【月・過去】月の塔の激戦
文字数 8,600文字
室内には、お経や呪文じみた奇妙な歌声がBGMとしてさりげなく流れている。
何の植物の匂いかはわからないが、リラックス効果がありそうな香を含むスモークが広い室内にもくもくと立ち込めていた。空中には、雲のようなベッドがいくつか浮遊しており、赤や黄、橙に白などの丸い一厘の花もその周辺でくるくると舞っている。
だが、〈戯れの間〉で最も異様だったのは、床全体に設置された重たそうな円形のフタだ。そう、この〈フタ〉の下は月の塔の地下に続く〈ブラックホール〉だった。時間が止まったままの部屋。
そこには、一級品の物語を書き残してきた亡き創造主たちの〈脳味噌〉が集結し、今もその崇高な姿で新たな物語を生み出そうとしている。
足元に涼しい風が流れてきた。それは、月神様が部屋に現れる合図だった。
身長の半分以上はあると思われる艶やかな金色の髪と赤い瞳。首回りや手首には何重にも宝石の輝きが強調された装飾を身に着け、腰布には煌びやかな黄金の縞模様、頭部には金の王冠をのせていた。 右肩には、半身を包み込めそうなほど分厚く大きな純白の翼まで生えている。ここでの姿は、明らかに特別だった。
月神様は、中央に浮かぶ雲のベッドで真っ赤な着物を着崩している麗月に歩み寄った。
つるんとした麗月のアゴの輪郭を指でなぞるように、月神様はその大きな手でいやらしく触れていく。
視点の定まらない麗月のとろんとした瞳に、だらしない半開きの口。
麗月は、月神様の謎めいた力に操られていた。
「そそるな」
そう囁いてから、麗月の優美な唇を吸うように口づけた。
「夢のようですわ」
初めて麗月は月神様に語り掛けた。
なにせ、〈戯れの間〉以外の場所で月遊女が月神様に話しかけるのはタブーなのだ。
「この日のために、わたくしめは生まれてきたのですね」
口調も、声のトーンも、月楼館に雇われていた時とは変わっていた。
ふいに、麗月は頭の周りを飛んでいる花に意識を取られた。
「この花は?」
「月の花だ。麗月、おまえも月の花となれるのだよ」
麗月は、その後もなかなか月の花から視線を外そうとはしなかった。
「もっと、もっと、私を見よ」
命じながら月神様は、欲望のままに月遊女の真っ赤な着物をはがした。
丸みを帯びた肩に月神様は歯を立てる。
耳のうしろまで舌を滑らせると、麗月は色香のある声を漏らした。
形の良い麗月の乳房が着物からこぼれ落ちる。
もう片方の月神様の手は、麗月の股の間をまさぐり始めた。
「このお翼は?」
麗月は、敢えてこのタイミングで愛らしく尋ねた。
「これか。弱小の星で生まれた女の翼だ」
「弱小の、星ですか?」
月神様は、無駄話を避けたい思いだったが、無垢な瞳で甘えられてつい会話を許してしまった。
「かつて、地球に天体が衝突した。その衝撃から生まれた衛星がこの月とHO2なのだ。私から言わせれば、偽物の衛星だがな。世の中に偉大なものはひとつで十分」
月神様は高笑いをした。
「それより、まもなく〈真夜中〉が訪れる。もっと、もっと艶めかしい声を上げて、私の前で淫らな姿をさらけだせよ」
背中の翼が激しく宙を仰いだ。
直後、甘美な儀式にふさわしくない警報がけたたましく鳴り響いた。
球体の中だけでなく、外からも聞こえてきた。
月神様が、腰布に隠しておいた大剣を掴むまで数秒もかからなかった。大剣には、月神様が好むショッキングピンクに染めあげられた月獣セレーネのファーが持ち手についていた。
ふと、脳波によってサルの声が聞こえてきた。
「月神様。お取込み中たいへん申し訳ございません。何者かがセキュリティを停止させて内部の球体へと侵入した模様です」
「そんなつまらぬ報告は要らん。侵入者を抹殺し終えたと、その報告だけで十分だ!」
月神様は怒号を放った。
サルは、「すぐさま排除して参ります」と裏返った声で応じた。
「ツクヨミはどこへ行った?」
その問いにはチャンドラマーが答えた。
「それが、連絡が取れていません」
