。遼一はそれらをすべて肯定した。悟の認識を、ひとつひとつ修正していく。繰り返し、繰り返しだ。結果が出ても出なくても、遼一はこのステップを繰り返していく。
悟はくるりと向きを変え、遼一の胸に顔を埋めた。
「遼一さんが僕のこと、『さー』って呼んでくれるの……」
遼一は悟の背中をいつものようにさすってやった。
「……好き」
聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。
遼一はしばらくそうやって悟の身体を抱いていたが、次第に腹が減ってきた。育ち盛りの悟はもっと空腹なはずだ。また何を食べるかで揉めないよう、遼一はショッピングモールへ悟を誘った。そこでなら、目に止まったものを好きに選んで食べられるし、夕食の材料も手に入る。テスト期間はみっちり遼一の部屋で合宿の予定だった。
悟も遼一の提案を承服した。遼一は車を出した。
「ねえ、遼一さん」
「ん?」
昼どきでただでさえ少ない交通量がさらに少ない。地方都市では、道幅もゆったりで運転しやすい。
「どうして許してくれるの?」
許す?
「何を」
「そのう……いつも僕、おかしくなって、ひどいこと言ったり暴れちゃったりするでしょ。あれ」
もう止めようと思ってるのに、止められないんだと悟は言った。
「何度も何度もやっちゃって……。毎回今度こそ嫌われる、今度こそ遼一さんに追い出されちゃう、そう思うのに」
悟は俯いて唇をかんだ。遼一は淡々と答えた。
「別にいいよ。悟が本気で俺に嫌われたくてやってるんでなければ」
「嫌われたくなんか、ない」
「なら、別にいい」
俺はそんなことでお前を嫌ったりしない。遼一はそうつけ加えた。
「どうして?」
「何が」
「嫌に、ならないの? 僕のこと」
「ならないさ。ただのワガママだろ。可愛いよ」
悟は拳を口に当てて真っ赤になった。
遼一はゆっくりハンドルを切って、ショッピングモールの敷地へ車を入れた。
「ただ、ワガママならもっと普通に言ってくれればいいのに、とは思ってるけど」
ガランと広い駐車場を、入り口近くへと進んでいく。
「『普通』って……?」
悟は恐る恐るそう訊いた。
「ん?」
遼一は大きくハンドルを切って、入り口近くのスペースへ車を入れた。
「いっぱいあるだろ。もっと抱っこしてーとか。アイス食べたいーとか」
「何だよ、子供扱いして」
悟は頬を赤くしたまま、濃緑のセーターの裾をいじっていた。遼一はエンジンを切った。
「まずは、何を食べたいから行ってみようか」
店内配置図の前で、悟は少しの間ああだこうだ言っていた。今日はジャンクなものが食べたい気分らしかった。
「じゃあ、ハンバーガーでも、いい? 遼一さん」
遼一は悟の顔を横目で見た。
「駄目」
「え……」
「もっと『ワガママ風に』言ってみろ」
「ええっ」
悟はまた赤くなった。数秒逡巡していたが、目を伏せてようやく言った。
「……ハンバーガーが、食べたい」
遼一は、「まあいいだろう」と渋々OKを出した。ふたりは入ってきた入り口から見て反対方向へと歩き出した。
「もっと甘えた感じで言って欲しいなあ」
遼一は不満を漏らした。
「何だよ、演技指導かよ。どこの映画監督だよ」
悟は乱暴に言い返した。照れ隠しの積もりらしい。
ショッピングモール内のハンバーガーショップは、思いの外空いていた。
「俺はね、こうやって悟にリクエストするよ、俺が悟にして欲しいことを、言葉で。そしてそれを聞き入れるも聞き入れないも、百%悟の自由だ。その結果で、俺が悟を好きな気持ちが変わることはない」
注文したものを頬ばりながら、ふたりは小さなテーブルで向かい合っていた。
親と心理的な交流が乏しく、友人も作らなかった悟には、人間とのつき合い方、コミュニケーションの基本が抜けている。それをひとつずつ伝えていこう。
そしてそれは、遼一自身にも役立つはずだ。遼一にしても、充分な量のひとづき合いを経験してきたとは言えなかった。面倒ごとからはすべからく遠ざかって生きてきた。ふたりの何とよく似ていることか。
遼一はキーボードを叩きながらそう訊いた。
「んー。とくに」
悟もさらさらとシャーペンを走らせながら答えた。
「軽いものでいいんだよね。重いものお腹に入れちゃうと、頭が働かなくなるから」
遼一はPCの画面から目を話さずに言った。
「じゃ、蕎麦でも茹でるか」
悟は不機嫌になった。
「そばー?」
不満そうなその声に、遼一は手を止めて後ろを振り返った。
「別に蕎麦でなくてもいいぞ。何なら食べられる?」
悟の目が吊り上がった。
「何だよ、それ」
始まった。
悟は手にしたシャーペンを遼一の膝の辺りに投げつけた。
「テスト期間で、僕、頭がいっぱいいっぱいなの、分かってるでしょ!? この上食事のメニューまで聞かないでよ。そんなことまで考えられないよ」
遼一は椅子から降りた。
「悟」
ノートが飛んできた。
「どうして遼一さんはいつも意地悪なの。そんなに僕のこと嫌いなの?」
「悟!」
