砂時計 一

文字数 5,354文字

 スピカが見ている。
 まん丸い瞳で、前へ足を踏み出すと、顔を動かして視線で追いかけてくる。そのくせ、青いソファーから寝転がったまま、体を動かそうとはしない。
 スピカが寝転がっているのは、リビングのソファーだ。リビングとダイニングは繋がっていて、私はダイニング側からスピカを見ていた。
 試しに隣に座ってみる。スピカはじっと私を見つめている。私もスピカに視線を向けている。しばらくそうして、じっと見つめ合う。
 スピカが家にやって来たのは二年前だ。レッドタビーとホワイトが混じった毛色と、短い前脚が特徴のマンチカン。
 みんなやっぱりその短い前脚をもてはやすけれど、私はスピカのまん丸の瞳が一番好きだった。ごろんとお腹を見せたスピカが、じゃれつくように短い前脚を差し出してくる。
 リビングの扉が開いた。ガチャッという音に、スピカが敏感に反応する。まん丸の瞳で、リビングの扉をじっと見つめる。
「あら、彩佳。いつ帰ってきたの?」
「ただいま」
「はい。おかえり」
 リビングに入ってきたのはお母さんだった。手には回覧板を持っている。きっとまた隣の吉池さんの家にお茶しに行って、ついでに回覧板を受け取ってきたのだろう。吉池さんの奥さんとお母さんは、学生時代からの付き合いらしい。
「どうだった? 楽しかった?」
 回覧板を木目のダイニングテーブルに置いたお母さんは、娘のプライベートだというのに、興味津々といった顔で聞いてくる。
 職場の人と外食に行く。そこまではお母さんもいつものように返事をするだけだった。けれどその相手が男の人だと分かってから、様子が変わった。
「鶏白湯ラーメンを食べにいったの。それが真っ白いスープで、ちょっとクリーミーな感じがして、スゴい美味しかった」
「へぇ~。真っ白いスープねえ。それだけでも少し興味あるわね。…ってそんなこと聞いてるんじゃないの」
 ひとりでノリツッコミするお母さんを見て、思わず笑ってしまった。お母さんは昔から面白い人だった。お母さんのこの性格には、昔から救われてきたと思う。
「どうだったのよ。いい感じだった?」
 お母さんもソファーに腰掛けた。間に挟まれたスピカが少し戸惑っている。
「何をもっていい感じというのかがわからない」
「雰囲気だって。雰囲気。いい雰囲気だった?」
 上手くはぐらかそうとしてみたけれど、今日のお母さんはしつこい。なかなか引き下がろうとしないのだ。スピカに助けを求めてみようかと思ったが、スピカもじっと私を見ている。スピカも気になってたのかな。
「私は楽しかったよ。ラーメン食べ終わった後、夜景を見に連れていってくれたんだ」
「あらそう、素敵じゃない」
 お母さんの目がキラキラと輝いていた。年齢を重ねても、やはり女子なのか。
 実はさっきから麻衣からもLINEが頻繁にきている。高橋さんとラーメンを食べに行くことは、麻衣とお母さんにしか話していないが、やはり二人ともこの手の話題にものすごい食いついてくる。
 お父さんには言えなかった。出張中だし、もし知ったら倒れてしまうかもしれない。
「相手の人はどんな人なの?」
「どんなって?」
「彩佳より年上なんでしょう。コンビニでアルバイトしているっていうのも、なんか変じゃない?」
「そうかな。でも、以前はスーパーで働いていて、部門主任までやってたみたいだよ。体調崩して辞めて、今は就活中なんだって。でもなかなかいいところ見つからないみたい」
「あらまあ、苦労してるのね」
「うん。でも高橋さん、もっと自分に自信持ってと思うけどな。あんなに食べ物のこと詳しいし、そっちの仕事すればいいのに」
「なにそれ、彼のことよくわかってますみたいな発言じゃない」
 そこからもお母さんの質問攻撃は続いた。正直根掘り葉掘り聞かれるのはあまり好きじゃない。でもお母さんだからしょうがないかと思った。だいたい高橋さんの容姿についての質問が多かった。
 高橋さんは背は結構高いけれど、顔は普通だと思う。でも今日ラーメンを食べに行った時に見た高橋さんはかっこよかった。
 黒いハットと白とグレーのシャツに、薄いブラウンのパンツ。黒いドレスシューズを履いていた。服装が違うだけで、普段のイメージとまるで違った。ちゃんと身なりに気をつけていて、素敵な人だなと思った。タバコを吸わないというのも好感がもてた。