月神様は顔を顰めた。
「あいつ、やはり(・・・)裏切った(・・・・)な!」
下唇を浅く噛む。
「チャンドラマーよ、神聖な〈真夜中〉に男の鮮血は不要だ。一瞬で消してこい」
「かしこまりました」
神聖な日を邪魔されたことで気持ちが昂ったが、麗月との戯れに戻ろうとした。
しかし、一寸前まで弄んでいた麗月の姿が忽然と消えていた。
「ほー、悪い月遊女だな。私にお仕置きされたいのか? はっはっは」
大剣を握りしめたまま、スモークで視界が不鮮明な部屋の中で、月神様は手を広げて麗月を探す。
「ここよ!」
突然、凛とした声が反響した。
いくつも中空で回転する色違いの月の花の合間から、麗月―――いや、男物のジャケットを羽織った未月が構えていた。
「おまえがなぜここにいる」
月神様の声色が太くなった。
「妹の麗月を連れ帰るためですよ、月神様」
「月楼館で最も価値のない女か」
月神様は鼻で笑った。
「本当に無価値なのは、あたいか、それとも、あんたか。ここでハッキリさせましょうか!」
威勢の良い声で未月が言い放つと、月神様は憤怒をたたえて真っ赤になった。それだけではない。月神様の顔が突如、時計回りに反転した。
それまで穏やかな面を見せていた月神様だったが、吊り上がった太い眉の下で獰猛な目が光った。〈月の裏側の支配〉、再び。
「神聖な儀式を邪魔した罪は死罪に値する! 消えよおおおおおお!」
右手に握られていた大剣が、月獣の毛を靡かせながら未月に猛然と襲い掛かった。
大剣の先が硬い何かで妨害されるような鈍い音がした。
「ツク……」
大剣を跳ね返したのは、ツクヨミの背丈ほどある長い月のステッキだった。見た目からは想像できないほど防御に優れた代物だった。
相手が怯んでいる隙に、ツクヨミは未月を少しでも安全な場所に避難させた。
「なぜだ。なぜ、いとも簡単に私を裏切りおった?」
「もし、わたくしを寵愛していたと断言するのでしたら」
すべて言い終えないうちに、月神様は「ツク、おまえは私の愛を感じなかったのか!」と叫んだ。
「でしたら、なぜわたくしの母星を嘲笑うのです? HO2を虫の息にまで追い込んだのは、まぎれもなく月神様、あなたなのですよ? あなたは心の裏で、わたくしの存在を疎ましいと思っていたはずです」
ツクヨミは、長年ため込んでいた黒い感情を一度に吐き出した。
むろん、話し合いで解決できる問題だとは思っていない。
ツクヨミは、敵の目の色が変わったのを見逃さなかった。
「互いに、後戻りはできないぞ!」
直後、月神様は右手に握っていた大剣を、あろうことか口の中に入れようとした。
「剣は、振るうだけではないということを教えてやろう! 凡人とは違うのだと身体で教えてやろう!」
月神様はまばゆい光を全身から放ちながら激昂した。
大剣が、口の中へみるみるうちに入っていく。
「ど、どういうこと……」
未月はツクヨミのうしろで両肘を抱えながら、月神様の奇行を見つめていた。
「変形している……」
ツクヨミは、冷や汗を拭いながらつぶやく。
そして、目の前で月神様は怖ろしい変化を始めた。
長い手足は身体に溶けるようして輪郭を失い、頭部も首に埋もれるように消えてなくなり、なんと身体そのものが大剣の形を帯びて一回りも二回りも大きくなった。
そして、首があった場所には巨大なショッキングピンクの花が咲き、ゆらゆらと花びらを揺らしていた。
ツクヨミと未月は、この世のものとは思えない変形に言葉を失っていた。
瞬間、大剣となった月神様が高速回転しながらツクヨミの顔面へと飛びかかってきた。
ツクヨミはうまくかわしたつもりでいたが、左目近くの皮膚を抉られた。血が滲んできただけでなく、左目の周りの筋肉が痙攣していた。そのせいで、視界が狭くなってしまった。
「つまりおまえは、二心を抱いたまま私に仕えていたということか? おまえは、過去の自分を葬ったのではなかったのか!」
大剣の姿となった月神様は激怒しながら、再びツクヨミめがけて飛びかかった。
