砂時計 五

文字数 1,750文字

 カルボナーラうどん。
 頭の中をぐるぐる巡るワード。グルメ冊子で見た写真が、映し出される。これじゃ私、食いしん坊みたいだ。
 くすりと笑ってみる。マスクの下だから気づかれないけど、なぜか周りを見てしまった。
 下校中の高校生とすれ違う。いつもは羨ましいと思うその集団。だけど今日は羨ましくない。いや、なんとも思わない。それは初めてのことだ。
 足取りが軽やかだ。我ながらバイトに行くとは思えない足取りだと思う。
 昼間に美容院に行ったから、髪もサラサラで気分もいい。髪がサラサラだと、それだけでテンションも上がる。けど今日の気分の良さはそれだけじゃない。
 お店に入る。レジカウンターには高橋さんがいる。視線を送ってみたけれど、残念ながら接客中だ。諦めて事務室に入る。
 ブラウスの上からユニフォームを着る。夏服の出番が来ている。真夏日とはいかないけど、もうだいぶ暑い。
 髪をポニーテールにまとめる。手触りがいい。やっぱり美容院の後は最高だった。
 事務室からレジカウンターへ出る。洗面台で手を洗う。パートさんが声をかけてきてくれたので、挨拶を返した。パートさんと打ち解けられたのも、高橋さんのおかげだったりする。
 高橋さんは20代の女性パートさんと談笑している。ああ、ダメだぞ、彩佳。ダーク彩佳は抑えておくんだ。ただ世間話してるだけ。だから気にしない、気にしない。
 気にしないようにしても、気になってしまう。何を話してるんだろう、とか。どうしてそんなに会話が続くんだろう、とか。お互いにどう思ってるのかな、とか。
 時間は夕方の五時を回った。時間なんだから、早く帰ってよとか思う。ダーク彩佳はすぐ表に出てきてしまう。ずっと卑屈だったから、ダーク彩佳の力は私の中では強い。
「川端さん、おはよう」
「おはようございます…」
 ダーク彩佳が現れた。十分も超過してパートさんと話していたせいで、ダーク彩佳は完全に表に出てきた。ブーたれてみる。それがダーク彩佳の抵抗だ。
 しばらく無言で過ごしていると、高橋さんがこっちを気にするように、チラチラと見てきた。気にしてくれているのだろうか。
「行ってみたいお店、決まった?」
「カルボナーラうどん」
「えっ?」
 しまった。頭の中を巡っていたカルボナーラうどんが、すぐに口をついて出てきてしまった。
 そう。ライト彩佳はすごく浮かれてる。ダーク彩佳なんて手も足出ないほどに。しばらく無言で高橋さんを困らせてみようかなとか思ったけど、今日ライト彩佳が強すぎる。
「なに、それ…?」
 私の態度と言葉が一致しないので、高橋さんは少し戸惑っている。なんか、可愛い。また意外な一面を発見してしまう。
「カルボナーラうどん」力強く言ってみる。え?と高橋さんが困惑する。
「それが食べたいの?」
「はいっ」
 ようやく返ってきた真っ当な返事に、高橋さんは安堵したような顔を浮かべた。
 私はお客さんが来ないのを確認すると、そっと忍ばせておいたグルメ冊子を開いた。カルボナーラうどんのページを開く。
「これです」
 私が指を差す。高橋さんの反応が気になって、チラッと顔を見た。
「お、美味しそう。俺、麺類好きなんだよね」
「ホントですか。じゃあここでいいですか?」
「いいよ」
「やった。じゃあ後は時間ですね」
「午後から行こうか」
 え、と思った。iPhoneを選ぶにしても、少し早すぎる気がした。
「早くないですか?」
「うん。でも、川端さん。普段あまり出かけないじゃん? だから川端さんの行きたいお店にも行ってみようかなって。買い物とかさ。荷物ができても車なら問題ないし」
 どくん、と心臓が鳴る。
「もちろん、川端さんが良ければだけど」
「実は、部屋の家具とか揃えてみたかったりするんです。殺風景なので」
「お安い御用ですよ。大きすぎるのは無理だけど」
 部屋は殺風景だけど、今のままでいいとも思っている。別に無理に飾り立てる必要もないって思っているし。だけどそれでも言ってみた。同じ時間を共有したいって、本能が囁いている。
 どくん、どくん。
 心音がやけに大きく聴こえる。まるで高橋さんの笑顔に反応するみたいに、どくん、どくんと、鼓動は高鳴っていく。
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