TIME After TIMEを聴きながら 四

文字数 5,361文字

 ピッピッと、聴き慣れた機械音がする。返品した雑誌をお店のパソコンに登録する音だ。
 時間は二十二時十分。すでに退勤の時間を過ぎている。
 川端さんと二人で、急いでお弁当やおにぎりなどの品出しを終えたものの、時間内に作業を終えることは出来なかった。
 深夜勤務の人たちが出勤してきた後、俺はゆっくり雑誌の返品登録を行っていた。
「高橋さん」
 声が掛けられた。川端さんが立っていた。すでに着替えていて、帰り支度は済んでいるようだ。すでに春の陽気だが、朝晩は寒い。川端さんはベージュのコーディガンを羽織っていた。
「今日は本当にありがとうございました。またよろしくお願いしますっ」
 俺が笑いながら頷くと、川端さんは「お先です」と言って、手を振りながら事務室を後にした。ミステリアスだと感じていたくろがねマスクの下は、案外純朴なのかもしれない。まさかチャラ男が店の外で張り込んでいないよな、とか思いつつ監視カメラを見たが、店の外には車一台も停まっていなかった。人もいない。
 その理由は雨だった。二十一時半くらいから降り出した雨は、今は強く地面を叩いている。音を耳にした訳ではないが、その勢いは店外の監視カメラを通しても、強いものだとわかる。
 車一台も停まっていない駐車場。監視カメラから見えるその映像に、違和感を覚えた。これまで川端さんが帰宅する時、駐車場のどこかに黒のAudi A2が停車していた。川端さんはその助手席に乗り込んで帰宅する。
 事務室で福ちゃんと話し込んでいる時に、ふと監視カメラに映るお馴染みの光景。しかし今日は黒のAudi A2は停車していなかった。川端さんは店内で買い物をしている。
 そんなことを考えていると、時間がどんどんと過ぎていく。俺は意識を作業に集中させた。返品登録を終えて、雑誌を段ボールに詰めていく。いっぱいになったら配送業者に持っていってもらう仕組みだ。
 一連の作業を終えると、大きく息をついた。自分の勤怠登録を行い、退勤処理を完了する。休憩室に足を運び、ロッカーからマウンテンパーカーを取り出して着替えた。なんとなくiPhoneを開くが、連絡はひとつもない。
 今度はため息が出た。七瀬がいた頃は、七瀬から連絡が入っていることがたくさんあった。よく写真を送ってきて、それについて意見を返したりしたものだ。放置しておくと怒られた。それを不快に思ったことは一度もない。めんどくさいな、と思いつつ、七瀬の笑顔を思い出していつも連絡を返していた。今は連絡を返す必要もない。そしてそんな相手もいなかった。
 事務室を出て、すぐに店の出入口へ向かった。自動ドアが開いた瞬間、雨の音が耳に入る。思っていた以上に降りが強い。勢いのあるシャワーのように、雨が地面を殴りつけている。
 従業員用駐車場までは距離がある。けれどマウンテンパーカーのフードを被って、ダッシュで行けばなんとかなるだろう。
 意を決してマウンテンパーカーのフードを被ると、ゴミ箱の近くにいた川端さんの存在に気づいた。てっきりもう帰ったと思ったが、カバンの中を何やら漁っている。困惑したその表情に、踏み出しかけた足が止まった。
「どうしたの?」
 声を掛けると、川端さんが勢いよく顔を上げた。
「あ、実は持ってきてたはずの折りたたみ傘をがなくて。忘れちゃってたみたいです…」
「いつもお迎えがきてなかった?」
「はい。いつもはお父さんが来るんですけど、今日は来れないんです。お母さんも今日は帰りが遅いし、おばあちゃんは免許返納してしまって車運転できないんですよ」
 訊いたつもりはないが、川端さんの家族構成がだいたいわかってしまった。しかしいつも迎えに来ていたのがお父さんというのが意外だった。てっきり彼氏だとばかり思っていたからだ。
「お金は? 傘を買うとか」
 コンビニには急な雨に備えて、傘を常時販売している。足元を見た値段だが、こうした急な雨の際にはよく売れる。
「実はバイトの時は最低限のお金しか持ってきてないんですよ。さっき牛乳と卵買ったんですけど、それ返品しても傘買えないんです」
 さすがコンビニ店員。傘の値段をよく知っている。て感心している場合か。
「じゃあ、送っていってあげようか?」
