【?・現在】羅生門
文字数 5,183文字
昔から身体能力の高いサンドライトだったが、気を抜くと〈顔のない女〉にどんどん置いていかれることになった。
一晩過ごしたあの窓も扉もない場所から三十分も歩けば、周囲は傾きかけた朽木(くつき)で塞がれている路だったり、寒々しい荒れ地しかなかった。顔に打ちつける風が強く感じられたのもそのせいだろう。
頭上には、鴉なのか、それとも色を失って名もない鳥に変貌してしまったのか、真っ黒な鳥が不吉な鳴き声を出して旋回していた。
「鶴乃は、この現象について何か知っているのか?」
先を行く鶴乃は足を止めて答えた。
「無色化」
「無色化?」
「ここ〈ハブパーク〉は、人生を好転させようと、曰くつきの輩が一縷の望みを持って目指す場所なのだろう?」
サンドライトは、金星へ行くことが可能なのかも質問に加えようとしたが、ここでは誰が聞き耳を立てているかわからないので断念した。
鶴乃は、やや意味ありげに間を置いてから頷いた。
「まぁ、どの世界も勝者より敗者の数のほうが多いものだからな」
会話はそこで途切れた。
途中から急な坂となり、ますます体力を奪われたが、サンドライトの瞳は燃えるように輝いていた。いつしか彼の心の中で、未知なる世界への好奇心がマグマの如くふつふつと湧き出していた。
目的地に着いた頃には、皮肉にも月明かりだけが頼りだった。
見上げるとそこは、蝋燭の炎のように揺らめく黒い影が羅生門の輪郭を妖しく浮き彫りにしていた。
「しかし、羅生門と呼ぶには、こぢんまりとした門だな。破綻した物語の脱落者が住む世界なんて、こんなものか」
サンドライトは独り言をつぶやく。
横に立つ鶴乃は顔がないのでどのような表情で見上げているのかわからなかったが、ここから積極的に先へ進もうとする気配は感じられなかった。
おどろおどろしい空気がふたりの微妙な関係を後押ししていた。
「死人にも、恐怖はあるのか?」
鶴乃に反応はない。
「しかたない、私が見て来てやろう」
サンドライト自身も、まったく恐怖がないわけではなかったが、男として先陣を切るほかないと思って出た言葉だった。
サンドライトは、慎重に歩を進めた。肩越しに鶴乃を見ながら。
数メートル歩くと、四方八方から無言の圧力を感じた。暗闇でなければ、もう少し怯える必要もなかったのかもしれない。
「羅生門と言うからには、死屍累々と……」
そのときだった。
門の脇から黒いマントに身を包んだ男が現れた。
ぎょろっとした目元しか露出していない。
長い鎌を、サンドライトの頭上にいきなり振り落としてきた。人を殺すことに何の迷いもない武器裁きだった。
腰に装備していた宝剣を、サンドライトはとっさに抜き取り、相手の鎌を打ち返した。
「羅生門を知らないのか?」
マントの男は鎌を振り回す手を止めない。
虚空を斬る音だけがビュンビュンと飛び交うが、マントの男の鎌はなかなか手ごたえを感じられない。
「なるほど、月の〈下人〉は、世界中の美しい物語を読む能力もなければ、その機会すら与えられずに死んでいくか」
サンドライトの挑発的な言葉で手元が狂う〈葬除人〉ではなかった。
「おまえたちは、よほど私の美しさに惚れこんだのだな? こんな秘境まで私を追い駆けてくるのだから。しかしな、この羅生門で目立って良いのは、生きるための悪だけだ。半分死んでいるような輩が、主人公然してはならないのだ!」
サンドライトは叫んだ。
そして、背後に回ったところで〈葬除人〉の足元を蹴り飛ばした。
バランスを崩しかけたその隙に、右から斜めに渾身の力で宝剣を振り落とした。サンドライトの長く艶やかな髪も大きく上下に揺れた。
激しいバトルが嘘だったかのように、一瞬、静まり返った。
呆気なく勝負はついたかに見えたが、どこから湧いてきたのか。
黒衣をまとった五人の〈葬除人〉たちにいつのまにか取り囲まれてしまっていた。小さい者もいれば、ガタイの良い者まで様々だ。
