【…・現在】絶対的存在
文字数 6,077文字
我が、月神様。
明日が〈祈りの日〉となりましょう。
今までで一番短い言葉だったが、最後の言伝(ことづて)になる予感がした。
どこの国の建物かは不明だったが、ゆうに百メートルはありそうな大聖堂が、〈ハブパーク〉にはあった。作戦を練る場所としては申し分ないだろう。しかし、明日になればこの建物も消えてなくなる可能性があるのが〈ハブパーク〉の怖さだった。
しかし、ここに様々な人たちが集結しようとしていた。
本来の色を二十~五十五%保持している者。言い換えれば、月人に回収される運命ではあるが、わずかながらに意思を持っている人たちだ。
彼らは、サンドライトの発案で日陰に集められた。
サンドライトのカリスマ性がこの退廃的な世界でも通用することが、今まさに証明されようとしていた。真っ赤な赤いマントを身に着ける。これは、アレキがかぼちゃの馬車に積んでいたものを勝手に持ち運んできたものだった。
いよいよ、サンドライトの演説が始まろうとしていた。
大聖堂の中ほどにある窓からサンドライトは姿を見せると、群衆の意識はいっせいにサンドライトに集まった。
「諸君らに告ぐ。月の支配から逃れるため、我々はこの〈ハブパーク〉から脱出しなければならない! いや、〈ハブパーク〉を本物のユートピアに変えるため、すぐにでも立ち上がらなければならない!」
群衆の多くは、歓声を上げる余力すら残されていない者たちばかりだった。
だが、〈ハブパーク〉へ来て初めて生きることに希望を持てた。間違いなくその喜びは、半〈モノクロ〉の人々の底力を呼び覚ますだろう。
「明日は、我々が革命を起こすには絶好の日である! なぜなら、ここ〈ハブパーク〉は〈祈りの日〉となる! 私の指示を待ってから、祈りを放棄せよ! 恐れるな! 我が同志たちよ!」
集まった人々は、いっせいに右手拳を振り上げた。
無事に演説を終え、真っ先に鶴乃のもとへ行くと先約がいた。
マントで全身を覆い隠していたが、斜め後ろから浅黒い肌がちらりと見えた。
一瞬、〈葬除人〉かと思い、いつでも鞘から宝剣を抜けるよう身構えた。
「大丈夫か」
しかし、大聖堂の入り口にいる鶴乃のもとへ走り寄ったときには、すでにマントの男はその場から姿だけでなく俊敏に気配まで消してしまった。
鶴乃の手には、白いハンカチが握られていた。
「怪我でもしたのか?」
「聴衆のひとりが」
サンドライトは眉根を潜めた。
「どんな外見の男だ?」
周囲に目を配りながら尋ねる。
しかし、ひとたびハンカチを広げれば解決することだった。
ハンカチに包まっていたものは、中央に薔薇のついた十字のペンダントだった。
よく見ると、ハンカチの内側に文字が書かれていた。
―――兄者の星読みに熱望する
見渡すかぎり、姿を確認することはできなかったが、サンドライトを兄者と呼び慕うのは世界でただひとりだ。改めて、薔薇がはめこまれた十字のペンダントを握りしめた。
アレキという強力な支えを失った今、ヒスイが駆けつけてくれたことは言葉にならないほど嬉しかった。
「鶴乃、私は明日に備えて星読みをしようと思う。来てくれるか?」
返事がなくとも、鶴乃がサンドライトに追従の意思を示したことは明らかだった。
早速、大聖堂をあとにし、ふたりは人気のない場所へと移った。
昨日までは牧場だった場所が、硫黄の匂いを漂わせていた。
どうやらここは温泉地のようだ。
急な坂道を挟むようにして、旅館が続いていた。
扉や窓はなく、建物の中で〈モノクロ〉の人が単調な動きをとっていた。
しばらく歩いていくと、錆びたベンチがあり、サンドライトと鶴乃はふたり並んで腰かけた。
「私には、弟がふたりいる。ひとりは野性的で酒豪で女好きだが、本当は純粋なやつでとても兄想い。もうひとりは、今どこでなにをやっているのか皆目見当もつかないやつだが、星読みの能力は一流だ。黒ウサギのぬいぐるみといつも一緒で……」
そのとき、脳内に「赤色偏移」の四文字が鮮明に浮かんだ。
急に声を失ったように黙りこむサンドライト。鶴乃は自分も心細くなり、サンドライトの手をそっと握った。
「すまない。もしかすると、星読みに適した時間と場所なのかもしれない。自分から誘っておいて悪いんだが、少しのあいだだけ、ひとりにしてもらえるか?」
「はい。貴族様」
鶴乃は、いつも通り控えめな声音で答えた。
「またあとで逢おう」
サンドライトは小さくうなづく鶴乃の手の甲に優しく口づけをした。
鶴乃は、無色化していたサンドライトの左指、左手のひら、左腕、左肩、左胸、左膝、そして、暗色の世界でもなお艶めく金色の巻き髪の順に触れていった。名残惜しそうだったが、言われるままにベンチから離れた。
「スピネルと口にしたときだったかな。虹を見たときの髪の色といい、空が私に知らせてくれているのだろうか」
サンドライトは独り言をつぶやいた。
頭上を仰ぎ見ると、明日には完璧に満月と言えそうな月が浮かんでいた。
―――何かを見落としている
―――ここが、どう支配されているのか
―――そもそも、〈ハブパーク〉とは?
