9、三人の決意
文字数 4,775文字
サンドライトは、窓際でグラスに赤ワインを注ぎながらおもむろに顔を上げる。
「ヒスイにも、視えたのだね?」
その何もかも見透かしたような物言いに、ヒスイはたじろいだ。
「俺たちは、く、食われちまうのか?」
「まずは三兄弟、それぞれいつどんな映像を見たのか、報告し合おう」
真っ先にサンドライトの視線が向かったのは、ビリヤード台の横にあるひとり掛けソファーに座っていたスピネルだった。今日は、眼帯をした黒ウサギのドルークではなく、占星術に関する分厚い古書を抱えていた。
「俺から話すぞ」
ヒスイは、一刻も早く恐怖体験を誰かと共有したくてたまらなかった。
誰の目も見ないスピネルのやや反抗的な態度を横目に「ああ」とサンドライトはヒスイに返した。
「物見櫓で、女ふたりと酒を飲んでたんだ。兄者たちの知ってる通り、どんなに酒を呑んでも俺の意識は基本ハッキリしたままだ。なのにだ! たった三杯かそこらで、昨夜は脳内がぐわんぐわんとまわりはじめた。ふたりの女は同時に俺の身体を揺り起こそうとした。感覚に気づいて目を覚ましたときだった。ひとりの女が、俺を羽交い絞めにし、もうひとりの女は目の色を変えて突然、首筋を噛んできたんだ。愛撫してるんじゃなく、本気で噛み殺そうとしていた」
「ヒスイが連れてきた女も、絶世の美女だったな?」
「……兄者は、何が言いたいんだ?」
「いや、ヒスイが竹林から現れる吸血姫は絶世の美女だと推測していたから、ちょっと気になっただけだ」
「まだ、続きがある」
サンドライトは、空のワイングラスをテーブルにそっと置くと、再びヒスイに耳を傾けた。
「憑依していたかもしれないが、それまでのふたりとは明らかに別人だった。まばたきするたびに、別の姿もチラついたんだ。ものすごく恐ろしい形相をしていたが、眩暈がするほどの美しさもあった。よくわからないんだが、とにかく幻覚の中で女を見た」
「そこで、何か警告されたか?」
その質問に、少し距離を置いてビリヤード台のそばにいたスピネルも首を傾けた。
「『おまえにチャンスをやる、死にたくなければおまえのすぐ近くにいる金髪の男を私に捧げろ』と脅された。おまえは何者だと訊いたが、特に返事はなかった。その後、女はその場で気絶した」
「なるほど。さて、次はスピネルが話してくれるか?」
名指しすると、ようやくスピネルはサンドライトとヒスイが座っているソファーに移ってきた。
「僕はね、基本他人を信用しない」
おそろしく冷ややかな声だった。
「それは昔から知っている。アレキにすら偽名を名乗っていたこともあるくらいだからな」
「サン兄は、手厳しいね」
スピネルは、わざとらしくニッコリと笑んだ。
「そう、いつも星の言葉しか信用しない。だからこそ、真実だと思ったよ」
まわりくどい話を嫌うヒスイだったが、スピネルの話を黙って聞いていた。いまいち扱い辛いスピネルに対して無意識に警戒していたせいだろう。
「関係者から当時の話を聞いたり、歴史書を読みあさってみると、処刑されたネベロングは、どうも根っからの悪ではなかったみたいなんだよね。あるときを境に、豹変したと言われている。さらに気になるのが、ネベロングは美食家だったってことだね」
「人肉でも食べて気でも狂ったのか?」
「面白いこと言うねぇ、ヒースは」
嘲笑するようにスピネルはヒスイを見た。
「立ち入り禁止の竹林に頻繁に出入りするようになった時期があるんだって。世界の三大珍味に並ぶ食べ物を見つけたのかな? 悪魔に魂を売ったなんていう説も浮上するけど。ネベロングを傀儡にした黒幕が気になってしょうがないよぉ~。僕ね、すっごく惹かれたからその悪魔について独自でずーっと調べてるんだよね」
