【月・過去】侵入
文字数 3,302文字
上級月面師の背後には、数時間前までホテル〈バオバブの樹〉にいた姉の未月と、月神様ご贔屓の妹の麗月も一緒だった。
会食の間では、珍しく月味酒が振る舞われた。
カマルは結局、数人の部下に連れ戻され、〈オオイカヅチザメ〉の巨頭を揺らしながら大判振舞。
サルは酒の有無にかぎらず心底楽しそうに他人をこきおろす。
チャンドラマーは、相変わらず甘ったるいものばかり口に入れながらも月神様の一挙手一投足に表情を変えていた。
黒猫型ロボのクーは、『未知なる言語との出会い』の原稿を執筆中のため、宴会には参加せず早々と帰宅の途に就いた。
白猫型ロボのDrアイは、仕事柄、上級月面師のトワイライトメニューについて詳細に原材料を聞き出していたが、やがて月味酒の効果で酔いつぶれた。
月神様と麗月は気もそぞろに、タイミングを見計らって宴会席を抜け出そうとする。
その際、チャンドラマーの性格を考慮する月神様は、去り際にかける一言にまで余念がない。差し入れのお菓子を絶賛され、チャンドラマーは無上の喜びに顔を紅潮させ、そのまま大人しく帰っていった。
会食の間から三人が消えた。
重力の舞を披露している最中でも、姉の未月は窓際でソルトワインを舐めていたツクヨミに目くばせをする。それを受けてツクヨミは速やかに退室した。
賑やかな音楽どころか、物音ひとつ聞こえてこない長い廊下。
「月の塔へ、先回りできる?」
ツクヨミは、未月を睨んだ。
「そんな怖い顔しないで。勘違いしているみたいだけど、あたいの要望は、結果としてあなたの命を守ることにも繋がるのよ」
「ひとまず、これに着替えろ」
最高級のレース一枚しか身にまとっていなかった未月に、ツクヨミは着ていたジャケットを突き出した。
「おまえがただのホラ吹きだと判明した瞬間、命はないと思え。……走るぞ」
素っ気なく言い捨てて走り出す男に、未月はその背中を追いかけながら肩に入っていた力をわずかに弛緩させた。
裏口からシームーンを出たツクヨミと未月だったが、数体の黒ロボが瞬時に集まってきた。反射的に未月はツクヨミの背後に隠れる。
とっさに彼の視界に、〈ムーンファイブ〉内で使われる隠語ルナリズムの選択画面が表示された。〈月齢11〉を選び指示したとたん、黒ロボは速やかにその場から離れた。
「何をしたの?」
「ボディーガードだ。月務ではないと指示しただけだ」
正直、説明されても未月の目には黒ロボに特別な指示を出したようには写らない。
「やっぱり、特別な人なのね。美しい死神さんって」
ツクヨミはその言葉には何も返さず、引き続き選択画面を操作して球体の車を地下から呼びつけていた。
五分も待たずに球体の車が現れた。
ほぼ同時に左右の扉が開いた。
どちらも運転席であり助手席のため、乗る場所を選ぶ必要はなかったが、ツクヨミが先に右側の座席に乗り込んだ。
前方には、砂色の月面と深い夜にはさまれた月の塔が異彩を放っている。
ツクヨミが運転するあいだ、未月は窓に映る自分の姿を覗き込みながら、自らの思いと決意を打ち明けはじめた。
「予知夢であなたが出てきたのは本当なんだけど、実は月に一回、お墓参りに行ってるんだよね。〈真夜中〉に、ひとり、またひとりと月神が月遊女をさらっていく。だから、その日は絶対に避けて……。あなたは月遊女に関してどれくらいの知識を持っているのかわからないけど、デビューするまで一年から五年くらいかかるの。あたいは一年でデビュー、歳下の麗月は異例の半年という驚異のスピードで。もうびっくりしたわよ。こりゃ、あたしが月楼館のお払い箱になる日も近いかなっ。でも、それ以上に別れが早いのかなって。月遊女はデビューして二年で消えてしまう……月の塔へ連れていかれない場合でもね」
「なんでだ?」
ツクヨミは、彼女に目を向けることなく尋ねた。
