15、〈白い輝夜姫〉
文字数 2,124文字
どれほど前からなのかは不明だが、首筋を吸われたときの痛みだけ残っていた。
竹林で襲われたとき、女の容姿は人間とさほど変わらなかったように見えたが、口を開いた瞬間に垣間見た歯は、獣のように太く尖っていた。
ふと、遠くから金色の光が見えた。
ひらひらと中空を飛びまわっている。
捕まえようとする気持ちで体が前のめりになったが、光そのものがこちらへ迫ってきた。
光の正体は古書だった。表紙と裏表紙が鳥の羽のように上下しゆったりと羽ばたいた。
しばらくは、彼を品定めするように頭上を旋回した。
「私の声が、聞こえる?」
古書から柔らかな声が聞こえた。
「あなたは?」
恐る恐る問いかける。
「サンドライト、サンドライト」
自分の名前を呼ばれたとき、サンドライトは強張っていた頬が弛緩した。
「やはり、母上の魂は生き続けていたのですね」
「ええ」
姿かたち見えないはずの母が、微笑したような気がした。
「やっと、あなたと会話を交わすことができたわ。サンドライト、あなたの首に塗ってあった毒が黒い輝夜姫にまわって彼女に隙ができたの」
サンドライトは、あらかじめ毒を塗っておいたステッキを、執事のアレキに手渡し、あの竹林の中で自分の首を突いてもらったときのことを思い出す。
「物心ついてから母上と会話することは、事実上、不可能でしたからね。いったいどこへ行ってらしたのですか? 私は、母上のせいで一時期、女性恐怖症になっていたのですよ?」
長い言葉を発すると、首筋がヒリリと痛んだ。
「ああ、黒い輝夜姫に吸われた部分が痛むのね。でも、あと少しの辛抱だから……」
「それは、なぜです?」
間髪入れずにサンドライトは理由を尋ねた。
「散々、罪人の怨念や老村の人々の負の感情を養分として吸収し、着実に成長していった
黒い輝夜姫は、間違いなく四十五分間続くとみられる食の時間に覚醒するでしょう。ただ」
「黒い輝夜姫? 母上、できればもっと詳しくお話しください」
「わかったわ。でも、最後まで状況を話す時間が与えられるかどうか……。もしこの場で理解できなければ、あの銀髪の弟に聞くと良いわ」
「スピネルのことですか?」
「そう、スピネル。彼は、星を読むことで黒い輝夜姫の存在にいち早く気づけたようね」
その一言に、サンドライトはムッとし、思わずつっけんどんな口調になった。
「それで、黒い輝夜姫とは何者なんですか?」
「その前に、私の素性について語る必要があるわね。信じ難い話かもしれないけど、私も、サンドライトの首筋を噛んだあの吸血姫も、同じ〈物語の種〉から生まれたの」
「物語の、種?」
「月人が生み出した種のことよ」
はじめ、ツキビトとは付き人を意味しているのかと思ったが、すぐに別物とわかる。
「ところが、地上へと生み落とされる途中で、ふたつに分解してしまった。そのせいで私は、本来よりも能力、生命力共に半分以下に……。もう必死だったわ。とにかくあの手この手を使って『竹取物語』と言う偉大な物語を生み出すため、竹の中から外の世界への脱出を試みた。ある人の協力を経て、ようやく達成されるものと信じていた……」
声が僅かに震えていた。
「一方、黒い輝夜姫は、とても強運の持ち主ね。落ちた場所が良かった。人間の負の感情しか渦巻いていない罪人の墓地に根を張った」
姿は確認できなかったが、その口ぶりからは計り知れないほどの悔しさが滲み出ていた。
「そういう経緯があったのですか……」
サンドライトもまた葛藤していた。
母の言う通り、にわかには信じがたい話だった。
とは言え、スピネルに理解できて自分には理解できないことを認めたくはなかった。ましてやそれを、我が母には悟られまいと必死だった。
「母上は、黒い輝夜姫と双子関係にあるのですか?」
やや沈黙のあと、「そうね」と力ない答えが返ってきた。
「つまり、母上は〈輝夜姫〉なのですね?」
言葉にしてみると、それはいささか奇妙な響きを持った。
知りたいことは山ほどあったが、限られた時間の中で優先度の高い質問を口にした。
「ところで、母上は今どこにいるのです?」
「黒い輝夜姫に吸収されてしまった……。私はもう彼女の体内で彷徨っている身……」
その声は、果てしなく暗いものだった。
輝夜姫の居場所が判明すると、必然的にサンドライトが置かれている状況も明白になった。
「そろそろね」
頭上に留まっていた古書が再び飛翔をはじめる。
姿を見せたときと比べて、光の度合いは圧倒的に弱まっていた。
別れが近づいていることをサンドライトは悟った。
「母上、先ほど言いかけていましたが、食が起こると覚醒する。ただ? ただ、何なんです?」
「ただ……、黒い輝夜姫を封じる方法は残っています。とにかく、兄弟を信じなさい。そして、サンドライト、あなたも……あなたも……」
そこで光は完全に消滅した。
視界は闇に覆われ、サンドライトはまた意識を失ってしまった。