【月・過去】侵入者は少年?
文字数 8,025文字
ホテル〈バオバブの樹〉は、〈祝祭日〉とあって満室だったが、そこは上級職。身分の低い客を即刻退室させるよう命じた。しかし、男は謝礼として百の月貨を与えることを忘れなかった。無駄な優しさは自分の立ち位置を危うくさせると〈ムーンファイブ〉たちは口を酸っぱくして言っていたが、ツクヨミには独自のポリシーがあった。
二十メートルはある太い幹の中をエレベーターは上昇した。
ホテルのオーナーは、ふたりを好奇の目で見ていたが、部屋に案内した後に月貨をワゴンで受け取ると、意気揚々と立ち去った。
室内は、赤や黄色、青に緑と実にポップな色合いに包まれていた。ベッドやテーブルだけでなく、キッチンや子供部屋までそろっている。
「おまえのおかげで〈祝祭日〉が台無しだ。手短に済ませたい。取引とは?」
月遊女の未月は、扉の前で立ち往生している参謀に身体を向けながらベッドに浅く腰かけた。
「美しい死神さん、明日も〈祝祭日〉。慌てない慌てない」
「俺は死神じゃない」
その呼び名がよほど気に食わないのか、ツクヨミは疲れたようにため息を落とした。
「妹が、月の塔へ命じられた」
月神様の命令を麗月に告げたのはツクヨミだ。
「命令は絶対だ。交渉の余地はない」
男はその視線を払うようにぴしゃりと言い放った。
未月は初めて恨めしい表情を見せた。
抗議の視線がツクヨミをとらえる。
「月神様の命令には逆らえないことも、逆らってきた月人たちの顛末も、あたいは知っている。だから、その命令を取り下げて欲しいなんて野暮なことは言わないよ。ただ、妹の麗月よりも先にあたいを月の塔へ連れて行って欲しいんだよ」
「それも不可能だ。どんな慈悲も与えるつもりはない」
あくまでも聞く耳を持たないツクヨミだったが、それでも未月は怯まなかった。
「あなたの悩みを解決してあげると言っても?」
「……悩み? 月遊女の分際で俺の悩みがわかるのか? 面白い。言ってみろ」
扉から離れ、一歩、また一歩と未月のもとへ向かう。
ツクヨミの脛と未月の膝とが触れるほど接近したところで、女は明言した。
「あなたに敵視、いえ、殺意を抱いている者を消してあげるよ」
その力強い言葉は、鋭利な刃物の如くツクヨミの胸に突き刺さった。
ツクヨミはカッと目を見開くと、月遊女のアゴを持ち上げた。
どす黒い感情に燃え上がるその瞳は、月遊女の身体を震えさせた。
「それも予知夢で知ったか?」
「いーえ。あたいの月面師から聞いたんだよ」
その言葉を聞いて、あの奇妙な仮面を身に着けた胡散臭い男を思い出すまでに時間はかからなかった。
恨みを買われるとすれば、〈ムーンファイブ〉の中にしかいないだろう。
権勢欲、支配欲の強い〈大鮫男〉のカマルか、けっして他者を認めようとしない皮肉屋の〈出っ歯〉のサルか、はたまた、月神様に対する狂信的な愛を示す〈乙女坊主〉チャンドラマーによる嫉妬か、あるいは……。
「ひとつ訂正してもらう。それは俺の悩みなんかではなく、その男の悩みに過ぎない」
ツクヨミは月遊女の細いアゴを力強く握った。
女の顔は苦痛に歪んだが、どことなく誇らしげでもあった。
「誰から殺意を抱かれていても、あなたの受け止め方は同じなんだね?」
そのときだった。
ホテル〈バオバブの樹〉が大きく揺れだした。
ツクヨミの視界に、〈月齢0〉の文字が表示された。〈ムーンファイブ〉内での隠語〈ルナリズム〉で、〈月齢0〉は『緊急招集』を意味した。
未月がツクヨミの異変に気づき、「今夜の取引、忘れないでよ!」と発したときにはすでに彼の姿は室内から消えていた。
五十メートル以上の高さを誇る〈シームーン〉は、月の塔の周りを一定の速度で警備する移動式建物だ。〈シームーン〉の半分は人工的に作った海に浸かっており、そこはタールのようにどろっとしていた。