「黒衣で顔をも隠すのは自分の容姿に自信がないからか? 最後に見る景色がこの世界で一番美しいものだったことに感謝しろっ!」
サンドライトは目を吊り上げ、怒鳴った。
そして、何を思ったか己の宝剣を鞘に戻し、足元に落ちていた鎌を拾い上げた。
「来い!」
サンドライトが低い声で叫ぶと、五人の〈葬除人〉たちがいっせいに斬りかかってきた。
目と鼻の先まで五人の剣先が迫ってくるまで、サンドライトは微動だにしなかった。
だが、次の瞬間、目にも止まらぬ速さでサンドライトの鎌は四人の首を四方にまき散らした。
そう、ひとりだけサンドライトの剣さばきを交わしたツワモノがいた。
やみくもに鎌を振り落とす〈葬除人〉が多い中、最後のひとりはそこそこ腕が立つようだった。
これまでは、暗闇で煌びやかに跳ねまわる宝剣でわざわざ受け止めるほどの相手ではないと思っていたが、ここから先は手を抜くつもりは毛頭なかった。
「良いだろう。相手してやる」
サンドライトは、わずかに肩を上下させながら宝剣を改めて握り直した。
無言のまま、〈葬除人〉は容赦なくサンドライトめがけて鎌を斬りつけてきた。その目には、人を殺すためだけに生きている者を象徴する、どす黒い感情が渦巻いて見えた。
真正面からその〈葬除人〉は、長い鎌を縦横無尽に回してきた。
瞬間、サンドライトの動体視力を上る一撃があった。
「うっ」
かわしきれず、サンドライトは右の二の腕を負傷した。
その勢いのままとどめを刺してくるかと思った。
しかし、視界から〈葬除人〉は姿を消していた。
サンドライトは、神経を研ぎ澄まし、鋭い目つきで周囲を見張った。
必ず来る。必ず飛び出してくる。
鎌を握る手が強くなる。
ふと、視線の先で鶴乃が人質にとられていた。なんと、羅生門から見下ろした場所に、〈葬除人〉と共ににいた。
汗の粒がひたいから流れる。
「彼女はすでに死んでいる。そんなことをしても、無意味だ!」
しかし、〈葬除人〉は鶴乃の腰を左手で乱暴に拘束すると、鎌の剣先を鶴乃の胸元にあてた。
そんな状態でもなお、鶴乃は右手で小さく合図を送っていた。
さよならを意味するのか、この場から立ち去れという意味なのか判断に困ったが、サンドライトは躊躇しなかった。
すぐさま腕の裾をあげた。
左腕に身に着けていたブレスレットは頭上で戦いを傍観している月光を反射させ、〈葬除人〉の注意を逸らせた。
〈葬除人〉がわずかに怯んだときには、すでに坂を血まみれの頭部が転げ落ちていた。敵の拘束から解かれた鶴乃を、サンドライトはがっちりと抱き留めた。
彼女の細い肩は震えていた。
「感謝を……貴族様」
このとき、サンドライトは同時に相反する感情を持った。
むろん、鶴乃の無事についてはほっと安堵できたわけだが。
「けがはないか?」
優しい言葉とは裏腹に、サンドライトの目はどこか疑惑に満ちていた。
それを察したのか、鶴乃はまだ体の緊張を解いてはいない。
「キミは何者なんだ?」
鶴乃は答えない。
「こんな場所に色のついた者はいない。これは、誰の指示だ?」
底冷えした声で詰め寄るサンドライト。
鶴乃が答えるまでいつまでも待とうと思っていた。
だが、ぬかるんだ土でも踏んだのか、サンドライトはそっちに気をとられた。
瞬間、身の毛がよだった。
自分たちが踏んでいたものが土でも草でも石ころでもなく、体中が溶けて眼球やら首やら四肢やらが折り重なっている死体だと知る。
老村の林で見た光景とは比べものにならなかった。
蠢く死体は、マグマにでも溶かされたように、ドロドロに混じり合い、ヘドロのようになっていた。
いくつかの死体と目があったとき、臓腑を抉り出されたような気分になった。
心も体も地獄へと引き摺られるのは時間の問題だ。
鶴乃から質問の答えをもらってはいなかったが、ここでゆっくり話すわけにはいかない。
やむを得ずサンドライトは鶴乃の手を引きこの場から脱出した。
来た道を逃走し続けること十数分。
月の光を浴びながら、黒いかぼちゃの馬車に乗ったアレキが現れた。
「坊ちゃん!」
