TIME After TIMEを聴きながら 七

文字数 2,325文字

 シューズボックスからドレスシューズを取り出す。インターネットショッピングで購入した、一番お気に入りの靴だった。
 ドレスシューズを履いたところで、肝心なものを忘れていたことを思い出す。慌ててドレスシューズを脱いだ。
「いけない。あれがないと」
 思わず声が出ていた。急いで部屋の中へ戻る。部屋のテーブルの上に置いてある、グルメ冊子を手に取った。
 これがある意味今日の主役。これがないと始まらない。
 今日は約束の日。
 川端さんと鶏白湯ラーメンを食べに行く日だ。二人の休日が重なった金曜日。起きてからいつもの休日と同じように、洗濯をして部屋の掃除をしていた。
 どこかそわそわするような感覚は、きっと頭の中に川端さんのことがあったからだ。
 玄関へ行って、改めてドレスシューズを履く。今度こそ部屋のドアを開けて外へ出た。外はまだ光と闇の間。空を紅く染める夕陽の背後で、夜の気配が近づいていた。
 車に乗り込むと、いつものようにジャズが出迎えてくれた。今日はその曲調もなんだかご機嫌に聴こえた。愛車のミライースも、急かすような駆動音を発している。
 iPhoneをポケットから取り出して、液晶を操作する。LINEを開いてメッセージを入力する。
『これから向かいます』と、川端さんにメッセージを送信した。
 するとすぐに既読になった。少し待つと、『よろしくお願いします』というメッセージが送られてきた。一緒に送られてきたスタンプは、今日は猫のスタンプだ。
 車を走らせる。夕暮れの帰宅ラッシュ。さすがに幹線道路は混んでいた。遅れるとまずい。幹線道路を抜けて脇道に入ったが、同じようなことを考えているドライバーがいるものだ。脇道にも車が走っているが、幹線道路の混雑に比べればましなものだった。
 運転席と助手席の窓を開ける。吹き込んでくるの風が頬を撫でる。それが心地よかった。心地よいと感じるのは、多分風のせいだけではないはずだ。
 歩道を行く人たちも家路につく。そんな人たちを横目に、目的地へと向けて車を走らせる。人の生活に逆らっているような気がしてきた。
 日常という名の普段の通路を抜けて、非日常という舞台に上がる。自分にとっての非日常。それはわずかな高揚感をもたらす。
 交差点を抜けて交番の脇道に入る。少し進むとそこは大きな庭付き戸建てが並ぶ住宅街。この空間も、俺にとっては充分な非日常であった。
 波打った白い塀。大きな白い家。その家の前にある電柱近くで、人影が見えた。
 車を停める。助手席の窓から川端さんの姿が見えた。いつもと違う雰囲気なのは、化粧をしているからだろう。ずっと大人っぽくみえた。紅いリップが目を引く。ダークオレンジのロングカーデに、黒のキャミサロペット、白のブラウス。足元は赤いパンプスだった。そのコーディネートもまた、大人っぽい印象だった。そして何より、今日の川端さんは眼鏡をしていなかった。
 ほとんど呆然としたように見つめていると、川端さんが助手席のドアを開けた。その音で我に返る。飛んでいた意識が元に戻る。慌てたような顔に上書きした笑顔は、どこかぎこちなく見えてしまったかもしれない。
「高橋さん。ありがとうございます。それでは、よろしくお願いします」
 川端さんが助手席で深々と頭を下げた。
「あ、こちらこそよろしく」つられて俺も頭を下げてしまう。少しだけ車内に沈黙が流れる。車を発進させようとしたところ、川端さんが声をあげたのですぐにブレーキを踏む。何やらアウターのロングカーデに近い色のハンドバッグの中を漁っている。
「これ」川端さんがハンドバッグから取り出したのは、本日の主役であるグルメ冊子だ。
 そう、こいつがいないと始まらない。主演俳優のような扱いだ
「高橋さん、持ってきましたか?」
 柔らかい微笑み。口元の紅いリップがやけに目を引く。その唇に惹きつけられている自分に気が付いて、慌てて視線を外す。
 俺はダッシュボードに置いてあったグルメ冊子を手に取り、川端さんに笑みを返した。
「今日の主役だからね」
 川端さんが声を出して笑った。心が安らぐようなこの雰囲気。随分と久しぶりだ。
 車を発進させる。道幅は広いが、ここは住宅街。速度は抑え気味で進んだ。時間には余裕があるし、焦る必要はなかった。
「高橋さん。この車だいたいどれくらいのお値段で買ったんですか?」
「ああ。これはウチの母親から譲ってもらったものなんだ。でも年式が古いからね。あちこち故障して大変だよ」
「そうなんですか。じゃあそろそろ買い替え時なんですね」
「そうだねー。いい車がないか探してはいるんだけど、なかなかいいものに巡り会えないね」
 他愛のないやりとりが続く。川端さんは車に興味があるのか、維持費やローンのことについて質問してきた。俺は答えられる範囲で答えた。
 会話を交わす。それだけで驚くほど時間が過ぎる。ラーメン店までの距離が近くに感じるくらいだ。
 川端さんを送り届けたあの日。あの雨の日と同じ安心感を抱いた。隣に誰かがいる安息。しかしまぶたの裏には、まだ七瀬の残像が張り付いている。そのたびに罪悪感のようなものが、胸を突き刺してくる。川端さんの笑顔が心の傷に沁みるのは、この道も七瀬と通ったことがあるからだ。
 橋を渡る時に見える、大きな川。七瀬はいつもその川をじっと見ていた。そして川端さんも同じだった。
 会話を交わすたびに、川端さんが笑顔になる。安息と痛み。相反するふたつを俺に与える笑顔は、そんなことお構いなしと言うように、やたら無邪気。そして信号待ちの時に目の端に映る横顔は、やけに可愛く見えた。
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