〈シームーン〉の各フロアでは、慌ただしく部屋と部屋とを行き来するロボ兵の姿が目につくが、最上階の警備が特に強固だった。
「暑いな、この部屋は」
初めに〈シームーン〉最上階のセミナールームに姿を見せた男は、入り口付近の壁にはめ込まれた室内機の操作パネルを叩くように押した。もともと一重ではあったが、睨むような目つきがより人相を悪く見せた。
彼は、名前をサルと言う。
中年で〈出っ歯〉だったが、自分の容姿についてコンプレックスは持っていなかった。
彼は主に人材の育成と、罪人の処遇を決める司法官を兼務していた。そのためか、人を見下したり、同僚に対しても命令口調になることが多く、〈ムーンファイブ〉の間でいつも軋轢を生む原因となっていた。
「まーた、振られましたか」
サルを飲み込むように、〈オオイカヅチザメ〉の兜を被った男のシルエットが前方のスクリーンに映し出された。
実はサルよりも先に、〈物語ロード〉の総指揮官カマルがセミナールームに入っていた。
ステージ上のイスをくるくる回転させて落ち着きのないカマルに対し、サルはわざとらしく咳ばらいをした。
「また振られたとは、どういう意味ですかな、物語総指揮官殿」
カマルはニッと白い歯を見せた。
「言葉通りですよ。司法官様が婚活をしているのは周知の事実ですからね。細い首には蝶ネクタイ、上下は赤と白のド派手なスーツ。また懲りずにお見合いですか? 聞くところによれば、通算八十二人目を更新したとか? ご機嫌斜めなところから推察するに、今日で八十三人目に到達ですかな?」
〈出っ歯〉サルは、喉まで出かかっていた言葉を必死に抑制した。
カマルの挑発に乗っても何一つプラスにはならないことを、長年のいがみ合いから学んでいた。
しかし、カマルはさらに〈出っ歯〉サルを煽る。
「女性たちにも、選ぶ権利はありますからね? まばゆい鉱石をプレゼントされたとしても、毎晩、突き合わせる顔が泥の石ともなると、ハッハッハッ」
イスを引いて座ろうとした〈出っ歯〉サルは、「この青二才めが!」と毒づいた。
その後、双子の白黒猫型ロボット、Drアイとクーが対照的に仲睦まじく入ってきた。険悪なムードが立ち込めていたが、全長百センチのロボ同士お構いなしだった。
続いて、〈乙女坊主〉チャンドラマーが姿を見せるなり、月神様が座られる場所に香ばしいものを置いた。〈祝祭日〉の翌日に渡す予定の手作りマフィンだった。
〈ムーンファイブ〉には見慣れた光景だったが、相変わらず〈大鮫男〉は冷然とした目で、〈出っ歯〉サルは軽蔑的な目でチャンドラマーに視線を送った。
いよいよ、ツクヨミと共に月神様が現れた。
全員がいっせいに立ち上がって低頭した。
顔を上げると、〈乙女坊主〉だけが、月神様の長く白い頭髪に顔を埋めたいと妄想し、甘ったるい眼差しを前方に向けていた。
月神様を囲うようにして皆は着席した。
開口一番、月神様は不吉な言葉を告げた。
「〈祝祭日〉に呼びつけて申し訳ないが、二点、報告と確認したいことがある。まず、十九分前に起こった地震だが、あれは月の塔の地下に存在する〈ブラックホール〉の可能性が高い」
ツクヨミは、スクリーンに月の塔の構造が一目でわかる資料を映し出した。
「〈ブラックホール〉の中には、卿らも知っているように、時間が止まったままの部屋がある。そこには、一級品の物語を書き残してきた亡き創造主たちの〈脳味噌〉が集結し、今もその崇高なお姿で、眠ることなく新たな物語を盲目的に生みだそうとしている。何年かかるかはわからないが……」
このトップシークレットは、〈ムーンファイブ〉と言えども口外すれば〈葬除人〉によって、いや月神様によって処罰されるだろう。
