第35話

文字数 2,932文字

 裕司は少し焦って来ていた。人質交換の件を警察側の交渉人に伝えてから、かれこれ小一時間程の時間が過ぎている。その間、亜蘭とはずっと電話で話をしているが、亜蘭もかなり焦れて来ている感じがする。
(まだ何も言って来ないのか?)
(はい。攻撃して来る気配すらも見せません)
(人質の解放位でこんなに時間が掛かるとは思えないのだが)
(人質を一人ずつ処刑しますか?)
 裕司が思いも寄らない事を口にした。亜蘭が慌てて、
(それはまだ早い。もし、本当に人質解放の手続きやらで時間が掛かっているのなら、今処刑を始めた場合、こちらの要望が通らなくなる)
(はい)
 丁度その時、本庁から現場キャップの所へ、人質交換OKの連絡が入った。脇田がその知らせを持ってアルファードの所へ行った。
「人質交換の件、OKが出た。そっちが望んでいるのは何人だ?」
「全員。一人も欠けてはいけない」
「そっちが抑えている人質は三人だろ?たった三人で全員の解放は少し無理があるんじゃないかな」
「無理と思うならそう思え。飽くまでもこっちは全員の解放を望んでいる。それが叶わないならこちらも全員の解放は無理だな」
「分かった。上と相談して来る。変な気を起こすなよ」
 脇田は交渉の内容をキャップに伝えに行く。キャップはしかめっ面をし、脇田の報告を聞いていた。
「完全に向こうのペースになってしまっているな。ところで、人質の身元は割れたのか?」
「はい。三人とも前科照合で割れまして、いずれもシャブの売人です」
「一番簡単に人質にしやすい人間を選んだんだな」
「そう思われます」
「シャブの売人なんかどうにでもなれ。そう思いたくなって来た」
「同感です」
「まあいい。人質の数の件、本庁に相談してみる」
「お願いします」
 脇田はキャップが本庁と連絡している間、傍らでじっと待っていた。
(はい。そうです。ここは向こうの言い分を飲むのがベストかと思います。人質の交換をして、その後に奴等を検挙する方法が良いかと。はい。ではその線で動きます。人質の解放はどのような手順で?分かりました。ではそのように相手に伝え、待機させます)
 電話を切ったキャップは、脇田に向かって、
「人質の件は全て向こうの言う通りにする。そして、ここからが問題だ。人質の交換を無事終えたら、一斉に相手を検挙する。銃撃戦になっても構わないとの本庁の言葉だ」
 と言い、
「さあ、褌を引き締めて掛からないとな」
 と気持ちを高ぶらせた。脇田が再びアルファードの所へ行く。助手席の窓ガラスを拳でコンコンと叩き、裕司が窓を開けるのを待った。
「人質の件。OKだ。但し、全員を一度に集めるだけでも時間が掛かる。そこは了承してくれないか?」
「いいだろう。人質交換の場所は何処にするんだ?」
「この場所だ。ここで互いの人質を交換する」
 裕司はそう聞いて、一つ自分の仕事が終わった気がした。目に見えないプレッシャーの中で、一人自分が重荷を背負わされていたような気がした。それが、一つ降りたのである。
「あんた、刑事さんだよな?」
 急に裕司は脇田に訊いて来た。
「こういう現場に来ているんだ、刑事に決まっているだろう」
「何だか刑事らしくないな」
「そうか」
「もっとゴツゴツした感じの刑事が来るかと思ったが、あんたはまるで何処かの一流商社の営業マンを思わせる」
 裕司のお世辞に脇田は笑いながら、
「そんな風に言われたのは初めてだな」
 と言った。脇田は、裕司との会話を、不謹慎な言い方だが楽しんでいた。脇田は、人質交換までの繋ぎで、裕司との会話に時間を掛けていた。
「君はキングの所へ来る前は何をしていたんだね」
 脇田は思い切って尋ねてみた。気持ちを損ねてこの会話が終わりにならない事を願った。
「しがないバーテンさ」
「新宿でかい?それとも渋谷?」
「六本木だよ。それより、そんなこと聞いてどうするのさ」
「悪い悪い。刑事やっているとつい身の上話を聞きたくなってね。許してくれ」
「別に構わないよ。俺の過去が知れ渡ったとしても関係無い事さ」
 裕司は思わず本心で語った。脇田にその気持ちが伝わったのか、
「君ならもっと違った人生を歩めたかも知れないのにな」
 と、脇田も本心で語った。
「そうやって言ってくれる人間と、もっと早く出会いたかった」
「まだ若いんだ。君ならやり直せるよ」
「そうやって俺を篭絡させようとしても無駄だぜ」
 裕司の口調が変わった。
「もう行き付く処迄きているんだ。やり直しなんて夢のまた夢さ」
「多くの犯罪者を見て来た私が言うんだ。間違いなく君はやり直せるよ」
 脇田の口調が、説得する口調に変わって来た。
「そんな事より、人質はまだか?」
 裕司が訊く。
「もう少し掛かると思う。聞いてきてやろうか?」
「ああ。頼む」
 脇田はアルファードから離れ、キャップの所へ行った。
「向こうの様子はどうだ?」
 キャップが尋ねた。
「何とか抑えています。少し痺れを切らし始めています。あとどれ位で人質が来るかを知りたがってます」
「もうすぐだと答えて置け。それと、奴等を検挙する手筈が出来た。本庁からSATが来る。人質の交換が終わったら、SATが一斉に車に突入する手筈だ」
「SATが出て来るんですか?」
「今迄のキングのやり方だと、奴等も武装しているから、普通に突入してはこちらの被害も大きくなる。最大限の方法だ」
「分かりました。では、本庁から人質がやって来るまで彼等を落ち着かせておきます」
「そうしてくれ。何だったら投降を説得してみてくれ。頼んだぞ」
 脇田は再びアルファードの傍へ来て、裕司と話を始めた。
「人質はもうすぐ来るそうだ」
「本当か?」
 丁度その時、裕司のケータイが鳴った。亜蘭からだ。
(暫くケータイが鳴らなかったから、心配したぞ)
(大丈夫です。もうすぐ人質が到着するそうです)
(周囲に変化は無いか?)
(いえ。特に覆面パトカーが増えたとかの変化もありません)
(最悪の場合は強行突破して逃げるんだ。いいな)
(はい。分かってます)
(人質が到着して交換という事になったら、必ず連絡をしろ)
(はい)
 そこで亜蘭の電話は切れた。
「キングからかい?」
「違うよ。キングは我々に電話で命令はしない」
「そうか。キングってどんな人間なんだい?」
「キングはキングさ。誰でもない」
 脇田は裕司の話し方を聞いて、キングという存在はそこ迄カリスマ性に富んでいるのかと思った。
「興味深い存在だな」
「キングがかい?」
「ああ。君等に取って何事にも代えられない存在なのだろう?」
「その通りだよ。キングこそ全てなのさ」
 脇田は裕司が気の毒に思い始めた。どういうきっかけでキングの一党に加わったかは分からないが、少なくとも何処かでボタンの掛け違いが起きて、今の立場になったのであろう。
「今回の人質交換の件は、キングの命令かい?」
「いや、違う。キングに近い人間さ」
 もうここ迄来ると、裕司はすっかり心を脇田に許している。聞かれた事に何でも答えていた。それは裕司にしても意識しての事ではなく、世間話のついでのような簡単な気持ちから話しているのである。脇田の人当たりの良さがそうさせたのかも知れない。
 その頃、本庁から送られて来た人質とSATの部隊が、間もなく現場に到着しようとしていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み