遼一は悟を背後から抱きしめた。これ以上ものが飛び交って、遼一の部屋のいろんなものが壊れたり汚れたりしないうちに、悟の動きを止める。悟は「離せ」としばらく手足をバタつかせていたが、少しすると静かになった。落ち着いたのを見計らって、遼一はゆっくりと声をかけた。
「悟?」
悟は返事をしない。遼一は抱きしめた悟の身体を微かに揺すってまた呼んだ。
「さー?」
「ん。何」
やっと答えた悟の声は、予想通り湿っていた。
「落ち着いたな」
遼一は穏やかに笑ってそう言った。
「ごめん。またやっちゃった」
悟は悔しそうにそう呟いた。自分でも、このかんしゃくを止めたいと思っているのだろう。
「さー……、分かってると思うけど」
遼一はそこで言葉を切り、悟がその続きを答えるのを待った。
「分かってる。遼一さんは『僕のこと嫌い』じゃない」
遼一はまた悟の身体をそっと揺すった。
「そう。『嫌い』じゃない。だが、それはちょっと正確じゃないな。正確には、嫌いじゃないんじゃなくて……?」
「『僕のこと好き』」
「ああ」
「『僕のこと愛してる』」
「そうだ」
自分に言い聞かせるように悟は呟いた。遼一はそれらをすべて肯定した。悟の認識を、ひとつひとつ修正していく。繰り返し、繰り返しだ。結果が出ても出なくても、遼一はこのステップを繰り返していく。
悟はくるりと向きを変え、遼一の胸に顔を埋めた。
「遼一さんが僕のこと、『さー』って呼んでくれるの……」
遼一は悟の背中をいつものようにさすってやった。
「……好き」
聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。
遼一はしばらくそうやって悟の身体を抱いていたが、次第に腹が減ってきた。育ち盛りの悟はもっと空腹なはずだ。また何を食べるかで揉めないよう、遼一はショッピングモールへ悟を誘った。そこでなら、目に止まったものを好きに選んで食べられるし、夕食の材料も手に入る。テスト期間はみっちり遼一の部屋で合宿の予定だった。
悟も遼一の提案を承服した。遼一は車を出した。
「ねえ、遼一さん」
「ん?」
昼どきでただでさえ少ない交通量がさらに少ない。地方都市では、道幅もゆったりで運転しやすい。
「どうして許してくれるの?」
許す?
「何を」
「そのう……いつも僕、おかしくなって、ひどいこと言ったり暴れちゃったりするでしょ。あれ」
もう止めようと思ってるのに、止められないんだと悟は言った。
「何度も何度もやっちゃって……。毎回今度こそ嫌われる、今度こそ遼一さんに追い出されちゃう、そう思うのに」
悟は俯いて唇をかんだ。遼一は淡々と答えた。
「別にいいよ。悟が本気で俺に嫌われたくてやってるんでなければ」
「嫌われたくなんか、ない」
「なら、別にいい」
俺はそんなことでお前を嫌ったりしない。遼一はそうつけ加えた。
「どうして?」
「何が」
「嫌に、ならないの? 僕のこと」
「ならないさ。ただのワガママだろ。可愛いよ」
悟は拳を口に当てて真っ赤になった。
遼一はゆっくりハンドルを切って、ショッピングモールの敷地へ車を入れた。
「ただ、ワガママならもっと普通に言ってくれればいいのに、とは思ってるけど」
ガランと広い駐車場を、入り口近くへと進んでいく。
「『普通』って……?」
悟は恐る恐るそう訊いた。
「ん?」
遼一は大きくハンドルを切って、入り口近くのスペースへ車を入れた。
「いっぱいあるだろ。もっと抱っこしてーとか。アイス食べたいーとか」
「何だよ、子供扱いして」
悟は頬を赤くしたまま、濃緑のセーターの裾をいじっていた。遼一はエンジンを切った。
「まずは、何を食べたいから行ってみようか」
店内配置図の前で、悟は少しの間ああだこうだ言っていた。今日はジャンクなものが食べたい気分らしかった。
「じゃあ、ハンバーガーでも、いい? 遼一さん」
遼一は悟の顔を横目で見た。
「駄目」
「え……」
「もっと『ワガママ風に』言ってみろ」
「ええっ」
悟はまた赤くなった。数秒逡巡していたが、目を伏せてようやく言った。
「……ハンバーガーが、食べたい」
遼一は、「まあいいだろう」と渋々OKを出した。ふたりは入ってきた入り口から見て反対方向へと歩き出した。
「もっと甘えた感じで言って欲しいなあ」
遼一は不満を漏らした。
「何だよ、演技指導かよ。どこの映画監督だよ」
悟は乱暴に言い返した。照れ隠しの積もりらしい。
ショッピングモール内のハンバーガーショップは、思いの外空いていた。
「俺はね、こうやって悟にリクエストするよ、俺が悟にして欲しいことを、言葉で。そしてそれを聞き入れるも聞き入れないも、百%悟の自由だ。その結果で、俺が悟を好きな気持ちが変わることはない」
注文したものを頬ばりながら、ふたりは小さなテーブルで向かい合っていた。
親と心理的な交流が乏しく、友人も作らなかった悟には、人間とのつき合い方、コミュニケーションの基本が抜けている。それをひとつずつ伝えていこう。
そしてそれは、遼一自身にも役立つはずだ。遼一にしても、充分な量のひとづき合いを経験してきたとは言えなかった。面倒ごとからはすべからく遠ざかって生きてきた。ふたりの何とよく似ていることか。