スピネルは、与えられた玩具で無邪気に遊ぶ子供のように楽しそうだった。
「で、何かわかったのか?」
もったいぶるような言い方をするスピネルに、サンドライトはストレートに尋ねた。
「どうもね、悪魔は竹林の中に住んでいるみたいなんだ。あの辺りは闇墓地だったよね?黒い魂がうようよ浮遊しているから、悪魔も生まれやすいんだろうね」
「で、ここへきて何を見た?」
冗長的に話すスピネルに、ヒスイは結論を急かした。
「日本國には竹取物語っていう有名な古典があるでしょう? でもね、どの本も不思議と文章が黒く塗り潰されているんだよー。ビックリじゃない? もー気になって居ても立っても居られなくなっちゃったから、深夜に竹林へ行ってみたんだっ!」
「よくもあんな物騒な場所に独りで行くな……」
ヒスイには目の前のスピネルの方が怖ろしい存在に思えた。
「だって、噂の夫婦とそこで出会えたら、求めている答えが見つかるに違いないって、直感的に感じたんだもん」
このとき、内心ヒスイは女の悪魔から「銀色の髪の男を捧げろ」と言われなくて良かったと安堵した。敵にまわすと厄介な存在だと改めて痛感したのだ。
「それで、答えは見つかったのか?」
サンドライトは逸れていた話を戻す。
「そうだね。老夫婦は、僕が持っていた竹取物語の挿絵とそっくりだったんだ。ホクロの位置とか、目のかたちとかね」
「ん? ページは真っ黒に塗りつぶされているんじゃなかったか?」
「それがね、老夫婦を見つけた瞬間、勝手に本のページがパラパラとめくれたんだ! 風もなかったのに!」
スピネルの話は、どこからどこまでが体験談なのか推測しかねた。真相を掴めていない兄弟を混乱させようと思わせぶりな発言をしているだけなのかもしれない。まことしやかな作り話も混じっている可能性も考慮しながら、サンドライトはスピネルの話の続きに耳を傾けた。
「そのときね、最初のページの挿絵だけが浮かんできたんだ! とっても幻想的だったよー。まぁ、老夫婦と話すことはできなかったけどね。僕を一瞥しただけでいなくなってしまったから」
「ということは、スピネルだけ見えたものが異なるってことだな?」
「てことは、兄者も?」
ヒスイは、サンドライトの神妙な顔つきを覗き込むように言った。
「ああ。実は私もヒスイと同じ吸血姫を見た」
この部屋で若い警察官を尋問した瞬間、男を通して映像を見たことを事実のまま打ち明けた。
「兄者には、俺の首を持って来いって要求したのか?」
ヒスイの目は真剣だった。
「いや、若い銀髪の男を生贄にしろと要求してきた」
スピネルは眼光を鋭くさせた。
「となると、必然的にスピネルにはヒスイを生け捕って来いと要求してきたはずだな?」
ヒスイが独り言のように話しているあいだもなおサンドライトは、不敵な笑みを浮かべるスピネルを注視していた。
「スピネル。星が闇に食われるのは、確か明後日だったな?」
そのサンドライトの問いかけに、スピネルはさらに口元を綻ばせた。
しかし、そこでスピネルは席を離れた。
扉の前まで行ってくるりと踵を返すなり、
「ドルークが寂しがってるといけないから。またねっ」
と言って部屋を後にしてしまった。
区切りの悪いところで解散となったが、ちょうど酒が飲みたくなったと言ってヒスイも部屋を後にした。
残されたサンドライトは、ピアノを弾くため、アレキに爪を一本一本切ってもらうことにした。アレキの温かい手が、サンドライトの滑らかでいて冷たい指を優しく支える。
普段ならば、爪を整えられている間は目を閉じて穏やかな表情をしていたが、今日のサンドライトは違っていた。
いつしか、サンドライトの部屋からはベートーヴェンの〈月光〉の音色が響いていた。