自問自答を繰り返していると、何かが憑依する感覚があった。
今ならば、空の動きや星の流れを深く読めるかもしれない。
その勘は的中する。
視線の先にある月をはっきりとリモートセンシングできたのだ。
急に頭の中がぐわんぐわんとルーレットのごとく回転しはじめた。
〈ハブパーク〉へ来てから今日に至るまで、サンドライトの青い瞳に焼きつけられた月のデータが高スピードで解析されようとしていた。
「そうか……。ここは地球ではなく、少しだけ宇宙だったのか?!」
サンドライトは、星読みによる目覚めでハッとなった。
〈ハブパーク〉では、いつもあの月は同じ場所、それも真上から照らしているのだ。
つまり、〈ハブパーク〉も月と同じ回転速度で地球の周りを回転していることになる。
回収したいものを〈ハブパーク〉に誘き寄せ、完全監視のもと月光線をふりまき、無個性化、無色化、無形化の段階を経て物語の養分とする。
いつも月は地球に対して同じ面しか見せないのは、単に自転周期と公転周期が同じだからではないだろう。千年、二千年と経過しても、わずかな狂いもないことはあまりに不自然。有史以来、意図的な力が働いているに違いない。
いかに月の神秘的な力が強大か、いかに月人たちが高知能なエイリアンか、いかに〈物語〉を取り巻く世界や体系が完璧かを思い知らされた。
深い溜息をついたとき、ひやっとした手が彼の両目を覆った。
サンドライトはその手を握り、「まだ帰っていなかったのか。私と離れたくなかったのだな」と冗談を言いながら振り返ろうとした。
「振り返っちゃダメ!!!見ちゃダメ!!!」
口調も声色も普段とあまりにかけ離れていた。
そのせいで、すぐにその声が鶴乃だとは思えなかった。
サンドライトのうしろには確かに鶴乃はいたが、彼女は男に背中を拳銃で突きつけられていた。
乾いた音がした。
鶴乃の愛らしい子供っぽい顔が見えた。
小さな耳に、つぶらな瞳に、細い鼻に、桃色の唇が見えた。
「私は、とても悪い夢を見ているようだ」
直後、拳銃を持っていた男に腹部を蹴られ、サンドライトは気を失った。
ひどい夢を見た。
月神と名乗るものに、洞窟の行き止まりで首を絞められている夢だ。
皺のある手だが、日頃から鍛え抜かれていると思われる。
本気で殺そうとまでは思っていないのか、最期の一手までは締め付けない。
横たわっていた床から伝わる寒さは、心まで凍らせそうだった。
やがて、カン、カン、カンと甲高い足音がこちらに近づいてきた。
「坊ちゃん。わたくしが誰だかおわかりですか?」
その声のあと、すぐに目の前で鶴乃が倒れたシーンが浮かんできた。
「貴様、裏切ったな!」
罵声を浴びせながら上半身を動かしたが、手足首が鎖で繋がれて自由が利かなかった。
「坊ちゃん、あまり暴れないほうが賢明ですよ。美しいお顔が台無しでございます」
歯から血が出そうなほど食いしばり、いつもと変わらない声で話す執事アレキを睨みつけた。
「鶴乃は、捨て駒だったんだな? 貴様が…、貴様が彼女を利用したんだな?」
完全にサンドライトは頭に血が上っていた。
右手にランプを持っていたアレキは、サンドライトの前でおもむろにしゃがんだ。
「貴様は何者なんだ? ずっと、ずっとおかしいと思っていた。でも、おまえは、おまえだけは、俺を裏切らないと信じていた。なのに……鶴乃を返せ!」
「坊ちゃん。鶴乃は、顔だけでなく〈実体のない女〉です。鶴乃はモノレールの中で行ったり来たりするだけの役割なのです。それ以外の鶴乃は、坊ちゃんが勝手に思い描いた幻覚に過ぎないのです」
「俺に、戯言は通じない。おまえが鶴乃の命を奪ったのだ。おまえは月側の人間なんだな? なぜ、なぜ俺と〈ハブパーク〉まで来た?」
サンドライトの血走った目は敗北を認めまいと必死だった。
「月のこと、〈ハブパーク〉のからくりに気づいたのはさすがでございます」
「質問の答えになっていないぞ、アレキ!」
サンドライトが首を激しく左右に振るたび、鎖の音がじゃらじゃらと洞窟に響いた。
「話が長くなりそうですので、ムーン・ロゼ・ティーを淹れさせますね」
その言葉のあと、背後から黒衣に覆われた〈葬除人〉が現れた。
アレキのアイコンタクトだけで無駄のない動きをする。
「格式の高い〈葬除人〉もいるんだな。おまえが手懐けたのか?」
その質問に答える義務はないと思ったのか、アレキはランプを持ったまま〈葬除人〉が立ち去るのをただ待っていた。
ふたりのあいだでたゆたう湯気と甘い香りは、サンドライトの心を切なくさせた。
