TIME After TIMEを聴きながら 五

文字数 6,747文字

 明太チーズ。新発売というシールが貼られたおにぎりを手に取る。
 このおにぎりひとつとっても、さまざまな人が関わってようやく商品化がなされている。材料をどこから調達するのか。具材のレシピをどうするのか。
 もちろん美味しく作ることは当たり前だが、企業である以上利益を出さなければいけない。商品は利益を出すことで、初めて商品足り得るのだ。
 自分ならばどのような商品を提案するか。単純に自分の好きなもの。それだけでは商品化はされない。今求められている商品。それは買い物に来るお客の動向を見れば、少し見えてくる。求めているのは手軽さだ。
 自分で朝食やお昼を作ったほうが、長期的視野でみれば経済的だろう。しかしそれには時間をかけなければならない。朝早く起きるのはもちろんのこと、お弁当を持参すれば、食べた後の洗いものも欠かせない。
 今の日本人は、ただ生きるために働いている訳ではない。周りには多種多様な娯楽が満ち溢れている。そうしたものを楽しみ、人生に彩りを持たせる。その時間のために、コンビニで朝食や昼食を買うのだろう。買っているのは食べ物だけではない。そこには時間も含まれている。
 もうひとつ重要なこと。それは健康である。コンビニで販売されている商品には、昔から不健康なイメージがつきまとう。
 事実として、俺もコンビニで働きはじめ、廃棄されるものを持ち帰って食べていたら、ブクブクと肥っていった。最近ではテレビのCMなどで、無添加、保存料、着色料不使用を謳っているものがある。だが保存料としての側面を持つうま味調味料が多く使われているのか実情だ。
 そうしたイメージを払拭するために、健康をイメージさせる商品を多く打ち出している。最近は男性でもサラダなどを購入する頻度が高い。それだけ健康が意識されている。
 手軽で健康をイメージするもの。それが現代人に求められているものだろう。それでもやはり味はしっかりとしなければならないのは、言うまでもない。
「高橋さん」
 静止していた時間が、突如として動き出す。思考の海に没頭していた状態から、現実の世界へと、頭の中のチャンネルが切り替わる。振り向くと川端さんが少し困った表情で立っていた。何か不測の事態が発生したのだろうか。
「どうしたの?」
「あの。お客さんが、コピー機のインクリボンが切れてしまったと言っていて、どうすればいいですかね?」
「わかった。俺がやるよ。また改めてやり方教えるから、川端さんはレジで接客の方をお願いしていいかな?」
「わかりました。すみません」
「いいよ」
 一度頭を下げた川端さんは、レジへと戻った。俺は店内をぐるっと見て回った。店内にいるお客は三人。そのうちの一人は、コピー機のインク交換を待っているお客だ。インクリボン交換は、コピー用紙を補充するように簡単にはいかない。少し時間がかかる。
 これくらいのお客なら大丈夫だろうと判断し、すぐにレジカウンター内にあるインクリボンと、写真プリンターの交換用紙を以て、マルチコピー機へと急いだ。
「すみません。お待たせしました」
 待っていたのは十歳くらいの女の子を連れた女性だった。手早くインクリボンの設置部分を引き出すと、インクリボンを交換して、写真プリンターの用紙を交換した。
「お時間取らせて申し訳ございません。只今復旧しましたので、どうぞ引き続きご利用ください」
「ありがとうございます」
 お客に一礼してからレジカウンターへ戻る。川端さんがレジを打っていたが、お客は並んでいなかった。
 川端さんもすっかり手慣れたものだ。サッサとレジ業務をこなす。俺は交換したインクリボンと写真プリンターの用紙を処分すると、手を洗った。
「高橋さん。ありがとうございました」
 レジを打ち終えた川端さんが近づいてきた。二人いたお客はいなくなっていた。
「コンビニの仕事って、結構覚えることがありますよね」
