【×・現在】〈ハブパーク〉の真実
文字数 5,013文字
まもなく上ろうとしている朝陽は、まだらに浮かぶ痣のように不気味な青紫色の雲を照らそうとしていた。
昨夜から、もう一度だけ羅生門へ行こうと決めていた。
これといった決め手はないものの、明るい時間にあの門から見える遠くの景色がずっと気になってしかたなかった。
―――七日後の〈祈りの日〉に、金星への道が示されます
戻ってきたアレキは、確かにそう告げた。
祈りの日。
初めにその言葉を耳にしたのは、夢の中だった。
あれは、アレキの言葉だったのだろうか?
アレキなりに、離れた場所から〈ハブパーク〉までメッセージを伝えてくれたのか。
『我が月神様。赤色偏移には、くれぐれもご注意ください。
あなたの味方には、成りえないのです。
まだ、祈りははじまりません。それまでどうか、ご無事で』
サンドライトは凱旋門へ向かうあいだもずっと考え事をしていた。
夢の言葉を参考にしながら。
あらゆる可能性を想定して。
しかし、もやもやした気持ちを晴らす一手は浮かんでこなかった。
ふと、周囲の景色が一日足らずで激変していることに気づいた。
昨日は確かに半壊しているアパートがあった場所は、毒々しい色の小川にとって代わっていた。草地だったはずの場所には灰をかぶった地蔵が長い列を作って並んでいる。
反対側を見やれば、屋根の上で裸の男女が両目を隠されたまま十字架を模した形の板に何人も張りつけられていた。
<ハブパーク>が、いわゆるユートピアではないことは一目瞭然だった。
思わず目を背けたくなる地獄絵図だった。
とは言え、ひとりでもまだ無色化していない者を見つけだしたいサンドライトにとっては、引き続き〈ハブパーク〉の変化に目を向ける必要があった。
迷わず羅生門まで辿り着けたのは、立ち止まるたびに物陰から指示を出す鶴乃が付いてきたからにほかならない。
そう、鶴乃は戻ってきた。
「なぜ私に力を貸す?」
サンドライトは、路地裏にいた鶴乃の行く手を阻んだ。
鶴乃は胸元で許しを請うように手を組んだ。
「誰に加担している?」
彼女が答えるまでこの場から離れるつもりはなかった。
薄暗い廃墟の壁ギリギリまで鶴乃は後ずさった。
威圧的な態度のサンドライトを前で、ようやく鶴乃は口を開いた。
「貴族様。私の意志は、ないも同然。物語の一部に過ぎない私」
「それでは、いま羅生門へ導いてくれているのは、鶴乃の意志じゃないというのか?」
鶴乃はうつむき、口をつぐんでしまった。
八方塞がりになり、サンドライトは深く吐息をついた。
「ひとまず、道案内を頼む」
鶴乃は、サンドライトの顔色を窺うようにして、路地裏から外に出た。
「羅生門への道は、あちら……」
ギクシャクしながらも、彼女は案内を再開した。
羅生門だけは輪郭をそのままに、燃えるような赤をまとっていた。
昨夜も赤を帯びていたのかはわからないが、やはりここにサンドライトが求めている何かが隠されていると予感する。
ふと、〈ハブパーク〉初日に正面の店で見た顔が足元に転がっていた。
間違いない。
丼に盛られた赤子の頭部を無表情で食していた男だ。
鳥肌が立った。
ここでは、いともたやすく命が醜いものへと変わってしまう現実を、サンドライトは身を持って痛感した。
面識はなかったが、無意識にそこを避けて歩いた。
このぬかるみは、無色化の末に無形化した死体の一部なのかと思うとサンドライトは心底ぞっとした。
羅生門のちょうど真下で、鶴乃と並んで立ち止まった。
雨が降った形跡はなかったが、頭上から雨が滴り落ちてくることに疑問を持った。
が、すぐにそれが門の屋根裏に張り付いていた老婆の唾液だとわかる。
慌てて門を抜けたが、唾液が右肩にべったりとついてしまった。悲惨なことに、饐(す)えた臭いがまとわりついてしまった。サンドライトは、不潔なものがとにかく許せなかった。
