TIME After TIMEを聴きながら 一

文字数 2,811文字

 部屋を出る前に、もう一度鏡の前でネクタイの位置を確認した。ネクタイの色をどうするか迷ったが、一応黒を選んだ。
 ハンガーからプライベートで着ているダッフルコートを取った。必要ないかもしれないと思ったが、急に寒くなるかもしれないので、持っていくことにする。
 シューズボックスから革靴を取り出す。履くと革靴らしい硬い感触がした。滅多に履かないからだろうか。やはりこの感触は慣れない。 シューズボックスの上の鍵を取る。さらに玄関に置いてあった花を手に取り、部屋を出る。
 晴れた日だった。ただ少しだけ、風の冷たさを感じた。部屋の鍵を閉めて施錠を確認する。
 車の鍵を開ける。後部座席に花を置いた。陽射しが当たっていたせいか、車内は暖かい。いや、少し暑いくらいか。しかし気になるほどではない。
 エンジンをかけると、車内にジャズが流れた。ハンドルを握り、大きく息を吐く。
 今年も、この日がやってきた。
 静かに、目を閉じる。はっきりと、七瀬の顔が浮かんでくる。表情、声、感触、匂い、そしてあの笑顔。全部覚えている。忘れる訳がないし、忘れられる訳がない。
 それくらい、七瀬は俺のすべてだった。
 松岡七瀬。俺と三つ年が離れた幼なじみ。食べることと、写真を撮ることが好きな女の子だった。いつもにこにこしていて、姉は七瀬のことを愛嬌モンスターと呼んだこともあった。笑うとほっぺにえくぼができた。そのえくぼを、よくつついたことがある。
 二年前の今日、七瀬は帰らぬ人となった。あの日のことは今も忘れられない。仕事終わりに携帯電話を見ると、父と母、兄と姉、そして七瀬の両親から、着信がたくさんあった。嫌な予感がしたのを覚えている。
 俺と電話が繋がらないと判断したのだろう。母から最後にメールが届いていた。
『七瀬ちゃんが交通事故に遭って、意識不明の重体です。仕事が終わったら市民病院に来てください』
 メールにはそう書かれていた。身体中から汗が噴き出したのを覚えている。急いでミライースに乗り込み、道中の黄色信号も突っ切って、市民病院へ向かった。
 意識不明の重体。ニュースでしか聞いたことのない単語が、俺の頭の中を駆け巡った。七瀬は軽自動車のミラココアをずっと欲しがっていて、念願叶って手に入れたばかりだった。休みの日は七瀬に連れまわされるのがパターン化していた。そのミラココアに乗っていた際に、交通事故に遭ったのだ。
 俺が市民病院に到着すると、七瀬はすでに手術室から病室に移っていた。管にたくさん繋がれて、頭は包帯でぐるぐる巻きになっていた。病室に入ると、みんなの視線が一斉にこちらに向いた。
 けれどその時みんながどんな表情をだったのかは覚えていない。もう七瀬のことしか見えなかった。
 ベッドの縁から、何度も何度も、七瀬の名前を呼んだ。こんな時、ドラマみたいに少しだけ反応があるとか、奇跡みたいに目を覚ますとか、そんなわずかな希望を持っていた。
 普段から俺と七瀬の家族は仲が良かった。七瀬には二つ離れた弟の昂希がいて、家族ぐるみで旅行に出かけたこともある。
 病院でもおばさんに母が寄り添っていた。父も、おじさんを気づかっていた。兄は昂希についていて、姉は俺についていてくれた。
 おじさんもおばさんも、一度アパートに帰ることを勧めてくれたが、俺は病院から動かなかった。帰っても眠れる訳がないとわかっていたし、少しでも七瀬の傍にいたかった。
 夜が明ける頃、俺は車で少しだけ仮眠をとった。まどろみの中で聴こえた七瀬の声。あれは幻聴だったのか。それとも、七瀬が最期に何かを伝えようとしてきたのか。今でも考える。
 車の窓を少し開けると、車内に風が吹き込んできた。春のぬくもりを感じる風だ。暖かくなったら、花見をしようね。七瀬が言っていた。花見なんて毎年やっているのに、嬉しそうに話していたのを思い出す。
 ギアをドライブに入れる。左右を確認して、アクセルを少しずつ踏んでいく。加速すると共に、車内に吹き込む風もまた、強くなった。
 頭部を強く打ったことによる脳死。それが七瀬の死因だった。当時の俺は脳死と植物状態の区別がつかず、いつか七瀬の意識も回復すると信じていた。しかし地元の大手製薬会社に勤める兄から、脳死と植物状態についての違いを説明された。
 その瞬間、目の前が真っ暗になった。暗闇を見つめるようになったのは、その日からだ。
 幼い頃から、七瀬はいつも俺の後をくっついてきた。ひろくん、ひろくんと言って、何処へ行くにもついてきたがった。
 そんな七瀬を鬱陶しく思ったこともある。 意地悪をして、口を利かない時もあった。それでも、七瀬は俺の後をついてきた。
 あまりにしょんぼりしているので、可哀想になって手を差し出すと、嬉しそうに笑ってぎゅっと俺の手を握りしめた。
 七瀬のことを異性として意識しはじめたのは、俺が高校生になってからだ。
 中学生になった七瀬は、女性として成長していた。見慣れているはずの横顔や、髪をかきあげる仕草、俺を見つめてくる視線。そうしたふとした瞬間に、ドキッとするようになった。
 付き合うとか付き合わないとか、そんなのはどうでもよかった。ただ傍に七瀬がいるようになって、それが楽しくて、ずっとこのまま二人でいれればそれでいいと思っていた。
 二人でいろんなところに出掛けた。俺が高校を卒業して、母のミライースを譲り受けてからは、土日は七瀬を連れて県外にも出かけた。
 信号が黄色になる。アクセルから足を離して、ゆっくりとブレーキを踏んでいく。ミライースがゆっくり停車した。停車中に助手席に顔が向く。自分のため息が聴こえた。停車した時に助手席に顔が向くのは、もはや癖のようになっていた。そこには七瀬がいて、見ているだけで幸せな気持ちになれる、満面の笑みを返してくれた。今は助手席には、誰もいない。
 休日に外出する機会が減ったのは、七瀬がいないからだ。以前は七瀬と二人で、どこまででも出かけていった。おいしいラーメン店があると聞けば、それがどこであろうとも、すぐに出かけた。
 目的地を目指す道中、めずらしいお店があれば立ち寄り、結局目的地に到着できなかったこともある。でも、それでよかった。目的地へ行くことが楽しかった訳じゃない。二人で時間を共有できれば、それでよかった。
 七瀬がそこにいるだけで、俺にとってはそこが世界のすべてだった。
 市街地を思い出のミライースで走る。横目で少しだけ、通り過ぎる景色を見る。見慣れた景色だ。もうずっとこの町に住んでいる。だから見ても何も感じない。
 今は少しくすんで見える気がする。目が悪くなったとかではない。世界の色が、今までと違って見える。
 それも七瀬がいなくなってからだ。七瀬がいた時は、すべてが明るく色づいていた。
 
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