第10話

文字数 3,084文字

 キングが裏社会の一員となって、かれこれ十年の歳月が流れた。十年前のキングは、恵まれた家庭の一人息子だった。父親は貿易会社を経営し、キングはその後継ぎとなるべく、父親に英才教育をされていた。誰もが羨む生活を送っていたキングの事情が一変したのは、母親が末期の乳がんになってからで、同時に父親の会社で、信頼していた部下が、取引先の殆どを自分の新たに起こした会社の取引先にしてしまった為、父親の会社の収入の大部分を失ってしまったのである。
 父親は、新たな収入を得るべく株式の投資に手を出してしまった。これも、信託会社の人間が、父親の弱みに付け込んでのもので、結果は億を超える損害を被ったのである。世田谷の成城学園にあった邸宅は借金の抵当に取られ、会社も倒産するしかなかった。
 それ迄の生活が一変したキングは、性格もそれまでの伸びやかなものから変わり、人を信じなくなった。母が亡くなり、暫くすると、父も自殺した。父は、キングに保険金を残して死んだ。キングは、残された保険金を借金の支払いには回さず、自分の再出発の資金にすることにした。キングは、真っ当な会社で働くつもりは無かった。真っ当だと思っても、そこには裏切りがあり、いつでも出し抜こうという眼差しで成功者になろうとする者を見ている人間がいる。父親の会社でそれを実感した。キングは、父親の会社を潰した人間達を許せなかった。報復の道を選んだ。だが、具体的にどう報復してよいのか分からず、キングは考えあぐねた。
 ある日、時間潰しに久し振りにクラブへ行った。そこで胡散臭げな男から、
「ネタならあるぞ。炙り用のパイプもある」
 と声を掛けられた。それが、覚せい剤との出会いの始まりであった。キングは持っていた保険金の残りで覚せい剤を買うと、それを売る事にした。自分が射つ為に使うのではなく、売買に使おうと考えた所がキングらしい。
 麻薬の世界がどういう仕組みになっているのか、まるで知らなかったキングだったが、持ち前の勘と何事にも臆する事のない精神がいい方向へ動き、キングの最初の売買は成功した。上った利益で新たにネタを仕入れる。末端のジャンキーにグラム三万円で売る。暫くの間、その繰り返しで利益を得ていた。そのうち、取引の仕組みが分かって来て、今の末端のジャンキーに売っているよりか、卸しをやった方が一気に大金が入り、又警察に捕まるリスクも少ない事に気付いた。それを実行するには、大金とともに、大元の卸売り業者を探さなければいけない。
 大河内と出会ったのはそんな時であった。大河内は関西のシャブの大元締めと言っていい存在で、それでいて自分の事をひけらかす事はしなかった。キングはこの人間なら信用出来ると思い、近付いた。
「われ、何の為にヤクの売人になったんや?」
 会った第一声がこれだった。キングは少し考えてから、
「誰よりも金持ちになりたいから。人は裏切るけど、金は裏切らないから」
 そう言った。その言葉を聞いた大河内は、突然笑い出し、
「そこ迄正直に言う奴も珍しいな。ええよ。暫く一緒にバイしようや。ほいで、もうこれで良いと思うたら、己の道へ行けばええ」
 それ以来、大河内が取引でヤサを出る時は、一緒に付いて行った。取引そのものは何ら難しい事は無かった。その事を大河内に言うと、
「確かに取引そのものは、相手が常連であればあるほど簡単だ。問題は初めての客をどう判断するかだ。場合によっては危険が伴う場合もあるし、別な意味ではマトリの潜入捜査だってあり得る。初見の相手は出来れば信用の於ける誰かの紹介という形を取れればいいがな」
「成る程。取引場所とか気にしますか?」
「そら、多少は考えるわな。あくまでも、こっちのペースで事を運ぶんだ。もし、それでとやかく言う奴等なら、取引はしないと最後通牒を突き付ける。ここが肝心な所だ。取引相手を逃してしまうなんて考えたらあかん。シャブを欲しがっている奴はごまんとおるからな。こっちがより取り見取りという訳や」
