砂時計 四

文字数 1,777文字

 いつも通りの風景も、今日は少し違って見える。街の灯りが、やけにキラキラと輝いている。
「なんかご機嫌じゃない。彩佳?」
 車を運転しているお母さんが訊いてきた。しまったと思った。いろいろつっこまれないように顔には出さないように注意していたのに。
「べつにご機嫌じゃないよ」
「そ〜お? 外を眺めている時に、なんかにやにやしていたけれど?」
「気のせい、気のせい」
「怪しいな。さては職場の先輩と何かあったな?」
 鋭いな、というかそれしか思い当たることがないって言うのもあるか。
「なにもないよ、なにも」
「そう。じゃあさ、今度の金曜日、お母さんと駅前に買い物に行こうか? 駅ナカに新しいスイーツ屋さんができたのよ」
「え、あ、今度の金曜日は…」
 高橋さんの顔が頭によぎった。私に微笑んでくれているあの顔が、一番好きだ。自分でもわかった。ちょっと体温が上がってる。
 急にお母さんが笑いはじめた。茶化された。完全に遊ばれたようだ。
「いいじゃないの。人を好きになって、恋をして、ときめきを感じて。それが健全な女の子よ」
 私はむくれたように窓の外に目をやった。でもひとつ不思議なことがあった。ずっと今まで聞けなかったことだ。
「お母さんはさ。どうしてお父さんと結婚したの?」
 娘の唐突な質問に戸惑うこともなく、お母さんは割とすっと答えてくれた。
「そうね。お父さんよりもカッコいい人はいたけれど。一番は最後まで情を抱けるか。そして尊敬できる部分があるかね」
「尊敬?」
「そうよ。やっぱり自分にないものを持っている人っていうのは、いくつになっても改めて見直してしまうわね」
「…そっか」
 商品棚を整理している、高橋さんの後ろ姿が浮かんだ。そうだね。本当に尊敬できる。ただ黙々と仕事に向かう姿勢はスゴいと思う。
 家に着いた。車を降りて玄関のドアを開けようと手を伸ばす。
「彩佳」
 振り返ると、穏やかな微笑みを浮かべているお母さんがそこにいた。
「なに?」
「ん? いや、よかったわね」
「は?」
 お母さんは何も答えず、ただ笑っている。
「なんなの?」
「まあまあまあ」
「答えになってないし」
 玄関のドアを開ける。いつものように、スピカが待っていた。外に出ようとするわけでもなく、外の様子を伺うわけでもなく、ただ私の顔を見て、にゃあぁと鳴いている。
 私が歩くと、まるでまとわりつくみたいに、スピカが私の足の近くを歩く。たまに踏みそうになるので注意が必要だ。
 すぐに自分の部屋へ行く。目的はもちろんグルメ冊子だ。スピカはおばあちゃんにご飯を出してもらって食べたのだろう。後をついてきた。
 部屋に入って着替えるなり、グルメ冊子を手に取った。パラパラとページをめくる。するとLINEの通知音が鳴った。
 仕事終わりに麻衣にメッセージを送っていたので、その返信だ。『iPhone博士ちぃーっす』と書かれていた。iPhoneに詳しいと言って、高橋さんとのデートを取り付けた私を茶化す言葉だ。
 デート。そう、デートだ。一緒にiPhoneを買いに行って、ご飯を食べて。それはデートだろう。
『iPhoneのこと勉強しなきゃ』
 麻衣にそう返した。麻衣はiPhoneに詳しい。少し知恵を借りられればと思った。麻衣からすぐにメッセージが返ってきた。
『ググれ』
 知恵を貸すつもりはさらさらないみたいだ。
 iPhoneをソファーに置いて、またグルメ冊子をパラパラとめくる。ひとつのページに目が止まる。
 カルボナーラうどん。そう書かれていたページがひときわ目を引く。美味しそうだ。純粋にそう思った。
 高橋さんは、どう思うかな。美味しそうって、言ってくれるかな。それだけが気になる。すぐに連絡して聞いてみたいけれど、今は連絡が取れない。
 スピカがこっちを見て、にゃあと鳴いた。そうだよね。大丈夫だよね。うん。スピカが言うなら間違いないよ。
 早く明日にならないかな。こんなにも明日が待ち遠しいなんて、二年前までは考えられなかった。明日が来ることは、死に近づくこと。私の毎日はずっとそうだった。死を刻み続けた砂時計は、今は私の幸せの時間を計り続ける。
 明日よ。来い。
 そんな風に思うたびに、時間が過ぎるのが遅く感じる。それはとても幸せなことだ。
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