17、スピネル、勝利と代償
文字数 2,418文字
最早、ただただこの世界を黒く塗りつぶそうとする炎を呆然と眺めるしかできなくなっていた。
「兄者……作戦は、失敗かもしれないな」
「弱気な発言はよしてよね」
サンドライトへの愚痴が、思いの外スピネルの耳に届いた。
「せっかくカッコイイところ見せたのに、後々歴史家たちに笑われちゃうってば」
戦場まで眼帯をした黒ウサギのぬいぐるみを従え、薄闇からスピネルはひょっこりと現れた。
「てっきり、見捨てられたかと思ったぜ」
ため息交じりにヒスイは言った。
「ヒースの中で、僕への好感度は低いんだねー。ざーんねん」
特に恨めしそうな声音ではなかった。
「それより、いったいどういうことなんだよ。黒光りした竹は、ひとつじゃなかったぞ?」
「実はね、予定外なことが起こっちゃったんだ~。食が、早まっちゃったぁ」
緊迫した情勢でも尚、スピネルは悠長に言葉を吐いた。
天上を見やると、まもなく二百七十年に一度、新月に金星が隠れる瞬間が訪れようとしていた。人間だけではなく、この世の人ならざる者たちや、普段は人の目に映ることのないような魂までも気がそぞろとなる。
このまま神秘なる力に未来を奪われてしまうのかとヒスイが危惧する横で、スピネルは嬉しそうに秘密兵器を引っ張り出していた。
『太陽のお城』(ソンツェザーマク)のフタを開ける時がきたのだ。
「今世紀最大の天体ショーが始まるからね? ヒース、瞬きしてちゃ、絶対にダメだよ?」
新月のうしろに、金星がすっぽりと隠れようとしていた。
竹林の炎が天から吹いた風によって一息に消されると、老村は圧倒的な闇に覆われた。
直後、大地が激しく揺れだした。
ヒスイが乗っていた黒い馬は、高い声で嘶いた。
そして、覚醒したばかりの黒い輝夜姫がついに目にも止まらぬ速さで頭上から飛び降りてきた。
いや、厳密に言うと、迫ってきたのは黒い輝夜姫の〈口〉そのものだった。
大柄なヒスイの全長よりも長大な口だ。
すでに手放していた鎖玉の代わりに、ヒスイは二本の長剣を握った。
「うおおおおりゃあああああ」
長剣は一瞬にして吹き飛ばされ、あえなく黒い輝夜姫の口に呑み込まれる寸前だった。
ヒスイは、スピネルの秘密兵器に助けられた。
昼間に集めた大量の日光を、スピネルは『太陽のお城』(ソンツェザーマク)から開け放った。
目も眩むような膨大な光の威力に、スピネル以外皆状況を把握できずにいた。
「成功したみたいだね」
スピネルの声がしてから、ヒスイは反射的に瞑っていた目を恐る恐る開けた。
「成功って……何だかよくわからないが、それが本当だとしたら呆気ないな……」
ふいにスピネルの横顔を見たヒスイは、次の瞬間ぎょっとした。
割れたガラスの粒のようなきめ細かい輝きが、スピネルの右目に宿っていたのだ。
「おい……大丈夫か……」
「下りてきたよ」
質問には答えず、スピネルはつぶやいた。
いつの間にか、ふたりの前に十二単姿の女が姿を現していた。
艶やかな長い漆黒の髪に、冴え冴えとした白い肌。
「輝夜姫」
スピネルは、うっとりするような目をしながらその名を口にした。
その横でヒスイは現実を受け止められずにいた。
「サンドライト、スピネル、ヒスイ」
〈薔薇の貴公子〉の名を呼ぶ輝夜姫がにじり寄ってきた。
世界中が輝夜姫の声に耳をそばだてているのか、それとも時を止める超越した能力の持ち主なのか、辺りは無音の静けさに包まれていた。
「貴方たちには心から感謝します」
「礼を言われてもピンと来ねぇけど、レディから感謝されるのは悪くない」
ヒスイはいつもと変わらない口調だったが、対照的にスピネルは丁寧な言葉遣いになっただけでなく、耳慣れない声色で話しかけた。
「輝夜姫、黒い輝夜姫は無事、封じられましたでしょうか?」
「黒い竹は全滅しました。スピネルが放った日光をぞんぶんに浴びて大打撃を受けた黒い輝夜姫に、最後はヴィーナスの追撃もあり、完全に封じることができました」
あまりにも壮大な幕引きだった。
「大変な戦いの後で申し訳ないのですが、最後にもうひとつだけお願いがあります」
続きを聞かなくとも、輝夜姫が何を求めているのかスピネルには手に取るようにわかった。
いつのまにか小脇に抱えていた古書を、スピネルは輝夜姫にそっと差し出した。
時にそれは人々を翻弄させる〈魔術書〉であり、時に〈死後の書〉や〈予言書〉と名を変え、最後には輝夜姫の手に渡った。
瞬間、本来あるべき物語のタイトルが表紙に一語ずつ刻まれ始めた。
「感謝しています」
地面についていた輝夜姫の長い髪が、ゆっくりと浮き上がってきた。
「食が終わるまで、残り二十分しかありません。
至急、黒い輝夜姫の縄張りであるこの竹林から外に脱出してください」
「待ってくれ! ひとつだけ聞かせてくれ! さっき、サンドライトにも感謝すると言ったよな?
兄者は、俺の兄者は、どこに行っちまったんだ?」
「ヒース、僕たちが引き留めてはならないお方だよ」
スピネルは太い溜息を落とした。
結局、輝夜姫はその質問に答えることなく、その場からみるみると消え失せてしまった。
「ヒースのために、後で僕が種明かしをするから」
スピネルに横から鞭で打たれたヒスイの馬が猛スピードで走り出しても、ヒスイは腑に落ちないのか、何度もうしろを振り返って輝夜姫の残像を見つめていた。
スピネルの右目は完全に失明していた。しかし、それも彼にとっては計算のうちだった。両目を失ったことで、もともと義眼であった左眼に、新たな世界を映し出す超越的な機能が備わったのだ。
内心、スピネルは嬉々と舞い上がっていた。