【?・?・回想】スピネルの〈ママ〉
文字数 4,267文字
滔々と流れる天の川を見て、五歳のスピネルはこうつぶやいた。
「天の川のせせらぎが聴こえるね」
当時、異母兄弟のサンドライトは八歳にも満たなかったが、この衝撃的な言葉は忘れられない。
すでにこの頃から、サンドライトは弟の星読みとしてのずば抜けた能力を認めていたと同時に、いずれは自分の脅威となるかもしれないと思っていた。
幼少期のスピネルは、宇宙の神秘を書き連ねた書物にしか関心がなかった。(のちに、哲学書や各国の古典文学にまで読書の幅を広げるが)
重度の紫外線アレルギーが室内での生活を助長したことは言うまでもないが、読書以外の時間は星ばかり眺めて宇宙に心酔していた。
この世界は、星のまたたきによって生かされているのだとスピネルは信じて疑わない。
学校には年に数回ほどしか出席しなかったが、スピネルの名を知らない者はいなかった。
銀色に輝く髪に優美な唇、細やかな白い肌に、切れ長の瞳は失明以前はグリーンアイだった。長男のサンドライトにも引けを取らないほどの天性の美貌と明晰な知性から、生徒だけでなく教師陣からも一目置かれる存在だった。
しかし一方で、誰も信用しないスピネルは、心に深い闇を抱えていた。
時折、内外問わず馴れ馴れしく近寄ってくる者に対して狂暴的な一面を見せた。
そんなスピネルが、丸三日間、行方不明になったことがある。
一万坪は下らない豪邸の地下に図書室があった。
執事や世話係はもちろん、外部の人間はけっしてその場所には踏み込めない。スピネルだけが熱心に利用していた。
その日も、図書室の中央に配置された直径三メートルの揺りかご式地球儀の上に乗り、『星座の伝説』や『月』の本を読みふけっていた。
そのまま図書室で眠ることも日常茶飯事だった。
ところが、深夜の二時を過ぎても珍しく目は冴えたまま。
眠れないイギリス人が羊を数えるように、スピネルは、各国の月の言葉を数えることにした。小さな腕には、真新しい黒ウサギのぬいぐるみを抱いていた。
「セレーネ、カマル、サル、チャンドラマー、クー、アイ……」
十回ほど繰り返したあたりで、睡魔よりもなぜかお腹がぽかぽかと温まってきた。
ふとお腹に目をやると、開いたまま伏せてあった古書から四方八方に強い光が放たれていた。はじめは、父上自慢の壮麗な地球儀の光だとばかり思った。実際、この地球儀にはライトアップする機能が備わっていた。
スピネルは体を起こして、伏せられた古書をそっと返した。
するとそこには、世界中から集められた宝石が、輝きを競い合うかのような満天の星空が映し出されていた。本のイラストでも写真でもない、海底のような本物の夜空があった。
それ以上は考える隙もなく、スピネルはただただ光の中へと吸い込まれた。
何かが、苦しむように羽ばたく音が反響している。
横たわっていたスピネルは、薄闇の中おずおずと立ち上がった。
断続的にバタバタと激しい羽音が―――頭上から降ってきた。
見上げると、暗闇から一転、視界が明るくなった。
スポットライトが、目の前の巨大な六角形の鳥かごを照らす。
中には、スピネルの十倍の大きさの女があられもない姿で囚われていた。
羽ばたく音は、女の背中にあるふたつの大きな純白の翼だとわかる。
鳥かごの中央から吊るされた鎖に生白い両手を拘束され、目元、首、胸元、局部などは黒い布できつく巻かれていた。拘束具からはみだしていた乳房は、ところどころ赤く折檻された傷跡が生々しく残っていた。
唯一、長い銀色の髪だけは自由を許されたように右肩からだらりと揺らめいている。
痛みを忘れるためか、無意識からなのか、時折その髪は自分の局部を撫でた。
暗闇に目が慣れてきたのか、鳥かご下の模様まで見ることができた。
新月、下弦の月、満月、上弦の月、三日月の満ち欠けに加え、大剣で翼を突き刺す計六つの絵柄がクリスタルに彫られていた。
スピネルは、頬を指で弾いた。
これは夢ではない。
月の言葉は一種の呪文としての役割を担い、こともあろうか異次元へワープしてしまったのだろう。そうスピネルは冷静に判断した。
「苦しそう」
「否定はしない」
〈囚われの女〉は、翼を閉じた。
「何か悪いことでもしちゃった?」
率直に幼いスピネルは尋ねた。
「存在を否定されたわ。ボク、何も知らないふりはしないで。聡慧(そうけい)でしょう?」
「ははは。そうだね、うん、賢いと思うよ」
屈託のない笑い声が、鳥かご以外何もない部屋に響く。
「ねっねっ、あなたは僕のママ?」
「甘えられるのは好きじゃないわ」
「否定はしないんだね」
「生意気なボクね」
スピネルは鳥かごに近づいた。
「ねぇ、死ぬのは怖い?」
「死ねないことが、怖いわ」
何も覆われていない〈囚われの女〉は、青い口で即答する。
「たまに、ボクみたいにここへ呼んだり、もっと籠の中でも身体の自由がきいたときは、世界中の人間の意識に入って悪戯したりしたこともあったけど……」
「それは、楽しそうだね! でも、人を選ばずに悪戯はできないよねっ?」
スピネルは怜悧な笑みを浮かべる。
「生意気ね。ボクみたいに星の心を読める者や、信仰心が強い者の意識には入りやすいかもしれないわ……古くから伝わる自然的な儀式で神を崇める、ヘナ族のようなタイプの少数民族ならばなおの」
話の途中で、〈囚われの女〉は激しく咳き込んだ。口元を抑えた手は朱に染まっている。吐血しているのだろうか。
「やっぱり夢じゃないんだっ。ねぇ、また僕をこの部屋に呼んでくれる?」
少しの間を置いてから、〈囚われの女〉は自嘲気味に笑った。
「……いいわ……!」
そういうと、女はスピネルに向けて朱に染まった手を振るった。血の雫の一滴はスピネルの左眼に、もう一滴は抱いていた黒ウサギのぬいぐるみの左眼に勢いよく飛び込んだ。
「あつッ……! ぐあぁッ……眼が燃えるように熱いよッ……!!」
ジュワアァッ……!!