とっさにジャボ付きシャツを脱ぎ、汚れた部分を躍起になってこすった。
「まったく、なんでそんな所に隠れているんだ……」
小言を口にしながら屋根裏の老婆を激しく睨む。
ふと、こちらを突き出た目でぎょろりと見下ろしてくる老婆が、無色化の影響を受けてないことに気づいた。
「おまえ、話せるやつだな?」
サンドライトは、シャツの汚れを拭く手を止めてまじまじと老婆の顔を凝視した。
「なぜ、そこにいる? いつ、〈ハブパーク〉に来た?」
老婆は、カサカサの分厚い口をねちょねちょさせながら答えた。
「老村で銀の髪の少年にいたぶられたあと、ここへ来たんじゃ」
予想だにしない一言だった。
驚愕を隠せない。
老村で銀髪と言えば、十中八九スピネルに絞られる。
このやり取りで、ここ〈ハブパーク〉には物語の中に存在した人々が集まることが判明した。
「しかし、こんなジメッとした場所にいつまで潜んでいるつもりだ?」
「ここは、ずっと日陰じゃ」
十分なヒントになると直感したサンドライトは、しばらくのあいだ黙考した。
「ほかに、俺やおまえのように無色化を避けられているやつがどこにいるか知っているか?」
「屋根があるところじゃな」
老婆は痒そうに突き出た目を掻きながら答えた。
サンドライトは、うしろに控えていた鶴乃に疑問をぶつけた。
「紫外線のようなものが有害の可能性はあるか?」
鶴乃は両肘を抱えて怯えた素振りを見せた。
「とにかく、半日かけて屋根のある場所を片っ端から探してみよう」
汚れたシャツも気にならなくなったのか、サンドライトはそれを着て坂を駆け下りた。
その日、無色化していないがまともな会話ができたのは羅生門の老婆だけだったが、無色化一歩手前のヘンゼルとグレーテルという名の子供がふたりと、モンガギュー家のひとり息子だと豪語するロミオという人物にだけは遭遇できた。
四人の共通点は、やはり日陰で待機していたことだった。
夜になっても、彼らはその場から頑なに離れようとはしなかった。この、夜になっても、という点がサンドライトを悩ませた。
「太陽だけが、原因ではないのだろう」
かぼちゃの馬車のドアを開けて、しんと静まり返った〈ハブパーク〉を見渡した。
川辺の近くともあって辺りは特に鬱蒼としていた。
空に目をやると、クレーターがくっきりと見えるほど十三夜の月が白く妖しげに浮かんでいた。サンドライトは、しばらく幻想的な空を見つめていた。
「……これか、これだ!」
叫んだタイミングで、アレキが帰ってきた。
「坊ちゃん。まだ起きていたのですか」
気のせいだろうか、アレキは昨日よりも血色が良く凛として見えた。
「マッサージでもして差し上げましょうか?」
と、初めはのびやかな声で語りかけてきたが、転じてアレキは大袈裟な声をあげた。
「坊ちゃん……左半身が……」
指摘されてサンドライトは我が身を見た。
左手のつま先から、左腕、左肩、左胸、左膝あたりまで、ついさっきまでそこにあった色が失われてしまっていた。
おずおずと見上げるサンドライトをアレキは憐みの目で受け止める。
「アレキ……時間がないようだ。そこで、ひとつ頼みがある。明日の朝までに傘を用意して欲しい」
「傘、ですか? かしこまりました。必ずや探してまいります。ですから、坊ちゃんは安心してお休みください」
とうに心の底から信じられる相手ではなくなっていたが、サンドライトの手を両手で握るアレキの強いまなじりに偽りの文字はないように思えた。
翌日、サンドライトの動きを見計らったように小雨が降った。
鶴乃は、自らの意志で茄子紺の和傘をサンドライトの隣でさす係になった。
三度(みたび)足を運んだ羅生門は相変わらず赤く、この味気ない世界ではひと際目立っていた。その周りに漂う陰鬱とした空気もむろん変わらないが。
高台にある羅生門を抜けて反対側の世界を見下ろす。
