2、とある夫婦の失踪
文字数 3,596文字
夫婦は、立入禁止区域とされている竹林からほど近い古民家に住み始めた。
なぜ、こんなにも不便で何もない田舎に住むことを決意したのか?
村役場で村人たちに囲まれた夫婦は質問攻めにあった。
「世界で一番、月が美しく見られる場所だと聞いたからです」
夫婦は口をそろえて答えた。
粋な返答にも思えたが、村人たちはその言葉を耳にするやいなや露骨に表情を曇らせた。
外から来たふたりが憧れる“月”と、村に古くから伝わる“月”の伝承とでは、そのイメージに大きな隔たりがある。
「老婆心ながら訊くけどさ、子どもを作る気はあんのかい?」
ナイーブな質問にも、夫婦は顔を見合わせてから明るく頷いた。
「じゃあ、新しくできた婦人科についても下調べ済みってことかい?」
別の老婆が口を挟んだ。
「最初は驚きましたが、はい」
新妻に次いで、新夫も答える。
「確かに一風変わった病院ではありますが、自然が見守る中で出産すると、大らかな子に育ちそうで良いかなと僕たちは思っています」
「雨降ったらさ、ザバーっとあんたら濡れちまうんだよ?」
「一種の洗礼だと思えば、怖くありません」
肝が据わった若い夫婦を歓迎しない理由はなかった。
皆が自宅で採れた農作物を持ち寄り、その夜は盛大な歓迎会が催された。
若い夫婦が老村に来て一年が経過した。
十五夜のお月様を拝むこの日を、ふたりは心待ちにしていた。
農作業を終えたあと、老村の慣習に倣(なら)って三色団子を作り、縁側で月見の準備を始めた。クレーターまでハッキリと見える満月が若い夫婦を虜にした。
「今日はいっそう、妖しげな輝きだな」
「そうね、あなた」
「何か起きても不思議ではないな……」
「どういうこと?」
夫は、妻の大きく膨らんだ腹部を肌着の上からさすった。
「ここでポーンと生まれてきたりして、な」
「もう、あなたったら」
そのとき、夫婦の和やかな会話を一瞬にしてかき消すような突風が吹いた。
いや、ただの突風ではない。
屋根が、古い外壁が、カタカタと揺れだした。
周囲の気温がぐっと下がり、台風でもきたのかと夫婦は斜に構えた。
直後、シャリシャリズドーンと凄まじい音を立てて庭に雷が落ちた。
一瞬にして辺りは闇に包まれた。
青くなった夫が妻の手を掴もうとしたが、眼前に何かの気配を感じた。圧倒的な何かを。
ヒューーーーヒューーーー
独特の吐く息。
目と鼻の先に髪の長い見知らぬ女はいた。
独つ目に見えたが、違う。
足元まで届きそうなほど長い漆黒の髪で左目が隠れているだけだった。
右のまなじりを吊り上げ、鋭利な前歯を光らせた。
頭部をまるごと齧られそうになったその瞬間、夫はイチかバチかで近くにあった鉢植えを投げつけた。
しかし、植木鉢は化け物の身体に到達前に中空で割れた。
破片が飛び散り、夫の左肩に跳ね返った一辺が突き刺さった。
痛みを感じたが、恐怖の方が勝っていた。
化け物は大きく裂けた口を大きく開けながら、今度は妻の方へ向かった。
「おまえは逃げろ!!」
夫は叫んだが、妻は気が動転してその場でつまずき転倒してしまった。
膨れたお腹をかばいながら起き上がろうしたが、ゆらゆらと動くその髪の長い化け物が勢いよく襲いかかった。
妻の右肩は噛み千切られ、大量の血が地面を染めた。
それだけではない。
彼女のへその穴に化け物が入り込んだ一瞬を見逃さなかった。
妻の絶叫が響き渡る。
夫もまた失神寸前だったが、とにかく庭の物置まで走った。
運良くすぐ手前に斧があった。
右手で斧を握りしめ、再びへその穴から出てきた化け物めがけて死ぬ気で斬りかかった。
まったく手ごたえはなく、冷たいものが首筋にあたる感触だけした。
自分も終わりだと諦めかけたとき、化け物は大気中に溶けて消えた。
「まだだ、まだ足りない」
その去り際に聞こえた化け物の声は、秋の冷風をさらに凍らせるようだった。
深夜、夫婦は村に新しくできた婦人科病院に運ばれた。
天井のない病院だったので、妻は終始暗闇に慄いていた。
いつまた物陰から髪の長い化け物が現れるか、気が気ではないのだ。