次はうまく交わせたが、ツクヨミは完全に右目だけの戦いで不利になっていた。
「あれは、生涯忘れてはならないものが詰まった墓なのです! 本来、あなたが握りつぶそうとしても握りつぶすことが不可能なものなのです!」
封印していた怒りの感情が爆発した。
ツクヨミは、月のステッキを激しく振り回した。
しばらく、大剣と月のステッキの剣戟(けんげき)の響きが球体の部屋を反響した。
うしろで未月は、無意識に両手をひとつにして月のステッキが折れないことを、これ以上ツクヨミの身体が潰されないことを強く願った。その後、麗月も祈るのよ、そう目配せしようと匿っていた妹の麗月の方に未月が身体を向けた。
しかし、麗月はどこにもいなかった。
嫌な予感がした。
「麗月、麗月」
小声で呼ぶも反応なし。
そうこうしているうちに、足元を覆いつくすスモークが黒くなっていることに不信感を抱いた。
未月は、ツクヨミが化け物を相手にしているあいだ、黒い煙の流れを慎重に目で追った。
なぜいままで気づかなかったのか。
よく見ると、この部屋の床には大きな〈フタ〉があり、その隙間から地下へ吸い寄せられるようにして黒い煙は流れていた。
「この下に何が……?」
未月は戦々恐々しながらも、その巨大な〈フタ〉ににじり寄った。
足元に、見覚えのある赤い花のかんざしを落ちていた。麗月の髪に留まっていたものだ。 未月がそれを拾い上げようとした瞬間。
知らぬうちに、麗月の着物を着た黒い影が、球体の部屋のスモークを取り囲んでいた。
「ツクヨミ! すぐにでも、この部屋から逃げたほうが良いわ!」
緊迫した未月の声に、ツクヨミが気づき振り向いた。
刹那、視界がさらに暗くなった。ツクヨミと未月が大きな影で覆われた。麗月の着物を着た黒い影は、悠々と宙を舞っていた。
バサッバサッと、巨大な鳥が羽ばたくような羽音がした瞬間、その疾風に未月もツクヨミも豪快に部屋の隅まで飛ばされた。
右肩を強打したが、に立ち上がったツクヨミは、壁の前で倒れている未月のもとへ駆け寄った。
「しっかりしろ!」
「だ、大丈夫……それより、麗月が、麗月が……」
巨大な影となった麗月は、スモークの中で両手を仰々しく振りながら舞を見せていた。
場合によっては、見る者を死に貶める〈舞〉。
麗月の威力がそうさせたのか、いつしか月神様は大剣からいつもの姿に戻っていた。
「これは、どういうことなのだ……嗚呼、私の、私の、可愛い麗月、麗月よ!」
女々しい声で月遊女の名を絶叫する姿は、もはや哀れのなにものでもなかった。
そして、再び疾風攻撃が来た。
未月を抱きかかえたままツクヨミは天井へ打ちつけられ、そのまま床に勢いよく落ちた。
麗月の黒い影が、高笑いしている。
フハハハハハ ふははははは フハハハハハハ
月神様は、麗月の黒い影を捕まえようと追い駆けたが、死の舞によって目くらましを受けてしまった。月神様は光を失い、その場に倒れ込んだ。そこへ、とどめをさすように、黒い影が疾風を起こし月神様を痙攣させた。
先に床に倒れていたツクヨミは、視線の先で何かが揺れていることに気づく。
カタカタと音がする。
地面が揺れている。
―――〈フタ〉だ
麗月が呼び醒ましたのか、麗月を呼び醒ませたのかわからないが、死の舞はその〈フタ〉の下にあるものと共鳴しているようだった。
「まずい……世界の秩序が……我々の存在をも脅かされない……」
ツクヨミは、強打した右膝の痛みに耐えながら匍匐(ほふく)前進で〈フタ〉の縁で移動した。
〈フタ〉の隙間から地下へ入り込む黒い影。その逆に地下からこの部屋に流れ出してくる
黒い影。
ツクヨミは、すべてを理解した。
「まずい! この部屋にいるもの全員に告ぐ! 死に物狂いで床の〈フタ〉を閉じろっ!!!」
しかし、警告も空しく誰の声も帰ってこない。
しかたなくツクヨミは、〈フタ〉の上に乗り、必死に這い上がろうとするものに前身全力で圧をかけることにした。
その時、未月の金切り声が〈戯れの間〉に響き渡った。