その呼び声と、温かみのある黒い瞳は、サンドライトを泥のような徒労感から救った。
アレキが新たに見つけた寝床は、おとぎ話にでも登場する―――、いや、まさにシンデレラを迎えに来たあの馬車だった。むろん、その馬車も色を失ってはいたが。
「ずいぶん広いな。これなら、あとふたりくらい余裕で寝れそうだ」
サンドライトは、嬉しそうに中ほどの座席で長い脚を伸ばした。
いったいどこから持ってきたのか、アレキに手渡された冷たいフォカッチャに、どろどろになったリンゴジャムをたっぷりとつけて腹を満たした。
鶴乃がアレキにバトンタッチするかたちで姿を消したことに気づいたのは、それらを平らげたあとだった。
サンドライトは少し後悔していた。
あの詰問が別れを早めたのかもしれない、と。
神妙な面持ちで黙り込むサンドライトを気にかけてか、アレキは背中越しから労りの言葉をかけた。
「腕の傷が痛みますか?」
「いや。たいした傷ではない」
「坊ちゃんがご無事で、本当に安心いたしました」
肩を落としたまま、サンドライトはうなずいた。
救急の手当を終えると、今度はサンドライトの服を脱がせた。どこから調達したのか不思議だったが、白いタオルを取り出すと、サンドライトの引き締まった身体をアレキは丹念に洗い清めた。
「抜け目のないおまえのことだ。留守中に、〈ハブパーク〉から金星へ行く道を見つけたのだろう?」
「もちろんでございます」
アレキの手際の良さと、抜群の思考力には感嘆しきりだった。
だが、今のサンドライトはその回答に対して素直に喜ぶことができなかった。
言い表せぬ不安が、サンドライトの心中で疼きはじめていた。
「いつどこへ向かえばこの悲惨な世界から出られそうだ?」
「七日後の〈祈りの日〉に、金星への道が示されます」
含みのある言い方だった。
「それは、神の啓示か?」
全身を拭き終えてひとまず立ち上がろうとしたアレキに、サンドライトは意地悪く返した。
「ずっと、引っかかっていることがあるんだが、尋ねてもいいか?」
「なんなりと申しつけて下さい、坊ちゃん」
アレキはいつものように目を細める。
「〈ハブパーク〉は、破綻した物語に関わった者たちが回収される場所だと明言したよな?」
「それが、どうかされましたか?」
使い古したタオルをたたみながら、アレキはけろりと言う。
「移動中に渡した古書を読めば恐怖を感じずに済んだ話だったと、アレキ、おまえは言ったな?」
眼光を鋭くさせながら、念を押すように伝える。
「ええ。間違いなく……」
そこで勘の良いアレキは気づいたのだろう。
自身のとんでもない失態に。
「あの古書を、一晩、貸してもらえないか?」
うろたえるほどではなかったが、すぐにその許可をアレキは下ろさなかった。
サンドライトはまばたきすら我慢し、アレキの一挙手一投足に注目した。
ややあってから、アレキは立ち上がった。それから、助手席へ行こうとしたが、仰々しく
ポンと右手拳を左手のひらの上で叩くと、こちらにくるりと向き直った。
「古書は、二種類あったのでございます。二冊目の古書は、すぐにもスピネル様にお返ししてしまいました」
それを聞いて、思わず鵜呑みにしてしまうような理由だと思った。
サンドライトの疑念は簡単には晴れなかったが、急に睡魔がやってきた。
「変に勘ぐって悪かった。美しいものに飢えているせいかもしれない……。今日はもう休むとするよ」
「ここは、特殊な世界ですからね。ただ、忘れないで下さい、坊ちゃん。」
「何をだ?」
「あの物見櫓で……」
アレキの真っ白な髪と面長の輪郭とが急に歪んできた。
そのまま身体が沈み込んでいくかのように気を失ったが、物見櫓でのやり取りは夢の中で再現された。
―――坊ちゃんを生かすも殺すも、わたくしだけに与えられた特権
生かすも殺すも……。
今までは、アレキに絶対の信用をおいてきた。
だが、状況的にそうもいかなくなってきた。
心の内奥で激しい葛藤があった。
そんなサンドライトの左半分が無色化しはじめたのは、それから十二時間後のことだった。