「脳味噌なのに、脳味噌なのに、新たな物語を生み出そうとしてるって、何度聞いても度肝を抜かれるじゃじゃあ!」
惑星言語を月の言葉に翻訳する超翻訳者のクーの好奇心をくすぐる話だったようで、
普段からとにかく早口で饒舌の黒猫型ロボのクーではあったが、黒目まで見開いて大きなリアクションを見せた。
「翻訳者としては、肉体が滅びてもなお創作を続ける賢者たちの脳味噌の中身ごと、翻訳したいじゃじゃあ! どろどろの文字が、どろどろの言葉が、どろどろの表現の洪水じゃじゃあ!」
「クー、落ち着くニャウ」
横から白猫型ロボのDrアイが、色彩豊かな甘いべっ鉱石をザラザラの舌で舐めながら言った。白猫型ロボのDrアイは、どんな時も常に口に何か物を入れていた。
「つまり、創造主たちの魂に異変が起きたということでしょうか?」
今度は、〈乙女坊主〉チャンドラマーが質問を述べた。
すると、月神様の表情がさっと曇った。
「……そうも言いきれない。因みに、ここ最近、地球から〈物語ロード〉を伝って誰かが侵入してきた形跡はあったか?」
月神様がすべてを言い終える前に、警備全般を指揮するチャンドラマーはごつごつとした手で持参したタブレットでその答えを探していた。
「残念ですが、地球からの逆流報告はありません。よって、回収された〈物語の種〉にまぎれこんだ可能性は低いと思われます……」
「先頃、厳戒態勢を敷いたばかりですしなぁ」
〈出っ歯〉サルも、腕を組みながらため息交じりにつぶやいた。
「そういえば……。月神様、例の繊月(せんげつ)のしわざとは考えられませぬか?」
サルが心当たりのある人物を挙げると、〈オオイカヅチザメ〉の兜を被った総指揮官カマルが頭ごなしに否定した。
「せんげつ?」
「おやおや、月のいにしえ言葉を知りませんか? 子供という意味ですよ。誰かさんのように、精神年齢が低いという意味ではなく」
サルは、ここぞとばかりミーティング前の嫌味を打ち返すように哄笑した。
〈大鮫男〉は馬鹿にされたことに対して青筋を立てた。
「貴様、この俺を侮辱したな!」
「いいえいいえ。これは教養ですよ、鮫……、いや、物語総指揮官殿」
サルは皮肉たっぷりに返す。
「例の子供が怪しい? あんなのは、ただのまぐれに過ぎん! 地球の子供ひとりの手で月神様が築いたこの月が脅かされるとでも思っているのか? それこそ、月神様に対する侮辱だろ! この〈出っ歯〉野郎が!」
「度が過ぎている! 〈大鮫男〉のくせに、ぬけぬけと!」
ふたりのやりとりは、完全に売り言葉に買い言葉だった。
サルの意見に茶々を入れるカマルを窘めるのは、いつもツクヨミの役割だった。
しかしこの日は、危急存亡の秋にもかかわらず緊張感のないサルとカマルにやきもきしたのか、月神様が自ら叱咤した。
「おまえたちは、それでも〈ムーンファイブ〉の一員か? その自覚がないならば、他の者にとっては大迷惑だ。即刻立ち去るか、残って人一倍頭を使え」
吐き捨てるように月神様は言った。
「良いか? 〈ブラックホール〉の異変は、我々の月の平和や秩序を乱しかねない。卿らも肝に銘じておけ」
サルとカマルは、互いにそっぽを向いたが、どちらもイスは引かなかった。
「だが……私もサルと同じく、あの子供から不穏なものを強く感じる」
「月神様。ちょっとよろしいでしょうか」
ツクヨミは、スクリーンに映し出していたものを別の資料に切り替えながら言った。
「どうした?」
「クーもアイも、例の事件勃発後に配属されましたね。ここらで、彼らにも事件の全容を話した方がよろしいのでは?」
ツクヨミの言葉に、黒猫型ロボが頭部を素早く三百六十度回転させた。
「有能な双子の猫型ロボ。ツクヨミの言う通り、彼らにも知る権利がありますでしょう。低能な〈大鮫男〉よりも、ずーっと」