ツクヨミが顔を上げると、巨大な麗月の黒い影が月神様の頭部を両手に抱えていた。そして、さらにおぞましいことに、彼らはそれをガリガリと音を立てて脳味噌を貪り始めた。
凄惨な光景を前に、未月は気を失ってしまった。無理もない。
ツクヨミですら、やっとの思いでその場に立っていた。
月神様の命はあまりにも呆気なく果てたが、元来は戦いのひとではなかった。あくまでも、〈物語ロード〉としての月を創造し、月の発展に邁進された。
もしかすると、〈物語ロード〉を築き上げた時点で、すでに彼の役目は終わっていたのかもしれない。
どこからともなく、頑丈な鎧と長剣を装備した〈乙女坊主〉のチャンドラマーと、竜のごとく長い〈オオイカヅチザメ〉の体を上半身に巻きつけた〈大鮫男〉のカマルが血相を変えてやってきた。
第一声は、チャンドラマーの阿鼻叫喚だった。
「うあああああああああああああああああ」
次の瞬間、月神様の顔半分と右腕を大きな口に含み、ガリガリと噛み砕いている麗月の黒い影めがけて、長い刀身の剣を突き刺した。
黒い影は、一つのことに集中すると周りが見えなくなるらしく、〈乙女坊主〉のそれは見事に命中した。黒い影の闇を切り裂くような絶叫。またその悲鳴に呼応するかのように、〈フタ〉が激しく揺れた。
ツクヨミは、その様子を右目で見守っていた。
ふと、横から誰かが話しかけてきた。
「おまえは好きじゃないが、〈フタ〉が開いた先にある未来は俺も望んじゃいえねぇ」
物語総指揮官、〈大鮫男〉のカマルだった。
「参謀長殿、俺に的確な指示をくれ」
オオイカヅチザメの兜から覗く青い瞳からは、ツクヨミに命を預ける覚悟が見てとれた。 「月人の手でこの〈フタ〉を抑え続けていられるのも時間の問題だろう。そこで、押し上げられる力を鎮めるために私が生贄となるあいだ、カマル、おまえはあの化け物をこの〈フタ〉まで誘き寄せてほしい」
その作戦に、カマルはふたつ返事できなかった。
「おまえが、そこまで責任を負う必要があるのか?」
ツクヨミは、その言葉に口元を綻ばせた。
「この〈フタ〉の下には計り知れない数の、創造主たちの〈脳味噌〉がある。おまえは知らないかもしれないが、やや特殊なブラックホールによって時間が止まっている部屋だ。だが、〈フタ〉を完全に開ければ何もかも呑みこまれて世界は無と化すだろう。物語は、語り継がれて初めて意味を為す。月遊女に溺れてしまう前の月神様は、本当に素晴らしいお方だった」
思えば、カマルとツクヨミが面と向かって真剣に言葉を交わしたのはこれが初めてだった。いつも、サルの横やりが入ってふたりの会話が脱線することも少なくなかった。
「ただ、ひとつ頼まれてほしい」
カマルは〈オオイカヅチザメ〉の兜をゆっくり縦に振る。
「やめて、麗月やめて! 誰か、誰か麗月を止めて!」
突然、未月の叫び声が聞こえた。
いくら長い刀身の剣でチャンドラマーが斬っても斬っても、黒い影が消えることはなかった。いつしかチャンドラマーの息は上がっていた。
「月神様、月神様、月神様、月神様」
仁王立ちでブツブツとその名を連呼する姿を、未月ですらあまりの痛々しさに直視できなかった。
「危ない! 避けて!」
未月の悲鳴で、ふっと我に返ったチャンドラマーだったが、身軽に相手の攻撃をかわすための瞬発力と判断力はもはや残っていなかった。
麗月の黒い影は、チャンドラマーひとりを狙って襲い掛かってきた。
次の瞬間黒い影が吐きだした炎の息をチャンドラマーは全身で受けてしまった。またたく間に丸焦げとなった巨躯は、激しい音を立てて倒れた。そこは、すっかり変わり果ててしまったとは言え、月神様の上だった。
これは、チャンドラマーの作戦だったのかもしれない。
「チャンドラマー……」
カマルは仲間の死を目の当たりにし、激しい憎しみを抱いた。
「おのれえええええ!」
麗月の黒い影が次のターゲットを狙い撃つ前に、先手を打った。
カマルは、背負っていた弓を素早く左手に構えると、影に向かって月の弓矢を射た。
麗月の影は素早くその攻撃を交わした。
