秋風吹いて 五

文字数 1,398文字

「お疲れ様でした」
 事務室に下がって、勤怠登録を済ませる。ロッカールームで着替えを済ませる。
 今日、オーナーの奥さんから、正式にオーナーが復帰することが告げられた。虫垂炎だからそれほど時間はかからないだろうと思っていたが、わりと復帰に時間を要した格好だ。本店は深夜勤務のフリーターも新しく雇って、人員に余裕が生まれてきていた。
 ところが物事というのは万事上手く運ぶとは限らないようだ。本店が充実すると、今度は福ちゃんのお店が人員不足になる。昼間のパートさんが抜けたのだ。という訳で俺は福ちゃんのお店に戻ることになった。
 ただし、時間帯は朝から夕方まで。彩佳と一緒になることはない。自分で言うのもなんだが、交際している間柄の二人が、同じ時間帯で仕事をするのはいろいろ問題もあるだろうと思っている。
 だが、今は彩佳の様子が気になる。彩佳に相談話を持ちかけてから、2週間ほど経過した。あれから彩佳の様子が少し変化したのだ。どう変化したのかと訊かれると、上手く答えることは難しい。それでも、彩佳の様子は変わっていた。
 たまにひどくぼーっとしている時がある。話しかけても、心ここにあらずというような感じだ。会話が始まればいつもの彩佳なのだが、それ以外での変化がある。やっぱり、あの日の言葉が胸によぎってしまう。
『私、ずっと、大翔さんの隣にいても、いいんだよね?』
 あれはどういう意味合いを持った言葉だったのか。ずっといてもいいも何も、すでに彩佳とはそういう関係になっている。あえて口にしなくても、お互いに行動にしている訳だし、それは彩佳もわかっているはずだ。
 女の子はたまに突拍子もないことを言ったりするのだろうか。七瀬も、そうだった。不意にこれまでの会話とは脈絡のないことを言ってきたりした。
 あれは、いつだったか。いつかはよく思い出せないが、七瀬が突然おかしなことを言ってきたのを覚えている。
『ねえ、こころはどこにあると思う?』
 思わず二度と聞き返したほどだ。心が何処かなんて、そんなの考えたこともない。テキトーにあしらおうとしたけれど、七瀬は真剣な顔つきでこう言い切った。
『私は、こころは胸にあると思う。だって、心臓にはこころっていう文字が入っているし。たとえ心臓が止まっても、大切な気持ちは残って、大切な人に伝わり続けるんだよ』
 力説、していたな。
 七瀬にしては、かなり真剣だった。いや、史上ベスト3くらいに入る真剣さだった。
 無意識のうちに、笑みがこぼれていることに気づいた。そんな自分に驚く。今までは七瀬のことを思い出せば、悲しみがこみ上げて、虚しさに包み込まれるだけだったのに。
 七瀬は、生きているんだな。
 なんだろうか、急にそんな気持ちになってきた。七瀬を喪ってからも、何処かに七瀬の影を探していた。なんで頻繁に墓参りに行っていたかって? そんなもの決まっている。七瀬に会いたかったからだ。
 じゃあ、なんでそんなに会いたかったのか。別れがつらくて、今でも寂しいからなのか。
 何かが抜け落ちている気がする。大事な何かが。忘れてはならない大事なものが、まるで忘却という名の深い海の底に沈んでしまったかのように、探しても探しても見つからない。
 そうか。二年前からこの状態が続いている。暗闇を見つめていたのは、探していたからだ。大事なものを…。
 そして…。
 今までも俺は、七瀬を、探しているんだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み