くろがねマスク 五

文字数 3,443文字

「ありがとうございました」
 お弁当とサラダを購入したお客を見送る。ふとレジの時計に目をやった。午後五時二十分。コーヒーマシンの確認をしようか、と思った時、事務室に繋がる扉が開いた。
 くろがねマスク、もとい川端さんが、ゆっくりと事務室から出てきた。相変わらず表情は窺えないものの、目には力が戻っている。気がした。
「もう大丈夫? 無理はしなくていいからね」
 声を掛けようと思ったら、福ちゃんが先に訊きたいことを言ったので、俺はただ二人のやり取りを見守った。
「すみませんでした。なんか急にフラフラしちゃって。でも、もう大丈夫です」
 何度もぺこぺこと頭を下げるので、なんか逆にこちらが悪い気がしてくる。とりあえず大丈夫そうなので、なんとか働けるだろう。
「うん。じゃあ高橋さんについて、いろいろ教わって」
 え? と思った。俺が教えるのか。
 これは店長の仕事だろう。などと言い出せる雰囲気ではない。「よろしくお願いします」と、川端さんが頭を下げてきて、拒否のできない空気は完成された。
 出入口側のレジに立った俺の隣に、川端さんが立った。衣服からだろうか。嗅いでいて心地のいい匂いが鼻に入ってくる。女の子の匂い。なんとなくそう感じた。
「最初はレジと接客に慣れてもらうことにします。まずはレジ打ち。俺が袋詰めなんかのフォローに入りますけれど、一人でも早くこなせるように、意識をつけてください」
「はい」
 お客が来店した。「いらっしゃませ」と俺が声をあげる。向こうのレジから福ちゃんの声も聴こえた。川端さんの声もしたが、マスクのせいなのかはわからないが、声量がどうも小さい。
「川端さん。いらっしゃませと、ありがとうございましたは、大きな声で言ってください。接客業の基本なので」
「わかりました」
 返答の声量も小さかった。表情も窺えないし、なんともつかみどころがない気がする。
 別にスーパーの鮮魚コーナーみたいな威勢のよさは求めていない。声が小さいというクレームを入れるお客もいるので、来客の挨拶は重要なのだ。自分の立場になればわかる。やはり元気よく挨拶してもらった方が気持ちよく買い物ができる。逆にトイレに立ち寄らせてもらっただけの際には申し訳ないが。
 お客がレジに来た。買い物かごを受け取った川端さんは、スキャナーを手に取り、商品をスキャンしていく。俺は横目で川端さんの様子を窺いながら、手早くレジ袋に商品を詰めていく。代金を受け取り、お釣りを渡す。「ありがとうございました」川端さんの声が聴こえ、お客が退店した。
「レジにお客様が来たら、軽く頭を下げて、ありがとうございますって挨拶してください。そこから商品をスキャンする作業に入りましょう」
「…わかりました」
 はっきりとわかるトーンダウン。絶対に細かいところまでうるさいなこいつと思われているのだろう。仕方がない。新人教育を任される者は、口うるさく言わないといけないのだ。向こうのレジでノビノビと作業している福ちゃんが恨めしい。まさに店長の仕事だ。さっき福ちゃんの体調を心配したことを後悔した。
 見たところ、レジ業務そのものは問題なさそうだった。操作に戸惑うというところもない。時々手が止まるが、それは間違いなく慣れる。どうすればいいかわからないために止まるのではなく、入力ボタンがどこにあるかわからないために止まっているからだ。
 来店客が店に入ってきた。来た、と思った。血のような赤い口紅。丸い眼鏡から覗く鋭い目つき。モンスターマダムである。俺がつけたあだ名だが、とにかくいろいろ口出しする。それも細かいところまで。いわゆるクレーマーみたいなものだ。
 今日は福ちゃんがいるので、余計に緊張が走った。勿論川端さんは知らない。しかし新人にとってモンスターマダムは難易度が高すぎる。
 いつもなら何も感じないものを、全身に緊張が走っている。モンスターマダムは買い物かごを手に取り、店内の商品を物色している。オープンケースで立ち止まる。おにぎりの裏面のラベルを確認している。日付を見ている。そしてオープンケースに戻す。それを繰り返し、やがて買い物かごが商品で埋まっていく。福ちゃんのレジに行ってくれるのが一番ありがたいが、生憎福ちゃんのレジにはすでに別のお客がいた。
