【地球・現在】〈顔のない女〉
文字数 2,361文字
それまで、アーモンドを口にしながら読書に熱中していたサンドライトも気になって書物を閉じた。
いや、彼の読書を妨げたのはそれだけではない。
車内を閉め切っていたカーテンを開けると、そこは旧市街だった。それこそアーモンド色の塗料がメインの建物が軒を連ねていた。
建物と建物との間に架かっている虹を指して、サンドライトは声を昂らせた。
「アレキ、あの虹、妙ではないか?」
サンドライトの異様な言葉にアレキは馬車を止めた。
「虹が、どうかされましたか?」
「八色に見えるんだ。紫、藍、青、緑、黄、橙、赤、そしてもう一色……」
何色と表現するのが正しいのか、一瞬ためらったが、誰かが耳元で答えを囁いた。
「〈神の色〉……」
流れゆく景色の中で誇らしげに空に架かった虹。
「なぁ、アレキ」
サンドライトは、細いアゴを指先でなぞりながら眼光を鋭くさせた。
「もしかすると」
やや上擦った声が出た。
乾いた下唇を舌で舐める。
間を置いてから、改めてサンドライトは欲深い言葉を口にした。
「この私が月神になる日も近いかもしれない」
アレキは、態勢を戻して前方を見た。
「そうですね、坊ちゃん」
目じりのシワを深くして相槌を打つアレキ。いつもと声の調子とはどこか違うように聞こえたが、すぐにそんな違和感も消えてしまうほどにサンドライトは興奮していた。
いつの間にか辺りは真闇で、どこまでも続く草原の海原を馬は休むことなく駆けた。馬同様にに、ふたりもまた目的地まで一睡もしなかった。
景色が一変したのは、それから一時間弱経ってからのこと。
「足元にはお気を付けください、坊ちゃん。落ちれば即死ですからね」
執事アレキは後部座席の扉を開け、右腕を広げながら外の世界に誘導した。
明らかに空気が薄く感じられた。
行き止まりになっている道路のはるか下には、緩やかな川が流れている。十数メートル先の岩場からは灰色の煙が立ち上っていた。敵か味方か、周囲には大自然が広がっていた。
人工的な建物も、人の気配もない。幻獣が姿を見せても驚かないだろう。
「普通の人間なら、こんなところに連れて来られたら、絶望しかないのだろう」
その言葉に共鳴するかのように馬が後ろで嘶いた。
「私が月神なら、ここを飛び越えてみろと言うわけか?」
サンドライトは、目線よりも高い位置で揺れる煙を見つめる。
「ですが、坊ちゃんはまだ薔薇の貴公子であります」
その返しに、サンドライトは声を立てて笑った。
静寂の中、足元の小さな石が川底へと転がっていく。
「高い場所も暗い場所も苦手ではない。美しいものも、私がいれば十分だ。しかし、あれに乗り換えろと言うのか……アレキ」
「わたくしがお伝えしなくてもおわかりになりましたか」
よく見ると、すぐ横の崖には脱線事故を引き起こしたとしか思えない列車があった。車体は大きく傾き、扉も歪んで半開きになっている。
ふと、頭上に赤い光が見えた。
流れ星にしては動きが不自然だった。二センチ、五センチ、十センチ。ちょうど顔を見せていた月の方角へと、赤い光は猛スピードで移動している。
距離は遠くても、その赤い光を見たサンドライトには不思議と懐かしさにも似た感情が沸き上がっていた。
「坊ちゃん?」
夜空を見上げたままのサンドライトはその声で我に返る。
「朝陽とともに、出発いたしますよ」
「ああ」
その場で待機すること二時間半。
馬車で眠っていたサンドライトを目覚めさせたのは、意外な人物だった。
「発車、まもなく。貴族様」
女の淡々とした声がして、サンドライトは馬車から素早く降りた。
そこには、白い着物姿の〈顔のない女〉が立っていた。
「乗車、急いで。貴族様」
声は確かに女のものだったが、その者の首には当たり前のものが乗っかっていなかった。
ごくりと唾を飲み込む。
アレキに言わせると、このモノレールは死者を乗せないと発車しないのだと言う。
「いったい、どんなからくりなんだ……」
アレキはサンドライトの耳に顔を寄せると、低い声で答えた。
「顔のない死者たちは、生きている者から『命』を奪うことはできません。どうぞご安心ください」
それを知ってもなおサンドライトは執事アレキのように平然としてはいられなかった。
気が紛れるまで長い金色の髪を整えながら、白い着物姿の〈顔のない女〉のうしろをついて歩いた。
傾いたモノレールは三両で、一番うしろの列車だけ半分切断されていた。乗車できる場所と言えばそこしか見当たらなかった。
〈顔のない女〉は、軽い足取りでさっさと運転席へと移った。
三人乗り込むと、それまで傾いていたモノレールが起き上がった。
「移動。三両目から二両目に。貴族様」
モノレールを起こしたのは間違いなく〈顔のない女〉だった。
サンドライトは素直にその指示に従った。
直後、三両目と二両目は引き離され、二両目の後ろの扉が重たい音を立てて閉じた。
「出発」
〈顔のない女〉は、相も変わらず抑揚のない声で言った。
窓から外を見ると、モノレールは宙を浮いていた……わけではなく、虹の上を進んでいた。
虹のレール。
やはり地上で見たときと同じく、サンドライトの目には八色目も煌びやかに映っていた。
何に怯えていたのかはわからないが、サンドライトの指が小刻みに震えている。
すぐに執事アレキは、サンドライトの手を取り、美しい手の甲にそっと口づけをした。
「〈ハブパーク〉が、ユートピアならいいのだが……」
サンドライトは心から願った。