「理由はわからない。でも、私の推論では重力の舞〈みちかけ〉が原因だと思う。あれは、ただの舞踊ではない。客人、主に高貴な身分の月人たちに、目には見えないけれど確実に力となるウェーブを送っているのよ。でも、そのたびに遊女の体内にある何かが削り取られていってる……。そうとでも考えないと、月遊女だけが短命なんて不可解すぎる……」
未月は、下唇をきゅっと噛んだ。
白い手は拳となって悔しさをにじませていた。
「あたいのためなの。もう、誰も失いたくない……」
ツクヨミは、運転席から未月の横顔をふいに見た。
「なに?」
「敢えて訊くが、おまえはデビューして何年目になる?」
「……結構失礼なことを訊くのね? でも、鋭いわ。そう、あたいは大幅にタイムリミットを過ぎてる……。れっきとした月人ではないせいね」
ツクヨミは、切れ長の瞳をカッと見開いた。
「れっきとした月人ではない?」
「えっと……父は二流月面師、母は星雲出身の渡り人よ。渡り人、知ってるでしょう? 公には星座になれなかった女たちがしかたなく就く職だと言われてるけど、実際は、星と星のあいだで取引された女たちの仕事よ。惑星間の接待を担うっていえば聞こえはいいけど、要するに娼婦のことよ」
一見、悲観的に聞こえるが、まどろっこしい言い方をするのは自分の母の生きざまを軽蔑されたくないという本音ゆえだとわかった。
「取引しよう」
「え?」
唐突な態度に、未月は面食らった。
「急になんで?」
ツクヨミは、唇の片端をあげた。
「ほら、着くぞ」
気づけば、月の塔を見上げる場所まで来ていた。
塔とは言っても、実に斬新な外観をしていた。
五つの球体が芸術的に浮かんでいる。それらは、〈ムーンファイブ〉に与えられた部屋だった。厳密には、〈ムーンファイブ〉が一部屋ずつ与えられているわけではなく、うちひとつは参謀ツクヨミのものであり、猫型ロボのクーとDrアイの部屋は相部屋となっていた。
五つの部屋は、五角形になるよう配置され、地上から十五メートルほどの高さで浮いていた。それらの球体に囲まれるようにしてさらに高い位置で浮遊する球体の部屋こそが、月神様の〈戯れの間〉だった。かつて、〈真夜中〉の日に何人もの月遊女たちがそこへ運ばれた。
「月神は、すでにここにいるわね」
月の塔周辺には、〈祝祭日〉のはずが、チャンドラマー最高指揮官の指示を受けて持ち場に立つ守兵や、黒ロボでかためられていた。
「〈真夜中〉まであと一日ある」
安心しろ、とまでは言わなかったが、ここへ来るまでのあいだにツクヨミの口調は変化しているように思えた。
球体の車の行く手を塞ぐ一体の黒ロボに、ツクヨミは舌に刻まれた通行印を見せた。月と地球とを繋ぐ〈物語ロード〉を通る際にも有効の通行印だ。
球体の部屋まで移動するあいだ、未月はツクヨミにずっと両目を隠されていた。
ツクヨミの手は月遊女にも負けないほどなめらかだったが、死人のように冷たかった。
彼の部屋まで来ると、その手が未月の顔から離された。
「黒ロボが見ている都合上、ああするしかなかった。どの球体に誰が住んでいるのか、知られるわけにはいかなくてな」
アレキのシャープな目元が、ほんの一瞬、柔和になったのを見逃さなかった。
未月は驚いて目を白黒させたが、その先の思いを言葉にはしなかった。
部屋に入ると、窓ひとつないワンルーム。
未月には、ツクヨミの部屋は何もかもが新鮮に映った。
入って壁右半分に、ツクヨミの身長くらいありそうな長い魔法の杖にも似たステッキと、月の満ち欠け―――ではなく、地球の満ち欠けの写真が秩序正しく並んで掛けられていた。
左半分には、見覚えのある写真が一枚。
「これって……」
「やはり、渡り人だと言ったおまえの母親の故郷は」
ツクヨミが言いかけたところで、ブザーが鳴った。
「誰だ!」
張り上げた声のあと、扉は勝手に開かれた。