3、〈吸血姫〉伝説
文字数 3,186文字
この時期、三人の〈薔薇の貴公子〉たちが老村の別荘地に来ていたことも大いに影響していた。
それは、三百七、八十年前までさかのぼる。
今でこそ信教の自由が憲法で認められるようになったが、当時は伴天連弾圧の風潮にあった。しかし、それと同時に一度信仰を捨てた棄教者に信教へ戻ってもらう運動が盛んになった時代でもあった。
ちょうどその頃、村人たちは地主から重たい税を課されていたが、不作続きで年貢を納められずにいた。
きっかけは、老村の小高い山から偶然にも掘り起こされた分厚い書物〈死後の書〉。
冒頭には、『命あるものは皆、神の子だ』と記述されていたという。
ほかに最も引用されたのは、『神の子の財産を他人がむやみに搾取してはならない』といういう一文だった。
「我は神の子だ!」
そう唱え始めた村人たちの暴動は長年にわたる鬱憤ゆえ、ほとんど必然的に起こったと言っても過言ではなかった。
満月の夜。
村に火が放たれた。
神の子が放った火は、神聖なものだ!
階級の高い者たちを一斉排除する暴徒であったはずだが、実際は何が起こったのかも理解できぬまま焼かれていく村人たちも多かった。阿鼻叫喚と化した老村で生き残ったものは、ほんのひと握りだった。
しかるのち、〈死後の書〉は学のない百姓たちには到底解読不能な言語で書かれていたことが学者によって判明する。どうやら、地主に対して復讐心を燃やしていた村人の悪知恵と言う可能性が高い。
以後、その村には誰ひとりとして棲みつかなくなったが、国はこの土地を有効活用しない手はないと考えた。
まもなくその場所は、極悪人の墓地として用いられることになった。
それにより、ますます人が寄り付かない場所となり、老いてゆく村の意味で〈老村〉と揶揄され、長い年月を経て、気づけば通名として使われるまでになっていた。
あの大火から、百数年の月日が流れようとしていた。
日本國は、禁教政策の真っただ中にあった。
イエズス会の宣教師、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ が屋久島に漂着し、紆余曲折を経て、江戸で新井白石と何度も対面している。結果的に彼は幽閉され、獄死してしまった。
そのシドッティと同じ舟でやって来たと見られる西洋人がいたのをご存じだろうか。
長旅を共にしていたシドッティにすら身元を明かすことなく、みすぼらしい恰好で、できるかぎり目的地に辿り着くまでは目立つことのないよう努めた女。
しかし、もともと彼女はある国の王女になるはずの高貴な身分だった。
その名は、一時"薔薇の貴公子”とまで謳われた〈ネベロング〉。
中性的な容姿と男勝りの凛々しさゆえ、"貴公子”と呼ばれたのかもしれない。
その代名詞にふさわしく、ネベロングは生まれつき燃えるような真紅の巻き髪をしていた。つるんとした卵型の顔は、透き通るように白く、ガラス球のような碧眼と、まさに美を形にしたようなパーフェクトな容姿だった。
意外にも老村の人々は、突如現れた異国人のネベロングを心から歓迎し、手厚くもてなした。
歓迎の理由は、彼女が敬虔なキリシタンであったこと、そして、彼女の出現を予期していたものがいたこと。
各地から弾圧を恐れて集まりこの地に潜伏していたキリシタンの中で、ひとりの老婆がマリア観音のお告げと称してこんなことを預言していたのだ。
「外見は女だが、男も恐れる真っ赤の火を彷彿させる存在が遠くの地より流れて来るであろう」
誰もがネベロングを見たとき、彼女に違いないと思った。
さらに驚くべきことは、普通何年もかけて学ぶ言語を道中で取得したということ。
完璧とは言えないものの、十分に日本人と会話できるレベルだった。
