ひこうき雲 三

文字数 2,913文字

 どくん、どくん。
 今日はいつもより心音がよく聴こえる。緊張、しているのかな。
 そうだよね。久しぶりに会う高橋さんとの、二人きりの時間。ドキドキするのも、無理はない。でも、反面怖い気もする。私のキスは、気持ちは、受け入れてもらえたのかな。
 今日はアルバイトはお休みだった。でも高橋さんは夕方まで仕事だったので、十九時に会う、ということになった。
 私はいつもみたいに、家の前で高橋さんを待っていた。腕時計を見る。時間は十八時五十分。しばらくして、こちらにゆっくり向かって来る軽自動車が見えてきた。高橋さんだ。
 目の前で車が停まる。軽く会釈をして、私は助手席に乗り込んだ。高橋さんはシャツとスラックスという、仕事終わりの服装だ。私も派手な服装は避けた。プチハイネックのノースリーブブラウスと、ワイドパンツだ。
「ごめんね。突然」
「い、いいえ。いきなりオーナーが入院して、大変ですよね」
「うん」
 車内にジャズが流れている。いつも高橋さんの車内で流れているジャズだ。いつもみたいに、途切れることなく話しを振ってくれる高橋さんじゃなかった。車も発進させずに、ずっと黙っている。
「…あの、高橋さん?」
「ああ、ごめん。どこに行こうか? 夕飯は食べた?」
「いいえ。まだです」
「そっか…」
 そう言った高橋さんは、行先も告げずに車を発進させた。まだ車の行き来が多い幹線道路を走る。意外にすぐに目的地に着いた。
 高橋さんが入ったのは、ちょっとお高そうなお店だった。中に入ると、なんか料亭みたいな感じだった。こういうところは家族でしか来たことがない。店員さんに通されたのは個室だった。鍋を置くガス台もあった。
「ここ、個室だから、ゆっくりしたい時に最適なんだ」
「でも、高そうですよ、高橋さん!」
 慌てたような声になってしまった。それを聞いて、高橋さんは笑った。いつもの、高橋さんの笑顔だ。その笑顔を見てようやく安心できた。
 食事の注文は高橋さんに任せることにした。冷しゃぶ、というものがある。それを二人で食べることにした。
 鍋が運ばれて、冷しゃぶ用のお肉や野菜が運ばれてきた。私が菜箸を持って硬直していると、全部高橋さんがやってくれた。料理ができない女みたいに思われただろうか。ものすごく得意なわけじゃないけど、下手でもない。と言いたかった。
 二人で美味しい、と言いながら食べた。心がほっこりとする。大切な時間だ。こうして会えたことを嬉しく思うし、一緒に時間を過ごせることが何よりも幸せと感じられる。
「川端さん」
 冷しゃぶを食べ終わって、ドリンクを飲んでいる時、高橋さんが口を開いた。うつむいて、テーブルに視線を落としている。
「俺、まだ亡くなった幼なじみのことを忘れられないでいるんだ」

 どくん。

 いきなり、そんな。ずるいと思った。そんな風に言われたら私は、引き下がるしかできない。
「いっつも、暗闇を見つめてた。その先に、七瀬がいると思ったから」
「七瀬?」
 高橋さんがゆっくりと頷いた。
「松岡七瀬。俺の幼なじみの名前」
 松岡七瀬。どこか親しみを感じる名前だ。いいな。と思った。きっと私の知らない高橋さんをたくさん知っていて、私よりも高橋さんに愛されてきたんだろう。
「世界がいつもくすんで見えてた。希望がなくなって、何をするにも無気力だったよ。冷たい世界に放り出されて、ずっとこのまま生きていくんだと思ってた。そういう時って、ものすごく孤独を感じるんだ」
「はい。わかりますよ」
 私が答えると、高橋さんが顔をあげた。
 そう。私にはわかる。絶望。無力。孤独。その全部がわかる。誰かが傍にいても、自分にしかわからない苦痛。それは誰にも理解されないものだ。
「…わかります。私も、病気になって、入退院を繰り返して。同じでしたから。だからわかります。でも、私は幸運にも、生きる機会を与えてもらって、それから世界に少し希望が差しました」
 そう。少し。そして、私の世界に新しい光が差そうとしている。それが高橋さんの存在だ。
「俺も、同じ」
 高橋さんの目が、じっと私を見つめてきた。やめて、高橋さん。私、それ以上見つめられたら、もう後戻りできなくなってしまうから。
「川端さんと会って、ご飯を食べに行くようになって、一緒に夜景も見て、いろんなところに出かけて。世界がまた色づいてきた」
 手。伸びてきた。高橋さんの手が私の手に触れる。
「まだ、ごめんね。不完全なままなんだ。俺の心。でも、もしよかったらもう一度、温かい日なたの下を、川端さんと歩いていたい。こうして、ずっと手を繋いでいたい。こんなこと、俺に言う資格、ないけれど。でも、お願いしたいんだ…」
 苦しんでいたんだ。高橋さんは。ずっと消えない思いに。七瀬さんへの罪悪感に。そして、今もずっと苦しんでいる。
 高橋さんは優しいよ。知ってる。だからきっと、自分だけが幸せになっていいのかって、ずっと考えていたんだ。
「いいんです。ゆっくりで。だって、一緒に手を取り合って、一緒に歩いていけるのが、今の私の幸せだから。だから、いいんです。高橋さんが私を見てくれる限り、私はゆっくりでもかまいません」
 もう、言葉はいらない。誰もいない。二人だけの空間。秘密の個室。
 私は高橋さんの腕の中に飛び込んだ。ぎゅっと、高橋さんが抱きしめてくれる。今度は事故なんかじゃない。
 改めて、見つめ合う。少し照れくさい。お互いに笑ってしまった。背中がむずがゆい感じ。でも、こんなにも満ち足りた気持ちになれるのは、貴方がいるからです。
 帰り道。大きな満月が見えた。車の中なのに、やっぱりフワフワする感じ。それでも、心は躍ってる。

 ドクン、ドクン。

 ああ、そうだね。この感じ。懐かしい。これが私の幸せの音だ。
 いつものように、高橋さんは家に送ってくれた。名残惜しい感じ。もう車から降りなきゃいけないのに。
「今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。また時間できたら、ご飯食べに行こう」
「うん」
 車を降りようとする。
「彩佳」
 えっ? 私の腕を、何かが掴んだ。高橋さんの手だった。
 唇に触れた、柔らかい感触。思わず、眼を見開いちゃった。この間よりも、長いキス。ミントの味がした。白い街灯の光が、私たちを照らしている。
 夜空から月光が降り注ぐ。呼吸も心臓も、止まりそうになるくらいの、ときめき。見つめ合う。また、どちらともなく、笑みがこぼれた。また、背中がむずがゆい。

 嬉しいよ。幸せだよ。ここにいられることが。

「また、連絡する。今度は映画観に行きたいね」
「あ、行きたーい」
「うん。行こう!」
 また、ウキウキする出来事が増えた。今から楽しみで仕方がない。鬱々とした毎日とは、これでお別れだ。
 じゃあ、私らしく。もう一度、勇気を出そうか。
「大翔さん」
 運転席から私を見つめる顔が、少し驚いていた。自分だって、さっき同じことしたくせに。
「おやすみ」
 手を振る。照れくさそうな顔をして、大翔さんが手を振り返してくれた。
 去っていく車を見つめる。見えなくなるまで。明日からまた、新しい日々がはじまる。私の世界に、また光が差し込む。
 それは、希望の光であってほしい。
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