第59話 カセットテープB面【25】

文字数 1,003文字

【25】

『大和はその海戦では沈没しなかったのですか?』

『大和が沈んだのは沖縄戦でのことです。
 では、これから沖縄戦から後のことをお話しましょう……。
 我々の攻撃飛行隊は、昭和十九年十一月のサイパン・アスリート基地爆撃の後、昭和二十年二月には、硫黄島に上陸せんとする米軍艦艇に対して、木更津基地から数回の薄暮(はくぼ)攻撃を行ったのですがね、一回に三機から六機ほどしか出撃できず、散発的な作戦しか行えませんでした。
 そのうえ、作戦のたびに数機が未帰還となるのですから、まともな戦力が維持できなくなりましてね、三月には所属の航空隊も替わり、木更津から宮城の松島基地に下がって部隊の再建を図ることになったのです。
 しかし、それもつかの間、沖縄に向かって進攻を続ける米軍を阻止するために、我が飛行隊は松島基地から九州の宇佐基地に進出することになったのですわ。
 宇佐に進出して最初の作戦が、沖縄本島と眼と鼻の先の慶良間島(けらまじま)に上陸を開始した敵艦艇に対する雷撃でした。
 その出撃の際に、飛行隊長が「おまえ達はけっして特攻隊ではない。敵戦闘機に出くわしたら魚雷を捨ててもいいから帰ってこい!」と訓示したことを、今でも鮮明に覚えています。
 そんな訓示を受けた我々でしたが、魚雷を捨てた機は一機もなく全機が雷撃に突入しました。
 そのときも、四機ほどが未帰還となったと記憶しております。
 沖縄戦ではね、我々の攻撃飛行隊は大分の宇佐基地から、鹿児島の鹿屋基地・井水(いみず)基地と移動しながら、一式陸攻で夜間雷撃をやらされたんです。
 あの頃の夜間雷撃は、戦果よりも被害が甚大で、出撃すれば半数以上が未帰還となっていたのです。
 それでも我々は沖縄戦で菊水一号作戦から最後の十号作戦まで十五回にわたって出撃し、二十機の一式と百五十名以上の搭乗員を失いました……。
 あの頃は、沖縄が落ちれば米軍の本土上陸は確実になるわけですから、それを阻止するために海軍はなりふり構いませんでした。
 かつては連合艦隊旗艦であったあの大和を、沖縄の海岸に座礁させて固定砲台にすると称して出撃させたのは二十年の四月でしたが、不沈戦艦のはずであった大和は捨石にさえなれず、敵の航空兵力によって九州の坊ノ岬沖に沈められてしまいました。
 既に連合艦隊は壊滅し、海上戦力は無きに等しい状態になっておりましたから、海軍は是が非でも航空兵力だけで米軍の進攻を食い止めるしかなかったのです。
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