大袈裟に身振りを交え、サルはカマルを執拗に見ながら言った。
カマルは右手で頬杖を突いて俯き、周囲に聞こえるように太い息を落とした。
月神様はふたりのいがみ合いは見て見ぬふりで、
「話をしてやってくれ、ツク」
と説明を促した。
「かしこまりました。地球で言う400年間の間に、月ではLTPが五百四十件も起こったことが記録に残っています」
「Lunar Transient Phenomenaんじゃじゃあ?」
超翻訳者のクーは、髭を揺らしながら流暢に発音した。
「その通り」
ツクヨミは、敬意を持ってうなずく。
「1866年の4月。ちょうど夜空には、春を代表する牛飼い座の一等星アルクトゥルスが輝いていました」
解説が始まると、室内の照明はすべて消えて天井に立体的なプラネタリウムが映し出された。
「皆も、当然知っているであろう。その、牛飼い座から東へ視線を移すと、ヘビ座と鳥かご座に出くわす。この鳥かご座は、地球の星座早見表には存在しない星座です。しかし、地球でただひとり、わずか五歳の少年がその星座の存在を認めました。いや、それだけならともかく、鳥かご座に囚われている女とコンタクトを取ったのです」
黒猫型ロボのクーは、両耳をピンと立てて瞳を黒目がちに丸くさせた。
「地球にも、そんな凄い星読みがいるじゃじゃあ?」
一方、白猫ロボのDrアイは、鼻にしわを寄せて顔を傾けながら試食に無我夢中の様子だった。アイに関してはいつものことなので誰も注意することはなかった。だが、タイミングの悪いことに、この日はアイ自ら発明した猫月草の試食ともあってツクヨミの話はあくまでも「ついで」の態となった。
「鳥かご座の女は、月から追放された月遊女だったな?」
〈大鮫男〉は上半身を乗り出し、浅黒い手で立体プラネタリウムに触れながらつぶやく。
「どこまでおつむが弱いんですか? 月遊女ではなく、月獣のセレーネですよ、まったく……部下が優秀だから総指揮官なんてやれているんでしょうな」
恥をかかされたカマルだったが、ここへきてさすがに自分の不勉強さを認めざるを得なかった。右手拳を強く握ったまま不本意ながらも着席する。幸い、〈オオイカヅチザメ〉の兜の内側で悔しさのあまり下唇を噛みちぎり出血していたことは、誰の目にも留まることはなかった。
〈乙女坊主〉チャンドラマーだけが、終始、月神様から目を離さずにいた。
それはそれで異様な光景ではあったが、月神様はその熱いまなざしに応えるよう、彼の目を見ながら月獣セレーネについて補足した。
「月獣セレーネは、月の裏側で誕生した。我々の想像を絶する生態だ。年に一度だけ獣の姿に変わる。確かに息をのむほどの美しさではあったが、セレーネは腐爛した死体の脳味噌をエネルギー源とした」
白猫ロボのDrアイの忙しない口の動きが止まった。
難しい手術も、新薬や最新の医療器具の発明も、時に難病すら進行を遅らせる名医でもある。ゆえに、職業柄、臓器の話題には興味があった。
「脳は知られることこそ少ないニャウが、30%を脂肪分が占め、とても美味な部位ニャウ」
隣でクーが、それを聞いてここへ来る前に口の中に入れたものをリバースした。
「まぁ、倫理的な問題を除くとして、死者の脳味噌ならば、さほっど脅威にはならないだろうと考えたが、プロセラルム盆地の大半のクレーター墓地が荒らされただけでなく、物語の創造主たちの〈脳味噌〉のありかにまで嗅ぎつけてきたのだ。野放しにすれば、月の摂理が崩壊しかねない。よって、私は月から月獣セレーネを永久追放したのだ」
「まとめてくれるね、ツク」
月神様は、残りの説明を参謀に託すと、腕を組んで目を閉じた。