サンドライトは、そこから一歩も動かず、チェス駒のように見える人々の流れを俯瞰した。せっかくならば、座禅でも組むと何か開けるのかもしれないが、見るからに不衛生な場所に腰を下ろす気にはなれなかった。
三十分、一時間、その二倍の時間はかかったかもしれない。
精神を統一させて思考した結果、サンドライトはある法則を見いだした。
「わかったぞ!」
一言も不満を口にせずただただそばで傘をさし続けていた鶴乃に、サンドライトは自信に満ちた目を向ける。
「色を保持したままの人は薄暗い場所に、無色化した人は陽の当たる場所にいる。前者は、昼だけでなく夜も動かないところを見ると、紫外線ではなく、もっと有害なものが上空から降り注いでいる可能性が高い。それは、月だ。昼でも月は見える」
急に雲間から太陽が顔を見せた。
「昼間は、太陽の光が月や星の光を打ち消してしまうが、月そのものが消えてしまうわけではない」
薄っすらと空に浮かぶ月を、サンドライトは力強く指さした。
「つまり、無色化する何か有毒なものが月光には含まれているんだ。月神だか月人だか知らないが、彼らの誰かが操っているのだろう。どうだ。この推理、あながち的外れではないだろう、鶴乃?」
意気揚々と、サンドライトは鶴乃の肩に右手を置いた。
鶴乃に顔がなくとも、困惑した様子がうかがえた。
ようやく先が見えてきたこともあり、サンドライトは鶴乃への態度を改めようと思った。
「申し訳ない」
「貴族様。なぜ謝罪……」
鶴乃は、胸元に左手を添えながら言った。
見るからにいじらしい鶴乃を、サンドライトは抱き寄せた。
茄子紺の和傘が足元に落ちる。
「悪かった。情けない話、醜いものばかり見て気が立っていた。自分がどれほど恵まれた環境で育ったのかも、痛感したほどだ。聞いてくれ、鶴乃」
本来、耳がある場所にサンドライトは口を近づけた。
「鶴乃が誰に仕えていようと、私は構わない」
澄んだ囁き声だった。
「貴族様。顔のない身分、私は……」
「いや、私は気づいてしまったのだよ。雨の中、ただ〈ハブパーク〉を見下ろしていたわけではないのだ。自分を見つめ直すことで、導かれた解があることを」
サンドライトは一筋の涙を落とした。
しかし、その泣き顔はどこか清々しく見える。
「私は……いや、ヒスイやスピネルも、父との思い出を含め、正直なところ幼少の頃から
記憶がところどころ曖昧なんだ。その理由を、私はずっと受け止められなかった」
鶴乃は、サンドライトの頬に優しく触れた。
「私を含め、三兄弟は、破綻した物語〈かぐや姫〉の登場人物なのだ。本来ならば、のうのうと生きていることが許されない立場。いや、もしかするとスピネルだけはずっと昔から潜在的に気づいていたのかもしれない。だが、ひとつ疑問は残る。なぜもっと早く我ら三兄弟は回収されなかったのか……」
直後、鶴乃の方からサンドライトをぎゅっと抱きしめた。
眉尻を下げて弱々しい顔をしていたサンドライトは、驚いて目を見開いた。
鶴乃の抱擁は、過酷な運命を受け止めたばかりのサンドライトがバラバラになるのを抑える役目を果たした。
「こんな廃れた場所にもピアノがあれば……いや……」
サンドライトは自嘲気味に言い直した。
「もっと美しいものを見つけだして、鶴乃、キミに贈ろう」
また空から雨が降ってきた。
ムードを盛り立ててくれているふうには思えなかったが、確実に雨はふたりの心の距離を縮めた。
しかし、〈ハブパーク〉はしょせん〈ハブパーク〉だった。
あの不快なカンカンという音が、ロマンチックなひと場面を台無しにした。
顔を上げたサンドライトの目に涙のあとはすでになかった。代わりに生まれた感情は、めらめらとほとばしる情熱。
「だが、ただ回収されて物語の養分になる私ではない。鶴乃、手伝ってくれるね?」
サンドライトは、かぼちゃの馬車で待つアレキのもとには戻らなかった。