「まあまあ。今日はわりといい雰囲気だったみたいね。次も上手くいくといいわね」
 色々と話を聞いて満足したのか、お母さんはリビングのテレビを点けた。お母さんの日課は、こうして夜に有料チャンネルのドラマや映画を観ることだった。
 一緒に観たこともあるけれど、だいたいが韓流ドラマだったりするので、あまり興味がわかない。そもそもお母さんとは観たい映画のジャンルは違う。私はハリーポッターやパイレーツオブカリビアンが好きだが、お母さんは興味がないらしい。
 自分の部屋へ行こうと思い、ソファーから腰をあげる。リビングを出て階段へ向かった。私の部屋は二階にある。一番奥の部屋で、陽当たりも一番良い部屋だ。
 部屋へ向かうと、スピカがトットッと、小走りで後をついてきた。何故かは知らないが、スピカは私の部屋が好きだ。私が二階に行くと、だいたいついてくる。にゃ~んと鳴いている。まってーと言っているように聴こえた。
 いつの間にか私を追い越したスピカは、私の前を歩いて廊下を曲がり、一番奥の部屋のドアの前で座った。私が部屋のドアを開けると、私が入るのを待ってから、室内に入ってきた。
 ソファーに腰をおろす。赤い色のソファーで、これはお兄ちゃんが買ってくれたものだった。ネット通販で気に入ったものだった。
 お兄ちゃんのLINEにネット画面のURLを貼り付けて送ったら、一週間後に家に届いた。何も言わずに買ってくれたお兄ちゃんには感謝だ。スピカもこのソファーが気に入っていて、私の部屋にいるときはだいたいこのソファーにいる
 LINEの通知音が鳴る。高橋さんだろうかと思って、iPhoneを手に取る。通知画面を見ると、高橋さんではなく麻衣からだった。
『こちら麻衣少佐。彩佳軍曹、応答せよ。至急状況報告を求める』と書かれていた後に、スタンプが連打されてきた。笑ってしまった。
 少々面倒だと思っても、麻衣には結果を報告しなくちゃと思った。今の麻衣がいなかったら、今の私はいない。それほど大切な私の親友だ。
 麻衣以外に親しい友人はいない。自分のことをわかってくれる人がひとりいる。それで充分だと思っている。
 関係の浅い友人が何人いても、それは薄っぺらいだけだ。高校も通信制だったので、それほど広い付き合いがある訳じゃなかった。麻衣がいるから、寂しいと思ったこともない。
 自分の思ったことを、そのまま率直に文字にして送ってみた。長文を送ってしまったので、返信に時間がかかっている。しばらくしてメッセージが返ってきた。
『次のデートはいつ?』ただそれだけだった。
「デートって…」
 文字としてそれを見ると、何故か生々しい感じがした。ただラーメンを食べに行ったという感覚でしかなかったのだけれど、傍からみればデートといえるのだろうか。
 友達と駅前を歩いて、買い物して、カフェで恋の話に花を咲かせて、恋をして、デートをして、思春期特有のドキドキを体感する。そうした学生時代に憧れを持ったこともあった。でも、そういう世界とは無縁だった。
 デートなんてだいそれたものじゃない。私の中ではそういう気持ちが大きかった。一緒に食事をして、夜景を見に行った。夜景を見に行ったというのは、少しロマンチックな一面があるかもしれないけれど、多分デートなんかじゃないはずだ。そんな感じのメッセージを麻衣に送った。
 展望公園のベンチで重なり合った手の感触。あの時、心臓がスゴい高鳴ってドキドキした。でも、もっと触れていたいと、そう思っていた自分もいた。あれは恋だったのかな。それはお母さんには話せなかった。
 麻衣から返信がきた。『弱気だなあ。それ充分デートでしょ。そんなんじゃ先が思いやられるな』歯を見せて笑う、謎のおじさんのスタンプと共に送られてきた。麻衣が使うスタンプのセンスだけは理解できない。
 次が果たしてあるのだろうか。もしかしたらこれっきりかもしれない。高橋さんはどう思っているのだろう。一緒に買ったグルメ冊子。それを使う機会がたった一度だけなんて、正直悲しすぎる。
「もう一回、一緒に行けるかな」
 そんな言葉が口をついて出る。なんとなく、隣に座っているスピカの頭を撫でる。にゃあぁと、可愛い鳴き声をあげたスピカは、私の手に頬をすり寄せてきた。なんだか励まされているみたいだ。