「そうだね。最近はサービスも増えてきて、そのたびにこちらの作業も増えるからね。確かにひとつひとつの作業はそれほど負担にならないかもしれないけれど、それら全部をやるとなると負担は大きいね。特に人不足も影響しているし」
「なんでこんなにやることあるのに、新しいサービスとか導入するんですかね?」
「同業他社がやっていると、やらない訳にいかないってのもあるよ。最近は共働き世帯も増えているけれど、人間っていうか、特に日本人は生きるために働くっていうだけじゃないからね。子供のことにしてもそうだし、昔はスマートフォンなんてなかったじゃない。けれどスマートフォンが普及して、手軽にネットに繋がれる時代になった。SNSを見たりソーシャルゲームをしたり、ネットやってると驚くほど時間過ぎるの早いし、そうした時間が欲しい。だから身近なコンビニが利便性を追求していくんじゃないかな」
 まさしく先ほどまで考えていたことと同じようなことを喋っていた。横で川端さんが感心したような顔で何度も頷いていた。
「でも本当に便利ですよね。レンジでラーメンができたりとか。私、あれ感動しましたもん」
 本当に感動したのだろう。それでも少しだけ違和感を覚えた。コンビニのラーメンやチルド弁当は、確かに商品としては新しい部類に入る。しかし最新という訳でもない。少なくとも俺が入った時はすでにあった。
「もしかして、川端さんて、あまりコンビニに来たことない?」
 何気なく訊いたつもりだった。しかし川端さんは驚いて目を丸くしていた。そんなに驚くような質問ではなかったと思うけれど、何か訊いてはいけなかったのかという気がしてきた。
「実はあまりコンビニ利用したことないんです。だからこそ、いろいろ目についちゃうんですよね」
「やっぱり、そうなんだ。俺の友達にも、社会人になるまでほとんどコンビニ行ったことない人いたよ」
 毎日コンビニを利用しているのは、一部の社会人だけだろう。毎週新商品が発売されることを、知らない人も多い。たまにしか足を運ばない人ならば、尚更知らない。川端さんもそうなのだろう。
 お客が少なかった。いつものように、時々客足が途絶えるというレベルではない。全体的に客足が鈍い。まるで示し合わせたかのように、一斉にお客が来なくなる。そういう時がたまにある。
 なんとなく、レジ横にある小さな冊子を手に取る。地元限定で発売されているものだ。多くの飲食店が掲載されている。
 その飲食店が自店のメニューの中から、一品目を紹介している。この冊子を購入して掲載されている飲食店に行くと、紹介されているメニューが五百円で食べられるというものだ。
 かなりお得。だが期限が決まっていて、元を取るには短い期間で多くの飲食店を回らなければならない。
 ページをパラパラとめくっていると、ラーメン特集のページで手が止まる。最近ラーメンを食べに行っていないな、とふと思った。出かけることさえ億劫になっている気がする。
 そんなことを考えながらめくっていると、一番お気に入りのラーメン店が載っていた。掲載されているメニューも、一番好きなメニューだ。ページをめくる手を止めて、じっと見入る。
 頭の中にある、味の記憶、香りの記憶。それが取り出されて、舌や鼻に伝わる。見ているだけで、そのすべてが思い出せる。そして脳が身体全体に、信号を飛ばしている。食べたい。なんだが無性に食べたくなってきた。今度の休みにでも行こうか。
 ふと人の気配を間近に感じた。川端さんがいた。手には箸やスプーンを持っている。時間が空いたので、レジ下の箸などを補充していたのだろう。ちょっと身体をどけると、川端さんが失礼します、と言って俺のレジ下の箸やスプーンを追加した。
 補充を終えた川端さんが、目を止めた。視線の先には、俺がずっと見ていた冊子があった。
「なに見てるんですか?」
 川端さんが好奇心に溢れている目で、俺の手元の冊子を覗き込む。自然と身体が近づいて、いい匂いが鼻に伝わる。一瞬目に入ったその横顔に、少しドキッとする。最近こういう反応が自分の中で多い気がする。
