TIME After TIMEを聴きながら 二

文字数 3,422文字

 この町は山に囲まれた町だった。小さい山なら市街地から二十分くらい車を飛ばせば、すぐに着く。ずっと登っていけば、雲が見える雲山。本当に雲が見えたことはない。子供の頃からそう呼んでいた。
 雲山の麓の信号で、赤信号で停車した。この山の中腹にあるお寺に、七瀬は眠っている。もう二度と覚めることのない眠りだ。葬儀の際に行った斎場も、この雲山を登っていったところにあった。
 信号が青に切り替わる。前の車が発車したのを見て、アクセルを踏み込む。あの日と同じ景色。葬儀場から斎場へと移動する景色だった。雲山をゆっくりと登っていく。
 一周忌の時や、お盆。年明け、九月のお彼岸。何回かここに来ている。けれど、この山道は好きになれなかった。
 葬儀場で白木の棺に入った七瀬に触れた。ぬくもりが消えたその身体は、七瀬であって、七瀬ではなかった。もう七瀬はそこにいない。手から伝わってきた冷たい感触が、俺にそう教えてくれた。その瞬間、周りに人がいるにも関わらず、涙が溢れてきた。止めようとしても涙は流れ、嗚咽も漏らしていた。
 棺に花を入れる時が、七瀬を間近で見る最後の機会だった。指先で触れた感触。それは七瀬が失われた、この世界の虚しさだった。暗く冷たい闇が、この世界に降りてきた。
 葬儀場からマイクロバスに乗って、雲山の頂上にある斎場へ向かった。バスの窓からぼんやりと外をお眺めていた。斎場へ向かう山道。舗装されていて、揺れることはほとんどなかった。どんどんと登っていく。離れていく市街地の景色。天国への道のように感じられた。天上と下界。その境目を登る道。そう感じたのを、今でもはっきりと覚えている。七瀬はこの道から天国へ昇り、俺は生きていて、それを見届ける。俺と七瀬の住む世界は、別たれた。
 斎場で七瀬の火葬が行われた。火葬が終わるまでの時間、待合室では食事が用意されていた。食べる気にはなれなかったし、食欲もなかった。しかし、この食事を用意したのは七瀬の両親で、お金がかかっている。それを考えて、しばらくしてから手を付けた。食べたものの味がしなかった。
 火葬が終わって、台車が引き出された。台車の上にあったのは、白い綺麗な骨だった。七瀬の姿はどこにもなくて、何をもってして七瀬の遺骨というのかと、不思議になった。骨壺に七瀬の骨が入れられていく。その時にまた涙が出てきた。
 それまで当たり前のようにこなしていた仕事で、些細なミスをするようになったのは、七瀬の葬儀が終わってからだ。ぼんやりしていることが多く、特売品の売場を作り忘れたり、シフト作成で穴を作ったりした。同時に体調を崩すようになった。
 すべてが駄目になっていった。坂を転げ落ちるような勢いといってもいいだろう。
 何より辛かったのは、休日だった。これまでは七瀬と当たり前のように出かけていた。昼間に出かけられなくても、夕方食事に行き、夜は車で街中を巡り、たくさん話をした。それができない。休日は出かけなくなり、身体と精神のバランスが保てなくなった。退職してからも、しばらく何も手がつかなくなった。
 山道を進んで行く。木漏れ日がわずかに車内に降り注ぐ。葬儀の日も四十九日の日も、澄み渡る青空が広がっていた。林の立ち並ぶ道を抜けると、左手に市街地が見下ろせた。柔らかい陽射しが降りてきて、陽光のぬくもりを感じ取れる。それでも世界は冷たいままだ。
 四十九日の法要が終わって、七瀬の遺骨はお寺の裏手にある墓地に埋葬された。墓地は緩やかな傾斜に建てられていた。
 お寺自体が雲山の中腹にある。そのために、墓地からは市街地が一望できた。七瀬のお墓は一番上にあった。最も景色がよく見える場所で、いかにも七瀬が好きそうな風景が広がっていた。墓地だから写真を撮ることはなかったが、お墓がなかったら写真を撮っていたと思う。
『ここなら、七瀬も淋しくないと思ってね』
 そう七瀬のお父さんが言ったのを覚えている。
 三ヶ月もすれば、悲しみも癒えるのだろうか。そう思っていたが、全然そんなことはなくて。むしろ心にある空虚な穴は、些細な喜びすらも吸い込んでいく、まるでブラックホールのようだった。
