秋風吹いて 四

文字数 3,771文字

 昼下がりって、いつのことを言うんだろうか。
 そんなどうでもいい疑問が浮かんで、ついつい調べてしまう。液晶に映し出された文字は、正午をやや過ぎた頃。うん。まさに今、この時ということだ。
 助手席のドアが開く音がした。顔を上げる。彩佳が車に乗り込んで来るところだった。
「お待たせしました」
「最近、外で待ってないね」
「だぁって、暑いんだもん。溶けちゃうよ」
 溶ける、か。その言葉に、微かな笑みが漏れた。俺の世界の凍てついた氷は、すでに彩佳が溶かしてくれた。今、世界は少しずつ、温暖な気候になっている。
「なに? なんで笑ったの?」
「いや、彩佳がいてくれてよかったって、つくづく思ったんだよ」
 予期せぬ言葉だったのか、ちょっと彩佳は戸惑っていた。そんな彩佳に構わず、俺は彩佳に笑みを向けた。
「なんだ、大翔さんが変だ」
「変じゃないよ。普通」
 照れ隠しなのだろう。彩佳は窓の外に視線を向けた。
 車を発進させる。9月に入っても、依然として暑いままだ。このまま残暑は10月までも侵食して、やがて9月は残暑ではなくなるのかもしれない。いや、冗談ではない。本当にそうなりつつある。
 彩佳が車内に流れている歌を唄いはじめた。歌はけっこう上手かったりする。褒めてあげると、入退院生活のおかげという、リアクションに困る返しをしてくる。だが冗談だろう。実際は歌を唄う気分になんてなれなかったはずだ。なぜなら自分がそうだから。本当に絶望した時に、歌なんて唄わない。
 今日は俺から彩佳をデートに誘った。別にめずらしいことではない。俺からデートに誘うことは、わりとよくあることになっている。ただ、今日はデートプランとかは練っていない。話したいことがあっただけだ。いつ切り出すか。様子を窺っている自分がいた。
「…何かあったの?」
「え?」
 不意打ちみたいな、彩佳の言葉。思わず上ずったような声が出てしまって、何やら情けないやら恥ずかしいやら、という気持ちが湧いてきた。
「なんか、様子が変だし…」
 鋭い、となぜか流れ出る変な汗。大丈夫、落ち着け。悪いことは何もしていない。うん。これから隠し事の類はしないようにする。絶対。
「実は、さ。今日デートに誘ったのは、相談があったからなんだ。彩佳の意見をどうしても直接聞きたくて」
「相談?」
「うん」
 俺はここ数日、まるで環状線を回る電車のように、頭の中をぐるぐる渦巻いていた考えをすべて彩佳に話した。年上の彼氏の人生相談。正直笑っちゃうような内容だろう。
 自分で決めろよと言う人もいるかもしれない。でも、彩佳は真剣に耳を傾けてくれた。途中で口を挟むこともしなかった。
 自分でも知らないうちに、いつの間にか喫茶店の駐車場に車を停めていた。しかも普段来ることのない店だ。「とりあえず入ろうか?」と彩佳に促されてお店に入る。
 入ったことのないお店なので、自然と彩佳にくっついていく形になった。席に座るのではなく、最初にレジカウンターで注文をする形式らしい。注文の仕方も、全部彩佳の真似をした。
 彩佳はキャラメルフラペチーノを頼んでいた。俺はアイスコーヒーとマフィンを三つ。たぶん三つのマフィンのうちのひとつは、彩佳の口に入るだろう。
 席に着いて、話の続きをする。キャラメルフラペチーノを時おりかき混ぜながら、彩佳は聞いていた。
「履歴書とか、まだ書いてないの?」
「まだだよ。最初に電話連絡してくれって書いてあったけど、それもまだ」
「なんで、すればいいじゃん」
「まあ、なんとなく尻込みしてしまったっていうか…」
 彩佳が再びキャラメルフラペチーノをぐるぐるかき混ぜる。
「大翔さん。もっと自信持っていいんだよ? 私、大翔さんの仕事ぶりとか、本当に尊敬してるんだから。今ね、夕方で学生諸君が何もしないから、私が大翔さんのやっていたこと、いろいろやってるんだ」
「知ってるよ」
 彩佳が顔をあげた。俺が知っているということに、驚いているのだろう。少し意外な顔をしていた。
「福ちゃんから聞いてる。川端さんは真面目で、仕事も丁寧で、頭の回転も速くて、本当に助かってるって言ってた」
「えー、聞いてたの? 恥ずい」
「褒めてたよ、福ちゃん。入ってそんなに経ってないのに、ここまでできるのはスゴいって」
 実際、俺もそう思っている。
「それは大翔さんがいたからだよ。私は大翔さんの背中を見て、仕事ってこういうものなんだって思ったもん。まあ、私たちはアルバイトだけど。お金を貰っているっていうのは変わらないし。別に安い時給で雇われている訳でもないし。だったらちゃんとやるべきことはやるべきだよね。最初、入ったばかりの時は、大翔さんにいろいろ注意されて、ちょっとうっとおしくも思ったけど、でも、あれがなかったらダメな店員になっていたよ」