「この本を買うと、掲載されているお店が紹介しているメニューが、五百円になるんだ」
「え、ここに載っているの全部ですか⁉」
 黒眼鏡の奥がまん丸くなる。くろがねマスクスタイルは相変わらずだけれど、表情はちゃんと読めるようになっている。
「そうだね」
「すごい。これ一冊でなんて、お得すぎますね」
「でも、ここに期間が書いてあるでしょ。この期間中に行かないといけないの」
「ホントだ。これ全部回るとなると、ちょっと短いかもしれないですね」
「でしょ。ちなみにこの本の価格は、税込み九百八十円。これを安いととるか、高いととるかだね。例えば休日に必ずどこかのお店を回るっていうのなら、安いと思うけど」
 俺と川端さんの視線が、ほとんど同時に冊子の誌面を見た。目に入ってきたのは、俺のお気に入りのラーメン店の人気メニューだ。もう一度見ても、やはりそそられるものがある。
「鶏白湯ラーメン。これってもしかして、高橋さんが言っていたラーメンですか?」
 川端さんの言っていることを理解するのに、わずかだが時間を要した。そういえば、こないだ帰り送っていった時に、ラーメンの話をしたような気がする。
「そう。よくわかったね」
「なんとなーく、ですけど。高橋さん、このページじっと見ていたし、これかなって思いました」
 言ったかどうか定かではなかったので、会話を合わせてみたらちゃんと通じた。ジャズの話をしたのは鮮明に覚えているのに、ラーメンの話はあまり覚えていない。
「最近全然行ってないなぁと思ってね。見てたらなんか無性に食べたくなってきた」
 実際、本当にお腹が空いてきていた。これで廃棄の弁当などを食べたとしても、舌の方は満足しないだろう。胃袋は満足しても、舌や脳はこれ以上ないくらいラーメンを求めている。
「ここって遠いんですか?」
「結構あるね。車で三十分近いかな。駅前を抜けていく道と、国道を行く道二つがあるけれど、どちらも混むからね」
「へー。行ってみたいけれど、徒歩だから厳しいかなあ」
 ラーメンと聞くと一部の女性は脂のたっぷり浮いた豚骨ラーメンのようなものをイメージして敬遠するが、川端さんは本当に行きたかったようだ。
 冊子を俺の手から取り、川端さんはじっと鶏白湯ラーメンのページを見つめている。世間的にも鶏肉は低カロリー高タンパクで知られている。そのために女性を惹きつけるものが多いのかもしれない。
 しばらくして、深夜勤務の人たちがレジに出てきた。もう深夜前だと言うのに、おはようございますという挨拶を交わす。何故なんだろう。時計を見ると残り時間は五分ほどだった。
「残り時間五分とか、めっちゃ長く感じるな」
 思わず独り言みたいに口から出た。川端さんは隣でまだ鶏白湯ラーメンのページを見ていた。真剣そのものだ。そんなに気に入ったのだろうか。
 五分が経過すると深夜勤務の人たちに挨拶をし、今日のPOPの付け替えを伝えた。指示事項を伝えると、俺は川端さんと一緒に事務室に下がった。
 勤怠管理を済ませると、着替えるために休憩室へ向かう。
「あれ、川端さん。それ買うの。お金は?」
 勤怠管理画面を操作し終えると、川端さんはグルメ冊子を両手で持って俺の方へ向いた。普段は最小限のお金しか持っていないと言っていたはずだ。しかし冊子を両手で持つという何気ないポーズが、やけに可愛く見えた。
「今日は帰りに買いたいものがあったから、お金持ってきているんです。でもどうしようかなっと思ってて。高橋さんおすすめのラーメン店に行ってみたいけれど、ひとりで行くには遠いですよね」
「そうだね。徒歩じゃあ片道二時間はかかるよ」
「できるなら、次の金曜日にも行きたかったな…」
 川端さんはグルメ冊子を両手に持ったまま、視線を床に落とした。家族で行けば大丈夫だろうが、そこまで広い店ではない。金曜日の夜は混んでいるかもしれない。
 金曜日。俺も休みだ。
 久々に行きたいと考えていた。川端さんが行ってみたいと言っている。そして今度の金曜日はお互いに休み。
 一緒に行ってみる?
