秋風吹いて 一

文字数 2,994文字

 こもっていた熱気が解き放たれるようにして、風に流れていく。車内は、異常なほどの高温状態。iPhoneを置いておけば、すぐに使えなくなってしまうだろう。
 陽炎が揺らめく。まるで水面に映った景色のように、遠くの建物が歪んでいた。
 8月も終わりに近づきつつある日。まだまだ気温は30℃を超えて、真夏日を観測している。きっと今年も、何だかんだで9月も暑いままだろう。
 繁忙期がひと段落したので、やっと休みを取ることができた。地方の郊外店は、お盆ともなれば帰省する人で混み合ったりするのだ。特に本店はオーナーがお弁当やお中元の予約に力を入れていて、俺自身もお弁当の配達に行ったり、なかなか忙しかった。
 お盆休みが終わり、世間一般の人たちが普段の日常に戻る頃。俺たちのような接客業は少しずつ休みを取る。
 俺は一応実家に顔を出して、父や母、兄と姉に会う。甥っ子姪っ子も、だんだんと大きくなっていっていて、歳月の経過を身に沁みて感じる。誰しもが、子供の成長は早いと言うが、本当にそうだと感じる。
 先日実家に顔を出した。父も母も相変わらずだった。ちょうど姉も来ていて、実家は賑わっていた。
 うちの兄弟姉妹は、仲が良いと思う。姉は月に2回、3回の頻度で実家を訪れるみたいだし、兄も姉を邪険にしたりしない。兄の奥さんも、うちの家族との関係は良好だった。
 七瀬が亡くなってから、実家での扱いは変わったと思う。以前は七瀬といつ結婚するの? とか聞かれていたし、独身なら一度は聞かれるワードだが、我が家では俺に対してそうしたワードはNGだ。もちろん、仕事に関するワードも極力避けられるので、なんだか腫物みたいな扱いだった。
 夜に兄に呼ばれて話をした。父と母が亡くなった時の話だ。たしかにもう、そうした話を兄弟姉妹間で詰めておかなければならない年齢なのだろう。
 葬儀代については、二人の加入している保険で賄う、ということだった。遺産については、俺はすべて辞退すると言った。それほど財産がある訳じゃないし、兄夫婦には子供もいる。両親の面倒を看ているのは兄な訳だから、兄が受け取るべきだ。そう意見を述べたら、それは違う、と言われた。
 親にとって子は平等だと。だからこそ、すべての子供の幸せを願うのが当然であり、それは自分が死んだ後もそう思っていると。だから遺産があれば受け取るのは、子供として当然の権利だと言われた。
 人の死について話すのは、好きじゃなかった。嫌でもその瞬間に、七瀬を思い出すからだ。
 陽射しが降り注いでいる。風に揺れる樹木の枝葉が、まるでこちらにおいでおいでをしているようだった。そう、これは闇の世界への誘いだ。
 今年も晴れていた。七瀬のお墓参りの日は、ほとんどが澄み渡る晴れだ。花屋に頼んであった花。線香とライター。
 お供え物にお菓子を持ってきたが、墓前に供えたまま帰るのは禁止されていた。カラスの被害に遭うらしい。だから墓前に供えて、そして持ち帰る。
 いつ来ても、景色のよい場所だ。そんなことを思いながら、墓石に水をかけて、丁寧に拭いていく。こんなことは、きっと七瀬の両親がすでにやっているだろう。ただ、迎え盆と送り盆で来れない負い目があるからか、毎回この時期と命日にはやってしまう。
 墓前に花とお菓子を添える。線香に火を灯し、手を合わせる。ジージージー、というアブラゼミの鳴き声が耳に入ってくる。それ以外は無音の世界だ。
 ここだけ、生きた世界と切り離された世界。アブラゼミの鳴き声だけが、世界と世界を繋いでいる。ここに来ると、いつもそう思う。そして俺自身が、七瀬を感じることのできる唯一の場所だ。
 あの笑顔も、声も、肌のぬくもりも。すべてがこの場所で、鮮明に蘇る。だから、七瀬はまだ生きていると、そう自分に言い聞かせていたんだ。
 本当は、もう七瀬はいない。その事実だけが世界を覆い尽くそうとしているなら、七瀬が生きていたという事実はどうなってしまうのか。なぜ七瀬はこの世界に生まれてきたのか。誰もがやがて忘れていくのなら、七瀬がいない世界などいらないと、そう思っていた。
 それでも、世界は廻っていて、俺に真実だけを伝えてくる。俺は、七瀬のいない冷たい世界に、ひとり取り残されたんだ。
 色を失って、くすんでいた世界。毎日を繰り返し、絶望を抱えて生きていく。生きる意味なんて、もうなくしていたのに。
 墓前に添えたお菓子を回収して、線香とライターを持って車に戻る。木漏れ日を抜けて、山を下りていく。
 わかる。はっきりと。くすんだ冷たい世界は、色を取り戻し、温かさを感じるようになっている。なぜか。答えはひとつ。