その気持ちの変化を見逃さないアレキは、
「怒りがおさまったようで、安心いたしました」
と皮肉を忘れない。
「さっさと話せ。その後、おまえは俺が斬る」
サンドライトの声は震えていた。
ややもったいぶっていたが、ようやくアレキは自身のことを打ち明け始めた。
「わたくしは、ご察しの通り月の者です」
月人ではなく、月の者という表現にサンドライトは訝しんだ。
「月にこの身を預けておかねばならないのですが、気づけば地球に長居し過ぎてしまいました。そのうち、体は衰え、自力で月まで戻れなくなってしまったのです。しかし、星読みを得意とする、いわば地球で超人的な人間を探すのはわたくしの手にかかればたやすいことでしたから、すぐに〈薔薇の貴公子〉と呼ばれるお三方を見つけ出せました。しかし、黒い輝夜姫の一件はわたくしの能力を持っても完全に読めない展開でした」
言葉の端々から、アレキが己の能力を鼻にかけていたことがわかってサンドライトは二重の意味で面白くなかった。
「その後、月人たちとは連絡を取り合うことができなくなりました。わたくしが地球に長く滞在しすぎたためです。しかし、ある方が金星からわたくしを地球から救い上げようと尽力してくれているのです」
金星という言葉には意表を突かれた。そして、ある方、と口にしたとき、アレキの頬は紅潮した。
「この頃、めっきり聴き取れなくなり、しまいにはわたくしと関係の深い者を媒体とするようになりました。そう、坊ちゃん。あの声は夢ではないのですよ。ただし、坊ちゃんにではなく、本来はわたくしに宛てたメッセージだったのですが……」
アレキは口髭から見せる白い歯でニッと不敵に笑った。
「自ら世界の真髄を紐解いただけでなく、もしかすると、この〈ハブパーク〉で生活するあいだに、坊ちゃん自身が破綻した物語の登場人物なのだと気づかれたのかもしれませんね。良いでしょう。特別に種を明かして差し上げましょう。〈物語ロード〉は、一方的に月から地球へと流れるものですが、〈ハブパーク〉では〈祈りの日〉に限ってその逆の道が開かれるのです。もっとも、選ばれた者しか歩けない道ですが。いやはや、坊ちゃんの星読みとしての特殊な力がなければ、わたくしがここまで来ることは不可能でした。まぁ、坊ちゃんにはまだ大仕事が残っていますが」
アレキは悪魔のように微笑んだ。
頬の古傷のせいで左の口角が上がりきらず、歪んだ微笑。
「おまえ自身の物語は、偽りだらけなんだな……」
いつのまにか、ティーカップから立ち上る湯気は消えていた。
「どうでしょうか。地球に長く滞在しすぎてしまい、自分が何者なのかわからなくなるときは確かにありましたが、わたくしの物語があるならば、それは途方もない数の物語を確固たるシステムのもと、管理・監視・回収することであります」
「おまえは、ただの月人ではないな? 改めて問うぞ、いったい何者だ?」
本当の意味で素性を明かすことには躊躇しているのだろうか。
アレキはいまだ質問をはぐらかした。
「サンドライト。俺の邪魔はしないことだ。一度だけチャンスをやる。大人しくこのムーン・ロゼ・ティーを口に含めば、痛みを感じることなく直々に俺が葬除してやる」
初めて名を呼ばれたが、非情な冷たさしかなかった。
「さあ、決めろ!」
喉はカラカラに乾いていたが、さらさら要求を受け入れるつもりはなかった。
「拒否すればどうなる?」
「痛みを伴う。いずれにしても、おまえは我が月の生贄となる運命(さだめ)だ」
右手首だけ鎖が外された。
サンドライトは床から上半身を起こすと、いつもの片眼鏡を装着しているがまったくの別人となったアレキをまじまじと見た。蔑むようにじっくりと直視した。
「俺はもう、おまえに許すチャンスは与えるつもりはない」
心が張り裂けそうなほどの憎悪を込めて、サンドライトは言い放った。
「それが答えか。だとすれば、残念だな」
アレキは捨て台詞を吐いたのち、〈葬除人〉のひとりに眠らせることを指示した。
無抵抗のサンドライトは、二回ほど腹部を強く蹴られた。
「あれは違う……操られているんだ……俺は、諦めないぞ……。必ずや、可愛い弟がこのサンドライトを助けに来るだろう……そのときこそ…絶対に俺はアレキを……」
だんだんとまぶたが下りてゆく。
色だけでなく、何もかもが一方的に失われてゆく世界で、アレキが用意したティーカップだけが色鮮やかに輝いていた。
支配者の色。
しかし、そのムーン・ロゼ・ティーは誰にも口づけされることなく翌日までサンドライトと共に放置された。