第38話 カセットテープB面【4】

文字数 977文字

【4】

『ええ、当時は珍しいことではありません。
 終戦間際には、昭和生まれが十六七で特攻隊で出撃しましたからなぁ……。
 Nは予科練特乙一期生だったのです』

『よかれんとくおつ……ですか……。それは?』

『予科練とは、海軍飛行予科練習生の略です。
 海軍の飛行機乗りを養成する学校みたいなもので、十四歳から十九歳までの志願者を選抜し、飛行兵と下士官を養成する機関です。
 予科練の乙種は高等小学校卒の十四歳を対象にして、三年の教育期間と練成航空隊で実地訓練を一年ほど経験させ十八歳で飛行兵として部隊配置するコースなのです。
 しかし、戦況も切迫してきた昭和十八年から特例を設け、十七歳以上で予科練に志願した者を特別乙種とし、通常三年の教育期間を半年に短縮するということになったのですわ。
 これを特乙と称して、昭和十八年四月に予科練に入った者が特乙一期生となったわけです。
 その予科練特乙一期生の練成を初受け入れしたのが、高雄航空隊だったと風の便りに聞いておったのです。
 その頃はもう、飛行機も人員も消耗が顕著になりまして、一式陸攻は定員七名のところ、五名に減じた人員配置となっておりました。
 その実情が勘案されてか、特乙一期から射撃と整備が統合されて射整員となりましてね、昭和十九年の春から、各地の陸攻部隊にその特乙一期の操縦員・偵察員・射整員が配置されるようになったらしいのですわ。
 Nは、母親に「どうしても志願するというなら仕方がないが、生きて帰って来られるような係を志望しなさい」と泣かれたので、戦闘機乗りは命が一番危ないと考え操縦員を志願しなかったら射整員にまわされ、岩国航空隊で予科練の訓練六ヶ月、台湾の高雄航空隊で八ヶ月の実地訓練の後で、十八で陸攻搭乗員となって木更津基地に配属された、と言っておりました。
 私は昭和十七年からクーパンやらケンダリーやらテニアンに勤務していましたから、昭和十八年十月に高雄基地で訓練をしとったNとはすれ違いなんですがね、それでも私が高雄基地におったことを話すと、基地の様子や街の思い出話が弾みましてね、それでNも心を開いた様子でした』

『お話のNさんとは、今も?』

『いや……、Nは戦死しました。
 そして……、その亡くなったNが、今でも私に蝶の画を描かせておるんですわ』

 ――話の意外な成り行きに、私は文字通り固唾を吞んだ。 
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