『大翔さん』

 彩佳の声。すっかり耳に残るようになった声がすぐに脳内で再生される。彩佳が隣にいるようになって、まるで雪解けのように世界のぬくもりを感じられるようになった。だが、同時に大きくなってきたものもある。それが七瀬の存在だ。
 彩佳と過ごす時間が増えるにつれて、普段でも七瀬との記憶が鮮明に思い出されるようになってきた。でも、彩佳といる時はそれを見せないようにしている。きっと、彩佳はそれを嫌うだろうからだ。
 どこかに、七瀬の存在を感じている。世界が色を取り戻したのも、ぬくもりを感じられるようになったのも、それが原因なのだろうか。なら、彩佳の存在は俺にとって何なのか。
 彩佳が好きなのか、と聞かれればはっきりと言える。好きだと。清楚さと、大人っぽい綺麗さの中にある純粋さ。普段は純粋さを感じられないような、明るい言動。一緒にいて安心できることが多い。この生きている世界。ここに俺を呼び戻してくれたのは、間違いなく彩佳なんだ。
 そんな彩佳の中に、七瀬の面影を見るようになったのは、非常にまずいと思った。彩佳と七瀬は違う。それはわかっているし、二人を比べるようなことをしてはいけないと、常に思っている。それでも、時おり彩佳の中に、七瀬の面影を見る。似ていると感じることがある。
 彩佳と映画を観に行った。隣にいるのが彩佳だとわかっていた。彩佳が眠そうにしているな、と感じた時に横目で見た。その時、彩佳が七瀬に見えてしまった。
 暗闇の中だったけど、それはやけに鮮明に見えた。思わず小さく、「七瀬」とつぶやいてしまった。彩佳には聞かれていなかったのは幸いと言ってよかった。
 七瀬の存在が、思い出が。これまで大きすぎるだけだ。そう思っていた。まだ彩佳との思い出が足りていないだけだと。それで納得できていたところがある。けれど…。
 晴れた空。澄んだ青色が、やけに輝いて見える。中天に浮かぶ太陽は、この世界を照らす希望そのものだ。
 あの日。彩佳と行った祇園祭。踊りをみながら眺めた、花火。一際大きな花火が打ち上がった。あの瞬間。俺の耳に聴き覚えのある言葉が響いてきた。

『ひろくん』

 あれはたぶん、聴き間違いなんかじゃないだろう。たしかに俺の耳に届いたその言葉。それは俺のこれまでの人生の中で、七瀬しか言ったことのない言葉だ。彩佳は今まで、俺を大翔さん、としか呼んでいない。
 あれ以来、彩佳はこれまで通り、俺を大翔さんと呼んでいる。祇園祭でのことを問い詰めることは出来なかった。なぜかそこは踏み込んではいけない気がしたからだ。
 あれは彩佳の変化なのか、それとも異変なのか。答はまだ見つからないでいる。
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