第85話 三沢【2】

文字数 1,142文字

【2】

 それはもともと長兄の持ち物だった。
 大学生になって家を出た長兄の部屋にこっそり入り込み、ちょっと拝借のつもりでいたものが三十年近くも借りっぱなしになっているのだ。

 十七八の頃、そのK文庫の『家出のすすめ』『書を捨てよ、町へでよう』『誰か故郷を想はざる』などを読み耽っていた私は、大人たちからは悪書の類とみなされるであろう、その寺山のめくるめくような淫靡な著作を、あの実直な長兄が読んでいることを意外に思ったことを覚えている。
 だから、私にとって三沢とは未だに「寺山修司」であり「古間木の寺山食堂」であり、あのピンクの背表紙の文庫本のなかだけにある幻想の街だった。
 祖父のテープを聴くまでは、それ以外の知識も関心もなかった。

 そんな私が、はじめて三沢の地を訪れるなら、山猫部隊のように鉄路で真夏のハイヌーンに古間木の三沢駅に降り立つべきなのだが、どうしたわけか私は今、三沢空港に機首を向けつつある機上の人となっている――。
 これまで国際線には仕方なく何度か乗ったことがあるけれど、国内線はほとんど乗ったことがなかった。
 「飛行機嫌いの列車好き」と称して飛行機に乗るのが怖い私が、はじめての三沢への旅に空路を選んだのは、やはり祖父のテープを聴いたからだった。

 〈三沢へ行かなければ……〉と思い立ったら、祖父が一式陸攻に乗り込んで太平洋岸を北上し三沢を目指したであろう空路を、その景色や雰囲気を、私はどうしても追体験してみたくなった。
 その気持ちが怖さに勝ったのだ。
 これから着陸する三沢空港は、航空自衛隊とアメリカ空軍も使用する軍民共用空港である。
 そして、七十年前には「帝国海軍三澤航空基地」だった場所だ。

 スッ、スッ、スッと段階的に機体が降下するたびに、シートから尻が浮く。
 尻の辺りがむずむずして脇の下から冷や汗が流れるのが分かる。
 シートの肘掛を握り締めている自分に気つき、私はうんざりした。
 〈じいちゃん、笑わないでくれよな……〉
 祖父が一式陸攻で着陸し、特攻隊員となるべく降り立った滑走路に、私は今降り立とうとしている――。

 三沢行きの飛行機に乗り込むときは、ターミナルからバスに乗って駐機まで向かい、タラップを上って乗り込んだので、てっきり、三沢空港に着いてもそれ式で滑走路に降り立つことができると思っていたら、なんと三沢空港のターミナルには立派なボーディング・ブリッジが設備されていて、飛行機から降りてそのまま空港内に出てしまった。

 祖父の追体験は、かつて海軍三澤航空基地であった滑走路に立ってこそと思っていたので、カクッと肩透かしを食らった感じだったし、なによりもターミナルビルが予想していたより立派で、さいはての地に降り立ったという感慨がまったく湧かなかった。
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