 山道を登って、やがてお寺の入口が見えてきた。お寺の敷地に入るにも、傾斜を登る。敷地に入って、駐車場にミライースを停めた。見覚えのある車がすでに停まっていた。七瀬の両親の車だ。俺も早めに来たつもりだったが、もっと早く着いていたようだ。
 後部座席から花を取りだした。菊とアイリスの花束だった。早めに来て、七瀬のお墓参りをすることは、もう決めていたことだ。そのために事前に花を用意しておいた。
 お寺を通り過ぎて、裏手の墓地へ向かった。緩やかな傾斜。年明けに訪れた際には、氷が張っていて、滑ってしまった。
 七瀬のお墓の前に、人がいた。遠目からでも誰かわかる。七瀬の両親と、弟の昂希だった。俺の姿を見つけた昂希が、大きく手を振ってきた。人懐っこい笑顔は七瀬に似ている。やはり姉弟(きょうだい)だった。
 昂希は今年から県外の大学に通う。大学で臨床工学技士になるための勉強をするらしい。
 臨床工学技士は、医師の指示のもとで、医療機関にある生命維持管理装置の操作や点検を行う。
 姉である七瀬の死が、昂希の進路にも少なからず影響を及ぼしたのだろうということは、容易に想像できた。
 七瀬の両親と昂希に挨拶をした。七瀬のお母さんは、明るくて気さくな人だった。七瀬が亡くなってからしばらくは塞ぎ込んでいたようだが、最近は俺の母とまたよく出かけるようになっていた。
 七瀬のお父さんは口数が少なく、穏やかな人だった。それでも七瀬と昂希を叱る時は、別人のように怖かった。ちなみに俺が戦国オタクになったのは、七瀬のお父さんの影響だった。
「晴れてよかったね」
 昂希の声は頭上に広がる青空のように晴れやかだった。俺は頷きながら、七瀬のお墓から見える風景に目をやった。市街地が見える。町は変わらない。穏やかな景色のままだ。けれど俺にとっては、大切なものが失われた町だった。
 持ってきた花を墓前に供えると、線香を焚いて手を合わせた。目を閉じれば、七瀬の笑顔が浮かぶ。声も聴こえてくる。闇の世界は、七瀬のいる世界と繋がる扉でもあった。目を開けると、先ほどと変わらない、いつもの冷たい世界が広がる。
 ドラマみたいな不幸。ひと言で表すなら、そういうことになるのだろうか。
 どんなに泣いても、悔やんでも、時間よ戻れと思っても、七瀬はもう戻ってこなくて。その現実を受け入れることができない自分がいて。それでも、世界は時を刻み続ける。
 ああしておけばよかった。こうしておけばよかった。七瀬を喪ってからは、そんなことばかりが頭に浮かんでくる。一緒にいることが当たり前だったから、伝えていないこともたくさんあった。
 ひろくん、好きだよ。大好きだよ。七瀬はそんな言葉をよく俺に言ってくれていた。
 でも、俺は──。
 気恥ずかしさからだろうか。俺は七瀬に好きだと、言葉で伝えたことが一度もない。言わなくてもわかると思っていた。
 休みの日は一緒に出かけて、誕生日にはプレゼントをあげて、クリスマスも初詣も一緒だった。幼なじみだから。だからこそ、言葉にして伝えることが照れくさかった。いつか伝える時が来たら、言葉にして伝えればいい。そう思っていた。しかし、結局伝えられないまま、七瀬は死んでしまった。
 共にいられる時間を大切にするということは、会えなくなった時に後悔しないためでもある。日頃から想いを伝えておけば、いざという時に後悔しない。俺は七瀬に伝えるべきだった言葉を胸に秘めたまま、ずっと後悔を引きずっている。
 わかってくれているなんて、自己満足だ。大切なことは、言葉にして伝えなくちゃいけない。ただひと言。好きだと伝えていれば、それだけで七瀬はとても喜んでくれただろう。七瀬の喜んでいる姿を見るだけで、俺もきっと幸せな気持ちになれたはずだ。
 七瀬はずっと、言葉にして伝えてくれていた。俺は応えることはできなかったけれど、七瀬が伝えてくれた想いは、七瀬のぬくもりを持ったまま、心に宿っている、そして、それが悲しみを深くする。
 もう一度会いたい。会って言葉にして伝えたい。叶うことのない望み。それだけが胸の中を駆け巡る。
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