砂時計 八

文字数 2,352文字

 身体がフワフワしている。今日はどんな一日だったっけ?
 オレンジ色の街灯が、高橋さんの横顔を照らしている。いつも歩いている時は、高橋さんの後ろ姿を見ていたはずなのに、今日はこうして隣を歩いている。不思議。やっぱりフワフワする。
「美味しかったね。カルボナーラうどん」
 高橋さんが笑ってこっちを見つめてくる。やめて。そんな素敵な笑顔で見つめないで。
「高橋さん。お腹いっぱいになりました?」
「う~ん。実はちょっと少なかったなあと感じた」
「ですよね。思ったより。少なめ」
「女性向けって感じだったかな。まあ美味しかったからいいよ」
 今日もまた高橋さんにご馳走になってしまった。レジ前でなんか口論みたいになってしまったけれど、後のお客さんに気を取られた隙に高橋さんが会計を済ませてしまった。
「高橋さん、今日もごちそうさまでした! お礼にジュース奢らせてください」
 芝居がかったように私は頭を下げた。それを見て高橋さんが笑う。二人でお店の駐車場にある自販機まで歩いた。
「高橋さん。何にします?」
「う~ん。アイスカフェオレがいいな」
 百二十円を入れて、アイスカフェオレのボタンを押す。
「はい。どうぞ」
「はい。いただきます」
 私も自分の分を買う。ミルクティーにした。ガタンと音を立ててミルクティーが出てくる。
 高橋さんは自販機の近くのベンチに腰をおろしていた。私も同じようにベンチに腰をおろす。ちょっと躊躇ったけれど、高橋さんのすぐ隣に座ってみた。フワフワする。
「川端さん、さ」
「は、はい」
 ち、近い。やめておけばよかった。近すぎて恥ずかしい。
「高校はどこの出身?」
 え、え、え。こ、答えづらい。通信制高校で高卒の資格は持っているけれど、それには経緯を説明しなきゃいけないし。私の病気のことも話さないといけない。心臓を移植したなんて、気持ち悪がられないだろうか。
「…なんか、訊いちゃいけないこと訊いたかな?」
「い、いえ。そ、その、なんていうか、ですね。まあ、答えづらいっていえば、答えづらいというか、ですね」
「あ、いや、答えたくないなら、いいよ」

 どっくん。

 え? なにこの鼓動。一度だけ、スゴく心音が大きく聴こえた。
 …そっか。そうだよね。知っておいてもらいたいよね。高橋さんには。
「いいえ。高橋さんには、知っておいてもらいたいんです」
 高橋さんは、アイスカフェオレを持ったまま固まっている。でも私の意思を汲み取ってくれたのか、ゆっくりと頷いてくれた。
 私は自分の身に起こった出来事をすべて話した。中学時代に発症した、特発性拡張型心筋症。心不全を起こして入退院を繰り返したこと。普通の高校に行けず、通信制を選択したこと。末期症状になり、余命二年を宣告されたこと。そこから心臓移植手術を受けて、リハビリを経て今に至ること。高橋さんは私から目を離さず、ずっとこっちを見つめて聞いてくれていた。
 話終わっても、高橋さんはしばらく口を開かなかった。アイスカフェオレを口にして、ふうっと一息ついた。そしてベンチから立ち上がる。
「…川端さんに会えてよかった。俺、今心の底からそう思ったよ」
「高橋さん…」
 なんだか、私は泣きそうになっていた。なんでだろ。でも、高橋さんがそう思ってくれたことが、スゴく嬉しくもあった。
 心臓を移植していなければ、高橋さんには出会えなかった。誰かの犠牲の上に成り立っている命。だから、こんな素敵な人に出会えたことに感謝したい。
 高橋さんが、急にうつむいて静かになった。なんか様子がおかしい?
 不意に高橋さんは夜空を見上げた。どこか影のある顔。どこか寂しそうな顔。この顔を私はまだ知らない。
「こんなこと話されても困るかもしれないけど、俺、好きだった人を交通事故で亡くしたんだ」
「え…?」

 どっくん。どくん。

「それからなんだ。仕事が上手くいかなくなって、体調も崩して、ボロボロになって仕事を辞めた。あれから世界がくすんでみえるようになった。いつも世界は暗いままだった」
 こっちを見て、高橋さんが笑う。私の知っている笑顔。私の一番好きな顔。もっと、もっと笑ってほしい。
「でも、川端さんに会って。一緒にご飯を食べて、今日こうしてまた一緒に出かけて、少しずつ、少しずつ。世界が明るく見えるようになったよ」
 ごみ箱に空き缶を捨てた高橋さんが、私に手を差し出してきた。私は思わず、手に持っていたミルクティーをベンチに置いて、高橋さんの手を取った。
 高橋さんに手を引かれて、ベンチから立ち上がる。私の手をじっと、高橋さんが見つめる。
「この感触も、ぬくもりも、全部現実なんだって。誰かが傍にいてくれることがこんなにもあたたかいものなんだって。川端さんのおかげで思い出せた」
 私も、同じ。私も気づいた。
「高橋さん。あの日、高橋さんが見せてくれた夜景と星空。今も忘れません。いつも絶望してた日々が長かった私にとって、世界はこんなにも素晴らしいものなんだって、教えてくれた。あれから、私の世界が変わったんです」
 あの時、エスカレーターで転びかけた時。高橋さんが抱きしめてくれたから。自分のことを高橋さんに話したから。高橋さんが自分のことを打ち明けてくれたから。
 だから…。
 ちょっとだけ、勇気を持てたのかも。
 高橋さんの顔。つま先で立って、背を伸ばす。オレンジ色の光が降り注ぐ。夜空には、あの日と同じ。満天の星がまたたく。
 星が見つめてる。私の秘密。
 初めてのこと。夢の世界に足を踏み入れたみたいな。そんな心持ち。だってほら、こんなにフワフワする。
 でも、これは現実。唇に触れた感触は、夢なんかじゃない。
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