夜風でひらひらと揺らめくレースカーテンは、まるでサンドライトの指の動きに反応しているようだった。
「また、坊ちゃんを悩ませているのですか」
ピアノの演奏中でも、サンドライトに話しかけることができるのは、ロマンスグレーの執事アレキだけだった。
「母上は、いつまで生きるおつもりなのか……」
サンドライトは、グランドピアノのすぐそばに立て掛けてある写真を見ながら嘆いた。
彼の長年の苦悩は、執事のアレキしか知らない。
サンドライトは、上流階級出身の貴族であるロシア人の父と、占星術師であったと言われている日本人の母とのあいだに生まれた。
だが、サンドライトが生まれてすぐ母が行方不明となった。
謎多きこの事件。事件そのものも怪奇的だったが、それ以上に不可解だったのは、母が行方不明になった瞬間、人々の記憶からその存在がすっぽりと消えてしまったこと。はじめは大きなショックによる記憶障害かとサンドライトは考えたが、さすがに大勢の人が同じような症状に陥るのは奇妙な話だ。
サンドライトに母の真相を語ったのは、何を隠そう執事アレキだった。彼だけがなぜか母のことを覚えていた。
「老村へ来てからというもの、母の魂が今までにないほど私の心を激しく揺さぶるのだ。
アレキ、これは私の仮定に過ぎないが……。老村で日々、行方不明者が出ている。そのことと母が行方不明になったことは、あながち無関係でないように思うのだが」
執事アレキは、サンドライトの洞察力に感心したのか、ピクリと眉を動かした。
なおもサンドライトは、細く長い足でリズミカルにペダルを踏み、鍵盤の上では白く滑らかな指を弾き続ける。
「しかし、運命とは皮肉なものだな。この私にではなく、母の血が流れていないはずのスピネルに占星術師としての能力が備わっているのだから」
執事アレキにだけ見せるあからさまな嫉妬心。
徐々に指さばきは速くなる。
月光の第三楽章。
サンドライトの裡から燃え上がる想いが鍵盤を叩いているふうだった。
突然、ノックもせずにヒスイがドアを押し開けて入ってきた。
ふたりの視線は、昨日とは打って変わり、恐怖よりも好戦的な目をしたヒスイに向けられた。
「兄者!! 昨夜、要求したものを零時ちょうどに竹林の中央まで持ってこいと告げてきたぞ」
とっさに鍵盤から手を離したサンドライトは、口角を上げた。
猪突猛進型のヒスイを最初のターゲットとしてくることは想定内だった。
「すぐに作戦を練るぞ」
サンドライトは凛とした声でふたりに言った。
ほどなくして始められた作戦会議の場に、スピネルの姿はなかった。
独自のやり方で吸血姫に立ち向かうつもりなのか、それともすでに吸血姫と悪魔の契約を交わしてしまったのか。正直、スピネルから金星食の日に起こりうる地上での出来事を改めて訊いてみたかったが、サンドライトの口から作戦会議にも加わって欲しいと要求するのは自分のプライドが許さなかった。
作戦の内容を聞いて、ヒスイは蒼くなった。
「兄者、それは何度か試したことがあるのか?」
不安げにサンドライトの顔を覗く弟に、突然サンドライトは高笑いをした。
「ヒスイよ! 私は何事も一発勝負なのだ。それで死んでしまうならそれはそれで、潔く運命とやらを受け止めなければならない! だが、安心しろ」
サンドライトは両手を指揮者のように振り上げながら高揚感を露わにした。
「私は死なない。もちろんヒスイ、可愛いおまえも死なせない! 死ぬのは……」
素早く身を傾けると、窓外から見える竹林を力強く指さした。
「今もなお老村の人々を脅かす、竹林の吸血姫、ただひとりだ!」
サンドライトの瞳は、いまだかつてないほどの闘志に燃えていた。