「つまり、月神様が作られた鳥かご座に月獣セレーネを監禁したのです。外界との接触はむろん不可能であり、今もなお、限りなく死に近い状態ですが……一縷の望みにかけて断続的に心の声を発信していたのです。我々に探知されないよう。そして、千載一遇のチャンスはやってきた。〈物語〉、それも相当古い書物を通して必死の思いで発信したメッセージを少年が拾ったのです」
「名前は、なんと言うじゃじゃあ?」
黒猫型ロボのクーが尋ねたときだった。
セミナールームの扉が開いて、間の抜けた声がした。
「ミナサマミナサマッ! ケータリングサービスご利用、誠にありがとうございますッ!」
一度会えば忘れることはない、強烈なインパクトを残す仮面の男がとつじょ現れた。
「あたくし、月楼館の主であり、上級月面師のエト、ラァン、ジュ! と申します」
そう、月楼館の主であり姉妹の引受人でもある、上級月面師のエトランジュだ。
気づけば会議時間は予定より押していた。
場の空気を一瞬にして変えた上級月面師に、ツクヨミ以外の皆はすっかり集中力が途絶えた様子だった。
食べ物に目がないアイは、クーの腕を引っ張って一目散に隣室の会食の間へと移動した。カマルは、面目丸つぶれのミーティングだったこともあり、自室に戻って大人しく仕事をすることにした。サルは、カマルが会食の間に来ないことを確かめると、エトランジュにメニューの内容を尋ねた。
チャンドラマーは、マフィンを持ち帰った月神様の後を追ってそのままどこかへ消えてしまった。
ひとり残されたセミナールームで、ツクヨミは月遊女の未月に言われたことを思い出した。
カマル、チャンドラマー、サル、クー、アイ。
それぞれの座席に視線を移し、〈ムーンファイブ〉の残像を物憂げに見つめる。
祝祭日にもかかわらず、月に迫り食う不穏な足音。
「オヤオヤ。ツクヨミ様は、会食の間に移動されないんですかッ?」
ひとり記憶の深淵を辿ろうとしたが、意外な人物に妨害された。まったく気配を感じなかったこともあり、ツクヨミはぎょっとした。
反射的に道化師姿の男がこちらへ歩み寄って来るまで、機材にロックがかかっているかどうか相手の見えないところで二度確認し、素早くパスワードも変えた。
「ムフフ」
不敵な笑みを浮かべながら、エトランジュはツクヨミの真横まで来た。
見る者を不安にさせる仮面。
間近で見ると、無意識に肩に力が入った。
「あたくしを、避けようとしていますねッ? んー、ナンセンスナンセンス」
ふと、エトランジュの左眼の瞳孔が大きくなったり小さくなったりした。その仕草と同時に、ギチギチとゼンマイ仕掛けの音がした。
ツクヨミは、エトランジュに対して警戒心を強めた。
「一緒に、あたくしと深い話をしましょーよっ! ムフフ」
「俺は会食の間に急ぐ。他の者に聞いてもらってくれ」
とっさに嫌な予感がして、ツクヨミはエトランジュのもとから足早に離れようとした。
ところが、すれ違いざまにエトランジュは耳元で聞き捨てならない言葉を囁いてきた。
「古書を通して介入してきた稀有な少年ッ。あたくしとしても、とぉてぇも、気になりますッ?」
「貴様、話を聞いていたのか?」
燕尾服にマントのエトランジュの胸ぐらを掴みかかり、尋問した。
「おっと、暴力はいけませんねッ! ムフフ」
ツクヨミは、すぐにでも月神様のもとへ突き出そうと考えたが、仮面から覗くエトランジュの赤みを帯びた瞳をまじまじと凝視したのち手を離した。
右目と左目の奥行きが異なっていることを知り、眼前の胡散臭い道化師にはこれ以上かかわらない方が賢明と判断した。
隣室から、エトランジュを呼び声が聞こえてきた。
「サテサテ、宴の席へッ! これにて、失礼いたしますッ!」
ドアが開くと、会食の間からは騒々しい物音や談笑が聞こえてきた。
ツクヨミは、真っ暗なセミナールームにひとり残された。