 モンスターマダムがこっちのレジにやってきた。どかっと買い物かごをカウンターに置く。「いらっしゃませ。ありがとうございます」川端さんが買い物かごを受け取り、一礼した。ここまでは、いい。俺はちらりと買い物かごの中を見た。二リットルのミネラルウォーター。十個入の卵。ティーパックのお茶。ミックスサンド二個。ホットのミルクティー。
 これまた微妙に難易度の高いものがチョイスされている。実は本部からの回し者だったりするのだろうか。
 卵は割れても駄目だが重いもの。ミネラルウォーターは袋の真ん中に置かないと、袋の口が閉じない。サンドイッチは潰れる危険性があるので、ミネラルウォーターと一緒に入れる際には注意が必要だ。
「肉まん二つちょうだい」
モンスターマダムがレジ横の中華まんを注文してきた。
 これは意外だった。いつもはあまり頼まない。俺はレジを川端さんに任せて、中華まんの什器を開けて、肉まんを二つ取り出した。
 ファーストフード品を取るのは意外に時間がかかる。モンスターマダムの存在は、福ちゃんも知っている。福ちゃんがこちらを気にしているのが、横目でわかった。
 肉まんを入れた袋を二つ持って、レジへ急いだ。モンスターマダムがどんな攻勢をかけてくるかわからない。さっと終わらせて早く帰っていただくのが最善だろう。
 レジに着いた瞬間、あっ、と声を上げそうになった。しかし遅かった。川端さんがレジ袋に、二リットルのミネラルウォーターとサンドイッチ、ティーパックのお茶とホットミルクティーを入れた。やってしまった、と思った。
「ちょっと! 何であったかいものと冷たいものを一緒に入れるのよ! 分けて入れるのが普通でしょ!」
 鬼の首を獲ったかのように、モンスターマダムが川端さんに詰め寄った。びっくりしたのか、川端さんは完全に硬直してしまっている。
申し訳ございません」俺が謝ったその瞬間、福ちゃんが隣のレジから駆けつけてきた。
「大変失礼致しました。本日から勤務を開始したばかりの新人アルバイトでして、わたくしどもの指導が行き届いておりませんでしたので、このようなミスにつながったこと、深くお詫び申し上げます。今後このようなことがないよう、指導を徹底します。大変申し訳ございませんでした」
 福ちゃんがモンスターマダムに深々と頭を下げた。空気を察したのか。川端さんも頭を下げる。俺は後ろに並んでいるお客がいたので、福ちゃんの入っていたレジに入った。
 常連客のひとりで、「あのババアまたやってるな」と言って、モンスターマダムを睨んだ。コーヒーとタバコを注文して、その常連客は退店した。
 モンスターマダムが福ちゃんと川端さんを口撃しているので、俺はしばらくレジで接客をした。どのお客もモンスターマダムを怪訝な表情で見つめていく。おかしいとは誰もが思っているのだろう。
 モンスターマダムが去ると同時に、店内からお客がいなくなった。俺は福ちゃんと川端さんがいるレジへ行った。川端さんはショックのためか、すっかり気落ちしていた。初日からの象と蟻の攻防。無理もない。これで接客が嫌にならなければいいが。
「すみません。店長。俺がちゃんと指摘しておけば…」
「いや、いいよ。川端さんも、気にしなくていいからね。ただ、次からは温かいものと冷たいものを分けて入れるとか、ちゃんとお客様に確認しよう」
「…はい」返事をした川端さんは、すっかり小さくなってしまっていた。
 福ちゃんは再び奥のレジに戻った。俺はというと、また川端さんと組んでレジに立った。しょんぼりしている雰囲気が伝わってくる。川端さんは初日からどえらいお客に当たってしまった。モンスターマダムは毎日来店する訳ではないので、こればかりは運がなかったと言うほかない。
「あのお客さんは結構うるさい人だから。レジに来たらミスのないようにしっかりやった方がいいよ」
 何か気の利いたことを言えばよかったのだが、口からは普通の言葉しか出てこなかった。川端さんの反応も薄く、ただ小さく頷いただけだった。
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