 なんて学生時代に出たであろうその言葉が、何故かすぐに口から出てこなかった。
 その言葉を口にするために必要な、心のパスワードがどうしても思い出せない。どうしてその言葉を言えなくなってしまったのだろうか。
「やっぱり戻してこようかなぁ。近所で行きたいところがあっても、一番行きたいところに行けないのは、なんか悔しいし」
 前にもこんな光景を見たような気がする。その時、脳裏に何かが甦った。現実の世界にいながら、違う世界の景色が眼前に映った。悲しい顔をして、しょんぼりしている。仕方なく諦めて、帰ろうとする。そんな顔をさせたくなくて、俺は意地になった。何より笑っている顔が見たかった。
「あのさ…」
 思わず声が出ていた。あとひと言。そのひと言で、この世界線の何かが変わる。
 でも俺はその言葉を口にしていいのか? 川端さんはその言葉を望んでいるのか? そして、七瀬は…? わずか数秒の間に多くの考えが頭に浮かび、そして思考の海へと消えていく。
 言葉が出てこないまま、数秒。川端さんと見つめ合う。どんな言葉を望んでいる? その瞳に答はない。答はきっと俺の中にあるんだ。川端さんはじっと俺を見つめている。
 これじゃあ俺、変なやつみたいだな。情けない自分がそこにいた。
「俺も、金曜日休みだったからさ。さっきも言ったけど、最近全然行ってなくて。もしよかったらなんだけど…」
 少しずつ、少しずつ。言葉が出てくる。それでも精一杯の力を振り絞っている。身体中から汗が噴き出しているのがわかる。何の汗なんだろう。じっと見つめる川端さんと目が合った。
「そのラーメン、一緒に食べに行かない?」
 じっと見つめ合う二人。川端さんの表情が変化していくのが分かった。
 くろがねマスクの奥。まぶしいほどの笑顔になっていた。きっと他の人にはわからない。くるがねくろがねマスクの下の表情なんて、誰も見ようとしない。でも俺にはわかる。まるで輝いているみたいな笑顔だ。
「いいんですか。じゃあ、高橋さんもこの本買わなきゃいけないですね」
 グルメ冊子を胸に抱いた川端さんが、少し顔を横に向けて俺を見つめてくる。なんていうか、照れくさい気持ちになる。同時に高揚するような気持ちも湧いてきているのを感じた。
 この感情は、久しぶりだった。鶏白湯ラーメンの味よりも懐かしかった。
「じゃあ今度の金曜日で、いいかな?」
「そうですね。じゃあ連絡先交換しませんか?」
「わかった」
 自分のiPhoneを取り出す。川端さんも自分のiPhoneを取り出していた。俺のiPhoneとは違って、花柄のカバーや可愛らしい装飾がなされていた。
 俺の連絡先と川端さんの連絡先。お互いの連絡先を交換する。
 川端 彩佳。
 俺のiPhoneに新しい連絡先が登録された。
「時間はまた連絡しようか」
「そうですね。でも明日もここで一緒ですけど」
 自然と川端さんと目が合う。お互いに笑みがこぼれた。
「あ、いけない。もうお母さん来てる」
 ふと監視カメラに目をやった川端さんが、慌てた様子で休憩室へと向かった。
「今日はお母さんなんだ?」
「はい。お父さん、まだ出張中なので」
 監視カメラに目をやると、車が一台停まっていた。赤い車だ。
 TOYOTAのLEXUS RⅩだった。これまたお高い車だ。俺みたいな庶民にはとても手が出ない。
「高橋さん」
 そんなことを考えていると、川端さんの声が耳に入ってきた。
 声のした方へ向くと、いつものベージュのコーディガンを着た川端さんが立っている。右手にカバンを持ち、左手にはiPhoneを持って、そのiPhoneを横に振っていた。
「帰ったら連絡しますね」
「あ、うん。よろしくお願いします」
 くろがねマスクの下は笑っている。俺の心臓がドキッと鳴った。俺の上ずったような返事を意に介さず、川端さんはiPhoneをカバンに入れると、俺に向かって手を振ってきた。
「おやすみなさい」
 扉が閉じる音がした。無音の室内に、俺の心音だけが響いている気がする。
 どくん、どくんと。
 いつもより心音が大きい気がするのは、気のせいだと言い聞かせる。それでも胸の高鳴りははっきりと響いていた。
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