 スピカがゴロゴロと喉を鳴らしている。スピカは素直な子だ。私もスピカみたいな性格だったら、きっとこんなねじくれた思考にならないのだろう。
 ずっとひとりでいた時間が長かったせいか、何事も悲観する癖がついている。それは悪い癖だと、お母さんや麻衣に言われているけれど、簡単には治らないようだ。
 一面真っ白の部屋。思い出すだけで、わずかに苦しくなる。ずっとひとり。飛び交う鳥すらも羨み、嫉んだ、あの暗い日々。
 私のねじ曲がった精神は、あの日々が長く続いたせいでもある。それでも、家族や麻衣が支えてくれたから、今の私がある。
 世界は素晴らしいものなんだ。誰かが言った。そんなもの嘘だ。ずっとそう思っていた。それが本当なら、何故私は自由を奪われて、ひとり苦痛に耐えていなければならないのか。それはこれまでもずっと抱えていた思いでもあった。
 でもそれは違った。世界は綺麗で、美しいものだった。それを今日実感した。高橋さんが連れていってくれた展望公園。あそこから眺めた夜景は、想像を大きく超えたものだった。
 夜景って言っても、それほど綺麗なものは期待していなかった。でも、目の前に広がったキラキラと輝く光に、言葉を失って見とれてしまった。それだけじゃない。
 夜空を彩った満天の星。手を伸ばせば、すぐに宇宙にいけるんじゃないかって思うほど近かった。世界はこんなにも素晴らしいんだって、教えてくれるような気がした。
 そして、ベンチで触れたあのぬくもり。生きている尊さをも、教えてくれた。
 教えてくれたのは、誰だったのか。吸い込まれるように深い夜空なのか。語りかけてくるように瞬く星々だったのか。そのどれも違う。
 教えてくれたのは、紛れもなく高橋さんだった。
 ベッドに寝転がって、天井を見つめる。真っ白な天井。最初は一面真っ白な、あの部屋を思い出して嫌だったけれど、今はもう気にならない。今は、まるで真っ白いキャンパスのようにさえ見える。何を描こうか。そんなことを考えながらも、特に描くものなど決まらないまま、日々が過ぎていく。勿論、本当に描くことなんてできない訳だけど。
 不意に、今日目にした夜景が、白い天井に描かれた。ハートマークの夜景。偶然私が見つけた。子供のようにはしゃいでしまったが、高橋さんはどう思っていたのだろうか。
 高橋さんのことが徐々に気になりはじめてきた。仕事中に会話を交わしたり、今日のラーメン店での会話だったりで、少し知ることは出来ている。それでも、もっともっと知ってみたいという思いも同時に湧いてきていた。
『今日はありがとうございました。とっても楽しかったです』帰宅して着替えるなり、そんな内容のメッセージを高橋さんに送っていた。返事はまだない。そんなメッセージを送ってしまっている時点で、すでに私はもう一度高橋さんとご飯を食べに行きたいと思ってしまっているのだろう。
 男性を意識したこと。それはこれまでに数えるほどしかない。付き合ったことがあるのも一度だけだ。だからこうして食事に行ったりする機会もないほとんどない。あまりにも引き出しがなさ過ぎて、結局お母さんや麻衣に話を聞いてもらうしかない。
 明日はアルバイトだが、高橋さんとは会わない。店長が商品説明会に出席するために、高橋さんは昼のシフトに入っている。私が出勤する前にはもうあがってしまう。
 今日、私と出掛けたことは高橋さんにとってはどんな出来事だったのか。気になってしまう。聞いてみたいという欲求はあるけれど、それを聞くのは怖いという思いも同時にある。
 こうして色々と考えているうちに、今日も天井のキャンパスに何を描くかは決められないままになった。描いてみたいと思うのと、描くものが決まっているのは違う。描くものが決まっていないから、いつまで経っても始まらないんだ。
 描きたいものは、ある。それは未来だ。これまで歩んで来た先の見えない世界から、やっと先の見える世界になったから。だから、今日見た夜景や星空のように、未来は何よりも輝いているものであってほしいし、そういう未来にしたいと思っている。
 赤いソファーの上で、スピカがあくびをしている。スピカ。スピカのように、キラキラと。それでいて自由に。そんな日々を目指している。
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