手術は朝までかかったが、先に手当てを終えた夫が妻のそばを離れなかった。
翌朝、医師は夫婦に残酷な一言を告げた。
「残念ながら、お腹の子供は……」
そのショックで妻は気絶してしまった。
夫も脱力したが、「子供は、なんなんですか?」と食い下がった。
「妙な話ですが……お腹に子供がいないのです」
「そんな話、信じられますか? 生きてるか死んでるか、それだけでしょう!」
夫は、怒りの矛先を完全に医師にぶつけていた。
しかし、医師は譲らなかった。
「こんなケースは、私も生まれて初めてです」
瞬間、妻のへその穴に化け物がすっと入っていたことを思い出す。
しかしそれは医師にも告げなかった。
退院後、夫婦を元気づけようと村の人たちが手土産を用意して二人の家を訪れると、空き巣に入られたような後があった。
ドアも空いていたので、夫婦の名前を交互に叫びながら入ったものの、ふたりの姿はどこにもなかった。
連日、若い夫婦の捜索が続いた。
室内に荒らされた形跡はあったものの、貴重品はすべて残されていた。
ものものしく捜査班が出入りする様子を見ながら、村人たちはあれこれと噂を立てる。
少し前に金縛りにあってパニックを起こし、病院に運ばれたらしいよ。
入院中にお腹の子が亡くなったとか? それで気が変になって、夫婦で心中したんじゃないのかい?
田舎生活に嫌気がさして家を捨てて出て行っただけじゃなくて?
もしかしたら、外で罪を犯して逃亡中の身だったかもしれないよ。
わざわざ不気味な竹林のそばに越してきたんだ。宗教絡みじゃないか?
しばらくのあいだは、オカルト的な見方が主流となった。
「あの夫婦は月に対して異常にこだわりを持ってたから、きっと月に食われたんだよ」
「いわゆる、神隠し?」
「まさか!」
しかし、そんなオカルト話を笑い飛ばすことができたのは、初めのうちだけだった。
若い夫婦の一件が風化する前に、村人たちの心を翻弄させる出来事がまた新たに起こったのだ。
その日も、御年七十七歳の村長は、我が子同然の愛犬と散歩していた。
途中リードがはずれて、村から1キロほど離れた竹林まで逃げ込んでしまった。
そこは危険区域とされる竹林。
鬱蒼とした竹林の中は、どことなく空気が悪く、ひどく寒く感じられた。
その証拠に、愛犬を探す村長の体調もみるみるうちに悪化していくのがわかった。
ふと、視線の先に夢遊病のごとく徘徊する老夫婦がいたので声をかけた。
「すいません! この辺りに黒い中型犬を見かけませんでしたか?」
老夫婦は、一瞬、振り返りはするものの虚ろな目をしたまま沈黙を貫いていた。
それどころか、村長が話し終える前にふたり揃って進行先を変えてしまった。
その後も老夫婦は、ぶつぶつと呟きながら歩き進み、竹林の奥地へと消えてしまったという。
後日、村長は愛犬を一刻も早く探して欲しいと娘婿に懇願した。
村長の娘婿は警察官なのだ。
「お義父さんが、大切にされていた柴犬のムーンですね。ところで、その時に目撃したという老夫婦の容姿を覚えていますか?」
村長は、何故か自分でも信じられないほど老夫婦の外見の特徴を仔細に把握していた。
その情報をもとに描かれた絵を見て村長は、
「まさにこんな感じぢゃよ!」
と、拳で手のひらをポンと叩いた。
その時、隣にいたベテラン警察官が奇妙なことを口にした。
「目の位置や、まぶたの上のホクロからして、一ヵ月前に行方不明になった若い夫婦じゃないか……」
初めは冗談半分に聞いていた警察職員たちだったが、情報が整理されるにつれ、その事実を疑う余地がなくなるにつれ、彼らの顔は凍りついていった。ベテラン警察官の目にかかれば、たとえ整形していたとしても見破れるという。若い夫婦と親交のあった近隣住人に絵を見せても、やはり同じ反応だった。
村長の愛犬の死骸が見つかったのは、それから半月後のこと。
首元に鋭い歯型が残っていたので、一見、狼やクマに襲われたのではないかと推測したが、ベテラン警察官はここでも鋭い観察眼を披露させた。
「この歯型は、間違いなく人間ですね」
「人?」
――愛犬が人に噛まれて殺された。
仮説に過ぎなかったが、たちまちその珍事件は村中に広まった。