朱い血がスピネルの眼球を沸騰させて溶かし、すぐにガラス玉のように再結晶化してスピネルの義眼となった。
「っ……! があぁッ……! ……!? あれ、見える……? 見えるけど……!? 痛っ!! 眩しい過ぎて、頭が割れる……ッ!!」
「目を覆いなさい!」
スピネルが左手で目を隠すと、割れるような頭痛は次第に収まった。
「今はその目で見えるものはボクには眩しすぎるでしょうね。でも、ママと呼ぶのならば慣れることね、ボク」
「っ……! 僕に何をした……!?」
「ボクがまた会いたいというから、道を作ってあげたの。ちょっとだけ生きるのが大変になるでしょうけど」
「僕を傷つけたら……許さないぞっ!」
「星読みとして生きるなら、その目の力は生きるはずよ。また会いたいなら、小さなお友達を私だと思って我が名を念じなさい。私は月獣セレーネ」
小脇に抱えていた、黒ウサギのぬいぐるみを一瞥した。左眼には、朱々と輝く宝石がはめられていた。
「月の獣……? でも今は月じゃないよね?」
「ボクが語るに足る存在となったときに語るわ」
セレーネが最期の言葉を口にした瞬間、体ごと吹き飛ばされるような強い風が吹いた。
強制的に豪邸の地下の図書室まで引き戻されてしまった。
その日、スピネルは興奮のあまり眠れなかった。
執事やメイドたちは、三日ぶりに消息が分かったスピネルの周りでパニックも同然だった。スピネルの左眼の大出血を見て、慌てて医者を呼んでいたが、そんな雑音は何ひとつ彼の耳には入ってこなかった。
その後、スピネルと〈囚われの女〉は何度か会い、鳥かごを挟んで言葉を重ねた。
そのたびに、〈囚われの女〉の身体は小さくなっていたが、鎖を解(ほど)くことを諦めきれないのか、思い出したように細くくびれた腰を動かした。
すっかり気心の知れた間柄になると、〈囚われの女〉は自由を奪われるまでに至った秘めごとについて打ち明けるようになった。
「ボクは、月に、並々ならぬ興味、を……抱いてい、るようだけど、ひとつ良いことを、教えて、あげる……」
言葉を発する体力もままならなくなってきたのか、〈囚われの女〉の喋りはたどたどしかった。が、そんなことお構いなしにスピネルは目を光らせてはしゃいだ。
「え! 本当に? 教えて教えて!」
「月にはね、強大な力を持つ、月神が、支配しているの。その月神が、月獣の、私を追放、した」
「どうして?」
「脳味噌を食べる姿が薄気味悪かったみたい……死んだ者の脳味噌なのに……」
スピネルは、脳味噌の味とやらを想像してみたが、まるで想像できなかった。もともと野菜しか口にしない彼には、豚肉の味すら自らの味覚に刻まれていないのだ。
「ああ、脳味噌が食べたい……」
〈囚われの女〉の青い口からだらしない舌が伸びた。
「欲求があるってことは、まだ死なないね!」
あくまでもスピネルは呑気な口調で返す。
「でも、ちょっと許せないね? 月で生まれた者同志なのに、差別ってどの星にもあるんだね?」
「差別……差別……。同じ月で生まれた、それは否定するわ」
「否定しちゃうの?」
「ボク、は、月がどう、誕生した……かを、知って…い…るね?」
「うん、もちろんだよ! ジャイアントインパクト説でほぼ正解でしょっ? 地球に火星くらいの大きさの隕石、厳密にいうと火星くらいの大きさの原始惑星〈テイア〉が衝突して地球が分解したものが月となったんだ。ねね、それが、どうかしたの? 僕わくわくしてきちゃったよー」
スピネルの興奮は止まらない。
「その結果、形成……され…ゴホゴホッ……た衛星は、月、以外にも、ゴホゴホッ、あったの……」
「ええええ! それは、知らなかったよ~。ママは凄いね?」
「本当は、月と、なる、はず……だっ、た、HO2……。私の……ゴホゴホッ、生まれ故郷……」
そこで話は途切れた。
スピネルは、拘束具から覗かせた生白い肌と、今でもあの鳥かごの中でひとり呻いている女を想像した。
心の奥底から欲情めいたものが突き上がってきた。
悪魔が支配する月へ行こうと決意する。
「ちょっと許せないよね? ママへの仕打ち……」