【月・過去】新・月神
文字数 3,242文字
最後の力を振り絞って怒鳴ったのはカマルだった。
〈オオイカヅチザメ〉の兜が割れて端正な素顔があらわとなる。
「カマル……この恩は忘れない」
未月の肩を抱き寄せ、部屋を出て来た道を全速力で走った。
一度として振り返らなかったツクヨミとは対照的に、未月は何度でも何度でも振り返った。そのたびにツクヨミから「振り返るな! 女は度胸なんだろ!」と叱咤された。
カマルは、まもなく自分が言語の扉の下に吸い込まれることを理解した。
全身が極度に痺れているため、もはや思うように身動きが取れなかった。
カマルは、清掃ロボの管理をする父親と、〈ムーンファイブ〉の下で働くエリートの母親と、三人の姉の六人家族だった。
あの頃は、まだムーンパーク二号館が存在していたが、流行り病で月人の半数が死に絶えた。月神様は、怒りの顔から涙を流し、病原菌の猛威を食い止めたものの、その涙による洪水で家は流されてしまった。
しばらくは放心状態だった。
しかし、時折、家族みんなで足を運んだ泉へ行って一晩過ごした。
夜のあいだは凍るが、それを過ぎるとまた昼のターンが来る月。その想い出の泉も、凍ったり溶けたりを繰り返していた。
カマルが天涯孤独になってから一年が過ぎた。
命日も当たり前のように泉に行くと、伝説上の生き物とされていた〈オオイカヅチザメ〉が水中から飛び出してきた。
瞬間、この怪魚は家族の生まれ変わりだ。
そう素直に思ったカマルは、素手で〈オオイカヅチザメ〉を仕留めようと飛び込んだ。カマルが抑えつけようとすると激しく抵抗してきたが、足元で息絶えた。
当時は、ひ弱で華奢だったカマルだったが、この一件ですっかり男としての自信をつけた。以来、カマルは〈オオイカヅチザメ〉を兜にして被ることを決意。
その後も、カマルには不思議な出会いが連鎖する。
月神様が我が子のように愛していたショッキングピンクの角を持つ肉食獣が脱走。 月神様以外には懐いていなかったため、捕獲作戦で十数人もの命が犠牲となった。
そんなことも知らずに、カマルは偶然その泉近くでショッキングピンクの角を持った肉食獣に遭遇する。あそこで射殺でもしていれば、今のカマルはないだろう。
〈オオイカヅチザメ〉の姿が功を奏したのかもしれなかった。
難なくカマルはショッキングピンクの角を持った肉食獣に傷ひとつつけることなく捕獲。
これを機に、カマルは五卿相〈ムーンファイブ〉の仲間入りを果たした。
思えば、いつも自分の意志とは別に人生が組み立てられていったかもしれない。カマルはそんな自分の出来レースに対してニヒルな笑みを浮かべた。
過去の想い出が走馬灯のように駆け巡った。
身体が黒い煙に包まれていくのを実感する。
月神様の遺体から背中の羽をもぎとっている上級月面師の奇妙な姿を最後に、視界が闇に染められた。
「俺は、誇れる人生だったのかな」
カマルは自嘲気味に笑った。
その一言を最期に、言語の扉の下に蠢く特殊な〈ブラックホール〉にカマルは吸い込まれてしまった。
月の塔が大爆発を起こしたのは、ちょうどそれから五分後のこと。
月が一度リセットされることを予期できたのは、超翻訳者の黒猫型ロボのクーだけだった。
月の統率者を失ったあと、月は乱れた。
月の塔の尖端から放出されていた月光線が異常乱射したのだ。
純粋な月人だけが、抗う時間も与えられず絶滅した。
意識が戻ると、そこ病室だった。
ツクヨミを不安げに見つめていた白猫型ロボのDrアイが歓喜の声をあげた。
「ツクヨミ! 起きたニャウ。安心したニャニャウ」
足元の方から、その声に反応して十五センチほどの円盤が駆け寄ってきた。