 自然と言ってしまった。口に出してから思った。雨で足がない中、車で送っていってあげるなんて、まるで終電を逃した女の子に、家に泊まりに来ないかと言っているようなものだ。下心丸出し。そう思われても仕方ない。
「…いいんですか?」
 川端さんが首を傾げた。若干の不安も入り混じっているのかもしれない。
「一応、家にいるおばあちゃんや、お母さんに、職場の人に送ってもらうって、連絡してみればいいよ。とりあえず俺はダッシュで車持ってくるからさ」
「わかりました」
 家族に連絡することで少しは安心できるだろうし、所在と誰といるかを伝えれば、こちらも下手なことは出来ない。まあそんなことをするつもりもないが。ダメなら別にいいし、無理に送る必要もない。家におばあちゃんがいるなら、タクシーを呼んで家に着いたら払ってもらえればいいだけだ。
 俺はフードを被ると従業員用駐車場まで走った。駐車場に着いてすぐに、愛車に乗り込んだ。雨で視界が悪い。注意しながら進んだ。
 店の前まで来ると、川端さんがいた。視線を送ると、一度頭を下げてから、助手席に乗り込んできた。
「すみません」
「いや、いいよ。うちの人、なんだって?」
「はい。おばあちゃんがお言葉に甘えて、送っていただきなさいって」
「そう。ならよかった」
 不意に川端さんがマスクを顎の下にずらした。完全なる不意打ち。初めて見る川端さんの素顔で、整った綺麗な顔立ちをしていた。化粧をしていないところに、また惹きつけられた。
 川端さんに見とれていると、目が合ってしまった。ドキッと、心臓が跳ねた。なぜか、視線を外せない。二人。見つめ合っている。おかしな時間だ。それでも、やはり視線を外せない。川端さんも、目を逸らさなかった。
「川端さん、さ」俺から口を開く
「は、はい」川端さんが応える。
「なんでいつもマスクしているの?」
 別にマスクをしてはいけないなんて法律はないし、ルールもない。個人の自由だ。それでも訊いてしまっていた。
「あ…。か、感染が怖いので」
 なぜか川端さんが遠慮がちに答えた。観戦と脳内変換されたが、すぐに感染だとわかった。わざわざ難しい漢字を使う必要もないだろうが、早い話は予防のためだ。訊いてしまえばなんてことはない理由だ。
「そうなんだ。予防は大事だよね。俺はマスクすると息がこもるのが苦手で、風邪とかの時以外付けてないんだ」
「やっぱりいろんな人が来るじゃないですか。だから怖いですよね」
 たしかに多種多様な人が来店するのが、コンビニの特徴である。インフルエンザの人も、ダルいから手近なコンビニで買い物を済ませようと考えるし、それが感染拡大につながるのだろう。
 改めて見ると、川端さんは本当に整った顔立ちだった。綺麗と可愛いの両方を兼ね備えていると言っていいだろう。白い肌も暗い車内で光っているように見える。
「川端さん。自宅はどの辺?」
「えーと、このまままっすぐ行って…」
 川端さんが指を差して道順を教えてくれた。柳の木がある交番の近くだ。店からは思ったよりも距離がある。自転車ならもう少し時間を短縮できるが、川端さんはいつも帰りは迎えが来ていた。
 二十二歳で毎回お迎えが来るというのも違和感があるが、まだ社会人になっていない年齢でもある。平和な町だと言っても、物騒な世の中になってきている。大事な娘が心配になるのも無理はない。
 車を走らせていると、川端さんがこちらをチラチラと見てきた。俺のことを気にしているというよりは、何か言いたそうな素振りを見せている。ちょうどいいタイミングで前方の信号が赤になった。
「どうしたの。何か気になることある?」
「すみません。もしよかったらなんですけど、レンタルショップに寄ってもらってもいいですか?」
「レンタルショップ? ああ、交番の近くの」
「はい。CDを借りていて」
「わかった。お安い御用ですよ」
「すみません。ありがとうございます」
「返却期限は今日?」
「そうなんです」
「じゃあ今から行かないとまずいな」
 信号が青に変わる。ゆっくりとアクセルを踏み込む。誰かを乗せていると、やっぱり運転は慎重になる。
 二年前からずっと空いていた助手席。その空席に違和感を覚え続けてきたけど、何故だろうか。川端さんはそこにいたのが当たり前みたいに、すっぽりと助手席の空間を埋めてしまった。
「高橋さん、ジャズが好きなんですか?」
「え?」