「俺は基本的なことを指導しただけで、学び取ったのは彩佳自身だよ」
「そういうことじゃなくて。だから、ね。私みたいな、社会のしの字も知りませんっていう女にさ、ここまで考えさせる働きぶりなんだよ」
「そうかな?」
「そうだよ。だから、大翔さん。もっと自信を持ってよ。もっと、もっとスゴい人なんだって、私は思ってるんだから」
「買い被りすぎだよ」
「そんなことない。店長だって言ってたもん」
「福ちゃんが?」
「うん。本来なら、コンビニで燻っているべき人間じゃないって」
 そんなこと、言われたこともなかったし、思っているなんて、考えたこともなかった。ただ、自分の正しいと思ったことをやろうとしていただけだ。
「大手だから? 学歴ないから? そんなの関係ないよ。第一、やってもないのに、わかんないじゃん。挑戦だよ、挑戦。ダメならそれでさ、ああやっぱりダメかあ、ってそれで済むじゃん。何も失うものないよ?」
 たしかに。ダメならそれで、こんな大手だし、やっぱりダメだよな。それで済ませればいいだけだ。俺は、何に迷っていたんだろうか。
 彩佳。俺の世界に光を射してくれた存在。それは今も変わらないし、これからもそうであってほしい。俺の世界に、寄り添っていてほしい。
「うん。いつも仕事している時の、カッコいい大翔さんの顔になった」
 彩佳が笑った。支えられてけっこうだ。彩佳がいるから、強くなれたんだから。
「じゃあ、早速電話しよう」
「え、今?」
「善は急げだよ。求人チラシ見てから時間経ってるんでしょ? 急がなきゃ」
「まあ、たしかに」
「ほら、急いだ急いだ」
 俺はiPhoneの液晶を操作して、チラシに求人を掲載していた食品メーカーの電話番号を調べて電話をかけた。すぐに電話がつながった。
 求人はまだ募集しているか。送付する書類は履歴書だけでいいのかなどを訊いた。大手らしく、人事部の担当者が丁寧に対応してくれた。
 俺が通話をしている隙に、彩佳が俺のマフィンを食べていた。こっちを見ていたずらっぽく笑っている。やめてくれ、可愛すぎるから。
 電話を切る。「なんだって?」と彩佳が訊いてくる。マフィンを頬張りながら。
「マフィン…」
「え?」
「マフィン、なんで食べた?」
 てへ、みたいな感じで、彩佳が舌を出した。その舌を引っ張ってやりたい。
「そこにマフィンがあったから」
「なんだそりゃ」
 お互いに笑い合う。
 次の瞬間、突然彩佳が胸をおさえた。
「どうした、彩佳? 大丈夫か⁉」
「うん。大丈夫。平気だから。最近ね、たまにあるんだ。なんか心臓がどっくんって急に跳ねるの」
「心臓って…。そういや、こないだの検査はどうだったんだ?」
「検診ね。異常なかったよ」
「本当か?」
「ホントだよ。今度お母さんに聞いてもいいよ。ホントになんともなかったんだから。健康そのものだって」
 嘘をついているとも思えない。でも、心臓という言葉に、思わず冷や汗が流れた。彩佳は二年前に、特発性拡張型心筋症(とくはつせいかくちょうがたしんきんしょう)を治療するために、心臓移植を行った。あれから俺も、少しでも彩佳のことを理解しようと、特発性拡張型心筋症について調べたことがある。
 特発性というのは、原因が不明ということ。心臓移植をしなければ、彩佳は今ここにはいないだろう。
「ねえ、大翔さん…」
「どうした…?」
 急に、彩佳の声のトーンが下がった。ひどく、真剣な顔つきだ。さっきまで笑っていたのに。
「私、ここにいてもいいよね?」
「え?」
 沈黙。いや、意味がわからない。ここにいてもいいって、現に彩佳は俺の目の前にいる。
「私、ずっと、大翔さんの隣にいても、いいんだよね?」
 頭の中で、何かが弾けた。閃光。フラッシュバックする。あれは、そう。すべてが真っ白になった。七瀬を喪った時だ。
「なに言ってんだ、当たり前だろ!」
 思わず大きな声を出してしまっていた。周りの人がこちらを見る。でも、そんなのどうでもいい。どうしたんだ、彩佳。なんでそんなことを言うんだ?
 彩佳の手を握る。俺の想いが伝わるように。ぎゅっと。
「いいんだよ。むしろ、いてほしいんだよ」
「うん…。うん。ありがとう…」
「どうしたんだ、突然?」
「なんでもない。なんでもないの」
「なんでもなくないだろ」
「いや、ホントに大丈夫。私はね、ここにいるよ、大翔さん…」
「知ってるよ。そんなの」
 もっと、強く。彩佳の手を握る。離さない。この手を。ずっと繋いだままだ。
 彩佳まで。俺は、彩佳までも喪いたくない。もう大切な人を喪いたくはない。
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