「よく分かりました。肝に銘じます」
 キングは、砂が水を吸い取るように、大河内の教えを吸収した。そんなある日、大河内から、
「今夜、取引があるんや。相手は初見の売人だ。一応長く付き合っている人間からの紹介だが、用心に越したことはない。マトリの潜入捜査という可能性も無くは無いが、お前に取引任せるからやってみい」
 と言われた。突然の言葉にキングは、驚いた。それ迄、取引の場には同席した事はあったが、取引そのものをやってみるという事は初めてであった。
「いいんですか?」
「何事も経験じゃ。グラム八千円で、五十グラム以上取引するなら、グラム六千円迄下げて構わん。紹介者が言うには、百グラム程欲しいとは言っていたが、実際はどうだか分からない。もし本当に百グラム以上欲しいと言ったら、グラム五千円迄下げてええよ」
「分かりました。もし、相手がおかしな行動を取ったらどうします?」
「マトリの潜入捜査の場合、初見でいきなり逮捕すると言う事は無い。取引を始める前に、身体検査を入念にやるんや。マトリの潜入捜査員はチャカを持っている。そのチャカがベレッタのM85だったら間違いなくマトリだ」
「自分には拳銃の知識が無いから分からない」
「儂にみせればええ。すぐ分かる」
 その言葉を聞いて、キングは少し安心した。その夜、キングは大河内と二人で、大阪南港の倉庫街に向かった。こちらが指定した倉庫に出向くと、既に相手は来ていた。
「えろう早いな」
 大河内がキングに注意しろと言った。
「予定時間よりも早く来る人間には注意するんや。何かを仕込む奴もおるからな」
「はい」
 倉庫の前に居た取引相手は、大河内とキングを見ると軽く会釈した。相手は三人で来ていた。大河内が倉庫の扉の鍵を開けた。中へキングが入る。それに続いて取引相手が入って来た。倉庫の中央にテーブルがあった。そこに、キングは大河内から託された覚せい剤が入った鞄を置いた。
「早速始めよう」
 キングがそう言ったものだから、相手は多少驚いた。見た目の年齢から言って、この取引の主たる者は、腕を組んで控えている男だと思っていた。
「先ずは身体検査からさせてくれ」
 そう言ってキングは一人ひとりの体を確かめた。拳銃は持っていなかった。
「大丈夫のようだな。じゃあ始めよう」
「百万用意して来た。それに見合う量を頼む」
「量はある。先ず金を見せてくれ」
「シャブの確認の方が先だ」
「いや。金が先だ。それが無理ならこの話は流れだ」
 相手が暫し考え、三人で相談した。リーダー格の男が、
「分かった。金を見せる。百万、確認してくれ」
 キングは十万円で一つのズクになっている一万円札を数え、確かに百万円ある事を確認した。
「さあ、次はそっちの番だ。シャブを確認させてくれ」
 キングは鞄から十グラムのパケを二十個テーブルの上に出した。
「グラム五千円だ。普通ならこんな安くは卸さない。紹介者に感謝しろ」
 こうして取引は終わった。大河内は、取引相手が帰ると、キングに向かって、
「何十年もシャブの取引をしている人間みたいだったな」
 と、笑いながら言った。
「儂の所で学ぶ事は無くなったな。卒業じゃ」
 キングも、もう大河内の所で学ぶ事は無くなったなと思った。
「いろいろお世話になりました。自分は東京へ戻りますが、これから先、取引の事や他の事で教えて貰う事があったら、又教えて下さい」
「ああ。いつでもくりゃあええよ」
 こうして、大河内という売人から影響を受けたキングは、東京を中心に覚せい剤の取引をして行く事になるのである。
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