その異様な姿を目にした瞬間、ツクヨミは心の底からショックを覚えた。しかし、すぐにその悲しみ以上に嬉しさがこみあげてきた。たとえ見た目が円盤型になろうとも、クーが生きていることには変わりない。
「クーなんだな?」
円盤型ロボは、ツクヨミの頭上をまわりながら「じゃじゃあ。無事でよかったじゃじゃあ!」
「俺は、どれくらい眠っていた?」
「一週間くらいニャウ?」
白猫型ロボのDrアイは、左手で果実クリームを舐めながら右手で電子カルテを操作する。
「そうだ、未月は……?」
「大丈夫。生きてるじゃじゃあ」
円盤型ロボになったクーが、反対側のベッドとツクヨミのベッドとを右往左往しながら答える。
「良かった……でも、未月のほうが猫型ロボになってたりしないよな?」
そんな冗談を言うと、クーが円盤を上下に揺らして笑う。
「いや、冗談なんて言うもんじゃないな……クーにはどうお詫びしたら良いか……」
「そんな、辛気臭い顔するなじゃじゃあ。いつかきっちり借りは返してもらうじゃじゃあ。それより……」
「なんだ?」
何やら窓の外が騒がしかった。
「困ったことになってるじゃじゃあ……」
月では暴動が起きていた。
いつどの時代、どの星でも、統率者を失えば社会は混乱すると相場が決まっていた。
〈ムーンファイブ〉も、カマルとチャンドラマーはあの場で命を落としてしまった。
サルは最後までずる賢かった。
とうに職務放棄し、別の星へどこぞの女と亡命したとの噂が実(まこと)しやかに流れた。
しかし、クーが心の底から「困ったこと」と言ったのは、未月を含めた月遊女たちの処遇についてだった。残された月人たちからは、処刑か追放の二択を求める声が多かった。
因みに、初代月神様の時代にいた純粋な月人のことをオールドムーンと呼ぶのに対し、生き残った月人たちの総称をミックスムーンと呼ばれた。
翌日、強引に退院したツクヨミは、個室へと移された未月の病室へと見舞いに行った。
未月は人形のように蒼白と化していたが、思いのほか声は凛と張っていた。
「月人だけが死んだって? 凄いマジックだよね?」
目尻を深くして笑う。
ベッドから起き上がって、未月はツクヨミと向かい合うようにして横を向いて座った。
首からくるぶしまでの地味なベージュ色のゆったりとしたパジャマを着ていた。
「もちろん二代目月神様に、あなたがなるんでしょう? 今は亡きHO2を再生してくれるのよね? しっかりしてよ? 男も度胸!」
ツクヨミの肩をぽんと叩くその腕は白く細かった。
思わずその腕を手元に引いて抱きしめた。
「無事だったんだな、未月」
その声で感極まった未月もまたツキヨミに抱き返す。
「あら、惚れちゃった? 月遊女のトップに惚れると高くつくわよ?」
ツクヨミは口元を綻ばせて「そうだな」と囁き、おどける未月の耳に口づけした。
「絶対におまえを守る。処刑も追放もさせない」
未月はその一言で、押し殺していた感情が決壊しそうになった。
「つまり、あなたも次期トップになるってことね?」
ツクヨミは二度うなずいた。
「金星へ、ひとまず、女たちを金星へ逃がす手筈を整える。うまく逃げ切ってくれ」
ふたりの口調は明るかったが、これが今生の別れとなるかもしれないと内心思った。
それを察してか、未月はわざとらしいほどに明るく振る舞う。
「いつか、あたしを満足させるようなデート、してちょうだいね」
それを訊いて、円盤型ロボがすかさず茶々を入れた。
「急に、モテオトコになったじゃじゃあ」
病室内に笑いが響いた。
しかし、現実は甘くはない。
ツクヨミが新生月神として認められるには、創造主の〈脳味噌〉を指揮・管理するだけの絶対的な力が必要だった。他に、絶え間なく回収される〈物語の種〉を効率よく運用させるためのシステムの構築も急務だった。
このときはまだ、ツクヨミも未月も再生計画を具体的に考えてはいなかったが。