 川端さんが不意に話しかけてきた。車内に流れるジャズが耳に入った時、その質問の意図を理解した。俺にとって車内にジャズが流れていることは当たり前のことだった。しかし知らない人からすれば、ジャズが好きなのか、それともまたは洋楽が好きなのかと思うだろう。
「ああ。特定のアーティストが好きとかはなくて、単純にジャズの曲調が好きなんだよね」
 俺が答えると、川端さんがカバンの中を漁りはじめた。取り出したのは、レンタルショップのレンタルバッグ。チラッと横目で見ると、川端さんがレンタルバッグから取り出したのは、ジャズのCDだった。
「私も聴くんです。ジャズ。いいですよね」
「へえ。なんか意外だな。流行りの曲とか聴いているのかと思った」
「いえ、フツーに流行りの曲も聴きますよ。でもジャズも好きなんです」
「いいよね。ジャズ。なんか落ち着くんだよなあ」
「私もそう思います。ずっと聴いていられるんですよね」
 レンタルショップの駐車場に入る。まだ雨は降り続けている。出入口に一番近い駐車スペースが空いていたので、そこに停めた。ここなら濡れないだろう。
「返却だけなので、すぐに戻りますっ」
「わかった。ここで待ってる」
 川端さんはレンタルショップに急いで駆け込んだ。それほど間を置かずに、川端さんは戻ってきた。
「ありがとうございます」
「じゃあ家まで送ります」
「はい。お願いします」
 レンタルショップの駐車場を出る。この時間、車はあまり走行していない。車社会なので、日中はかなりの量の車が行き交う。それでも二十二時を回れば、道は空いていた。このままずっと走っていたい。ふとそう思った。
「高橋さんは、普段音楽は何で聴いてますか?」
「俺はiPhoneかな。月額制のやつ加入しているよ。あとは借りてきたCDをパソコンに保存かな」
「じゃあ私と同じだ。私もCD借りてきて、全部パソコンに保存して、そこからiPadに移すんです」
「なるほどね。iPhoneて聴いていると、すぐ充電なくなるしな」
「はい。写真の容量とかもあるから、分けたいんですよ」
 自然と会話していた。なんの違和感もなく、自然に。それに気づいて、なぜか笑いそうになった。とてもじゃないが、くろがねマスクと呼んでいたことは言えそうにない。
「好きなラーメン店があってね。そのお店、内装がオシャレなんだ。店内にジャズが流れているんだ。ラーメンももちろん美味い」
「へえ、ラーメン。何ラーメンがオススメなんですか?」
「鶏白湯ラーメンだね」
「なんか、ヘルシーな感じしますね。ジャズが流れてるっていうのも素敵だな」
「交番に着いたけど、あの道左だよね?」
「そうです」
 少し直進してから、左に曲がる。住宅地だった。それも、どれも大きな一戸建てだ。ほとんどの家が、塀や生け垣で囲まれている。お金持ちが建てたのだろうというのはよくわかる。塀や生け垣があるというのは、それだけ坪数が広いということだ。
「ここです」
 川端さんが言ったところで、車を停めた。
「これ?」助手席から見える家を見上げる。
「はい。そうです」
 白い大きな家だった。庭があることもわかるし、他の家のように塀もある。塀は無骨なブロック塀ではなく、塀の上部が波型になっている、白のおしゃれな塀だった。さらに車を収容するガレージもあった。
 ガレージも安くて五十万はするし、ガレージだけで固定資産税もかかるはずだ。何よりこれだけのものを建てられる土地があるのが一番スゴいかもしれない。
「高橋さん。今日はいろいろありがとうございました」
 川端さんがこっちを見つめてくる。少し首を傾げて、ニコッと笑う。その仕草を可愛いと思った。
「どういたしまして。それじゃ、おやすみなさい」
「はい。今日はたくさんお話しできて、楽しかったですっ」
 車を降りた川端さんが、振り返って手を振ってきた。俺も笑って手を振った。川端さんが家に入るのを見届けてから、ミライースを発進させた。
 いつものように、一人になる。聴き慣れたジャズが耳に入ってくる。心を落ち着かせる曲調。それでもなにか落ち着かない感じがした。
 夜の闇の中を、愛車で駆け抜ける。一人になって一層、宵闇の冷たさが身に沁みた。誰かが傍にいること。その温かさを実感した時間だった。
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