新たなターゲットを見つけて、麗月の影はどこか嬉しそうだった。
フハハハハハ ふははははは フハハハハハハ
案の定、凄まじい勢いで麗月の黒い影がカマルに向かってきた。
すんでのところで、カマルは上半身に巻きつけていた〈オオイカヅチザメ〉の長い体を解き、麗月の影に素早くそれを巻きつけた。そこから二百万ボルトの電流が流れた。さすがの黒い影も痛みを受けて悲鳴を上げたのち脱力した。
そのタイミングを見計らって、ツクヨミはひとまわり小さくなった麗月を抱き留めた。
〈フタ〉を塞ぐには怪力以上の力を要したが、開けるには右足でも十分すぎるほどだった。
〈フタ〉が開いたとき、存在をかき消されそうなほどの光が放出したが、穴に吸い込まれていく感覚はなかった。
ツクヨミは、無意識に閉じていた目を恐る恐る開けた。
「聞こえるじゃじゃあ?」
「クーか! クーなんだな! 生きてたんだな!」
ツクヨミは、その場で飛び上がりそうになった。
あれ以来、合流できずにいたクーの安否も気がかりだったのだ。とは言え、目の前に現れたわけではない。脳波でのやりとりだった。
「さらに、考えられるリスクを先回りで計算してだな、言語の扉っていうんだけど、〈フタ〉を二重にしておいたじゃじゃあ。いまのうちに前身全力で逃げるじゃじゃあ!」
「わかった。クーもすべて終えたら月の塔から必ず脱出してくれ」
「ら、じゃじゃあ!」
そのやり取りは他の者の耳には届いていなかった。
「カマル、未月を連れて……」
しかし、そこにカマルの姿はなかった。
「カマル? カマル?」
「ここで気絶しているわ」
左足首を引き摺り、右腕と頬からの出血を庇いながら未月が歩いてきた。
「あの電撃は、自身へのダメージを避けられないのね」
その報告を聞いて、ツクヨミは頭が真っ白になった。
「身を投げる覚悟で……〈オオイカヅチザメ〉の最大電撃で体当たりしたのか」
ツクヨミと未月は落胆を隠せなかった。
しかし、悲嘆に暮れる時間すら与えてくれなかった。
地盤が左右に大きく揺れ出したのだ。
月の塔そのものが傾きはじめていた。
「あたしは残るわ。大切な妹をひとり置いてはいけない」
「馬鹿言え! あれはもう、おまえの知る麗月じゃないんだ!」
普段冷静なツクヨミも、思わず大声で一蹴した。
「今も昔も変わってないわ」
未月はかぶりを振った。
「麗月こそが、研究所から脱出した高性能な〈人工生命〉なのよ」
未月は切ない表情で彼女の正体を明かした。
その時、信じられないことが起こった。
顔の半分を食べられてしまったまま気絶していたはずの月神様が甦ったのだ。厳密に言うと、麗月の黒い影が月神様の体内に入り込んでしまった。新たな器を手に入れた黒い影からは、以前と比べものにならないほどの強大なパワーを感じた。
ツクヨミは未月の手を掴むように握ると、室内のスモークをかき分け、入口の扉めがけて疾走した。
すると、誰もが予想しえなかった人物が扉の前で立ち塞いでいた。
「奇跡的な夜になりそうですッ! しかし、あたくしの商品が、どのタイミングでもっとも輝けるのかは、あたくしの裁量にかかってるんですッッ!」
見る者を不安にさせる怪しげな仮面の男。
一度、その顔を見れば強烈な絵として嫌でも記憶に深く刻まれる。
「はっ、大変申し訳ありません。あたくしの紹介が遅れましたッ。月楼館の主であり、上級月面師エト、ラァン、ジュ! と申しますッ!」
「なぜ、なぜ、おまえがここにいる?」
こいつは、ただの月面師ではない。
直感的に、ツクヨミは思った。
「ムフフッ。それはッ! あたくしにとって、未月と麗月は手塩にかけて育てた大事な商売道具ですッ! 助けに来て当然ですッ! デモデモッ! あたくしには別の仕事がありまーすッ! ですから、ここはひとつ、〈ムーンファイヴ〉にお任せしますわッ!」
そのとき、言語の扉が再びカタカタと揺れだした。
いや、それだけではない。様々な言語で、呪文のように語られる怪しげな声が足元から聞こえてきた。