道中どのようにして学んだのか問うと、〈死後の書〉の魂が頭の中で言語転換を助けてくれたと言い張った。
彼女がこの村に流れ着いた理由について、当初から様々な憶測が飛び交っていた。
霊感が強く、その能力が仇となって祖国から追放されたという説。
〈死後の書〉が、遠く離れた地にいた彼女を呼び寄せたという説。
しかしすぐに村人たちは後者の噂に確信を持つようになった。
事実として、彼女は〈死後の書〉を解読できる唯一の存在となったのだ。
これを機に、ネベロングは老村の村おこしに一念発起する。
潜伏していたキリシタンの多くも彼女を全面的にサポートした。
好都合にも、小高い山には長年放置された洋館がひっそりと佇んでいた。かつて、地主が道楽で建てたものだった。
ネベロングは、祖国から持ってきた財産を売り、その洋館を全面的に改築し、我が住処とした。また、庭に物見櫓も作らせた。公にはしていなかったが、高所から住民の生活を監視することが主な目的だった。
英語でも日本語でもない書物の内容をなぜ正しいと言えたかは後々説明するが、ここで言えるのは、その書に綴られていた予言が、すべて現実に起こったということだ。
ネベロング自身が予言師だったのかもわからない。
何にせよ、圧倒的な資産、恵まれた容姿と生まれつき備わった気品、超越した力を兼ね備えたネベロングの絶対的なカリスマ性は、村人たちにとって魅力的に映った。
各地に散らばっていた老村出身者たちは勿論のこと、先祖が老村で暮らしていたという者まで集まった。彼らは、ひとたび老村出身だと口にすれば揶揄されたり、不当な扱いを受け続けてきた。それほどまでに肩身の狭い思いをしてきたので、この指導者の鮮烈な出現は願ったり叶ったりだった。
しかし、ある時を境にネベロングの性格は急変する。
予言とは別に、彼女は〈死後の書〉を都合よく書き換え始めたのだ。そのため、村人たちの暮らしは気づくと以前にも増して困窮を極めていった。
自分たちの手で育てた食料の多くは、ネベロングとその一味に捧げてしまうため、村人たちは今日明日の分すら確保できないほどひっ迫した状態に陥った。その上、過労による病で倒れても、薬ひとつ支給してもらえなかった。
物見櫓から見下ろす人影は、この日も村人たちの目に映った。
ネベロングは、月が煌々と照っているとき、いつもそこから老村を俯瞰するのが習慣となっていた。
ついに、村中から激しい抗議が起こるまでに至った。
「ネベロングは我々の救世主なんかではない! 敬虔なキリシタンでもない!
我々の血をとことん吸い尽くす吸血姫だ! 月から来た悪魔だ! 我々の手でネベロングを血祭りにあげよう!」
村人たちを甘く見ていたのは彼女の最大の汚点かもしれないが、不測の事態に備えて守りを厚くはしていた。各国から選ばれた強靭な肉体の戦士たちを従えていたのだ。
事実、単独で洋館に侵入しようとした村人が、ネベロングの姿を見る前に射殺された。
これでは歯が立たないと反旗を翻した村人たちの勢いも失速しかけた矢先のことだった。
ネベロングは、同じ西洋人の手によって呆気なく暗殺された。
彼女が持っていた莫大な資産は、実のところ世界中の男たちをたぶらかして得たものだった。中でも、桁違いの資産家が、彼女に利用されたとわかると、並々ならぬ復讐心を燃やした。そう、彼こそが現代で〈薔薇の貴公子〉と呼ばれる三兄弟の先祖にあたるクリスだ。クリスは、ネベロングに仕えていた獰猛な戦士たちに紛れ込み、警備が薄くなった瞬間を狙って拘束した。
その後、公開死刑によりネベロングを絞首刑に処し、老村の英雄として祭り上げられた。
そのような歴史があるからこそ、〈薔薇の貴公子〉たちが小高い山の上の洋館へ訪れると、村人たちは村を上げて歓迎するのだった。