18、アレキとサンドライト
文字数 2,940文字
サンドライトは、食の終わりをひとり物見櫓から優雅に見守っていた。
食が開始されてから、彼の身体にはいくつもの変化が見られた。
数分ごとに金色の髪は透明感を増していき、尋常ではない速さで伸び始めた。視力も化け物じみてゆき、肉眼では見えるはずもない遠くの星まで見ることができるようになった。
それも、ただ焦点を合わせて見ることができるようになっただけでなく、かつて知識として持っていなかった星についてのデータまで知ることができた。
覚醒するのは黒い輝夜姫だけだと思っていただけに、サンドライトもまた笑いが止まらなかった。
二杯目のローズティーから赤ワインに切り替えようと思い立ち、椅子から腰を上げようとしたときだった。
ガラス窓に人影が映った。
ここで怯むサンドライトではなかった。
至極冷静な声音で囁く。
「戻ってくるのが早かったな」
「それは、こちらの台詞でございます。坊ちゃん」
言葉のあとで片眼鏡を取り外す音かと思われたが、実際は拳銃の安全装置を解除する音だけ聞こえた。
サンドライトは、窓の外を視線を置いたまま椅子に深く腰かけ直した。
「おそらく、おまえも特殊な人間なのだろう」
不敵な笑みを浮かべながら、サンドライトはもったいぶるように話す。
「ずっと、疑問に思っていた。アレキだけが、私の母上が行方不明になったことをいつまでも覚えていたことをな」
視線の先に映るアレキの影が微動だにしないことを確認してから、さらに続きを口にする。
「限られた時間ではあったが、黒い輝夜姫の体内に吸収されていた私の母とめでたく対面を果たすことができた。ずっと母の姿を拝むことはないだろうと思っていただけに、その容姿が露わとなった時は感動に震えたよ」
アレキは何も言わない。
「なぁ、私がどうして母上に会えたかわかるか? なぜ叶ったのか知りたいか?」
サンドライトはガラス窓を通して執事アレキに微笑みかけた。
執事アレキは、まだ抗うタイミングではないのか、うんともすんとも言わない。
「母上に会えたのは、黒い輝夜姫との交渉が成功したからにほかならない。ここから自分を逃がしてくれるのであれば無傷で白い輝夜姫を消すことと、最終的に黒い輝夜姫を抹殺しに来るであろう月人の処理を請け合おうと持ちかけたのだ」
アレキの反応をうかがったが、依然として黙ったままだった。
「しかし、母上も只者ではない。私の心情を見透かすことも簡単であろう。私は純粋な息子を必死に演じた。正直、恐怖が微塵もなかったと言えば嘘になるが、それ以上にスリル満点で興奮した。母上には申し訳ない気持ちもありはしたが、私との思い出はほぼ皆無だ。結局、私は究極のナルシストなのかもしれないな。とは言え、選んだ選択肢は間違っていなかった。これから何が起こるか知っているか、アレキ?」
ここでようやく、執事アレキが右足を一歩前に進めた。
「ヒントをやろう。食の時間が予定より早まったのは、なぜだと思う?」
ティーカップの横に添えられた機械式置き時計に視線を向けながら、サンドライトは得意げに言った。
「月と地球の距離が、この二百七十年間、まったく変わらなかったかと思うか? むろん自然現象による誤差はあるだろうが、そんな話ではない。月と地球のどちらかに、他の星から全く新しい物質が増えたのだ。つまり、月と地球との距離がそれで縮まったことが原因で食が早まったのだ。外部からの圧力、アレキなら何か知っているんじゃないか?」
執事アレキは、さらに距離を詰めてきた。
「これまで脈々と続いてきた〈物語ロード〉を外から破滅させようとする動きだ。もう察しがついているのだろう? そう、紛れもなく私だ」
サンドライトが立ち上がると、アレキは数秒後に華麗なターンをした。
次の瞬間、アレキが両手で構えた拳銃の銃口は、サンドライトの目の前に置かれた。
「ずいぶん手荒な真似をするんだな。長年、それこそ月と地球のような関係を続けてきた仲じゃないか」
サンドライトの本音だった。
彼にとって母を失うよりも、目の前の老執事を手放す方が痛手なのは、黒い輝夜姫と悪魔の契約を交わす前と後でも変わらない事実だった。
「なぁ、アレキ。おまえの本名は別にあるのだろう?」
アレキは沈黙を続ける。
「三兄弟の世話役として仕えていたが、お前は私を贔屓していた。
その証拠に、クリソベリルの一種であるアレキサンドライトの宝石にちなんで、おまえはアレキと名乗った。あの日からおまえは、私に一生を賭けてくれたのだ。違うか?」
突きつけられていた拳銃が小刻みに震えていた。
左頬の古傷を伝って流れ落ちる雫。アレキの涙を、サンドライトは生まれて初めて見た。
「なぜ、なぜ泣くことがある?」
こんな展開は、サンドライトにとって完全に想定外のことだった。
「わたくしは、スピネル様やヒスイ様に、坊ちゃんが覚醒することで反旗を翻す可能性があることをお伝えするつもりでございました。しかし」
「しかし?」
「しかし、坊ちゃんを生かすも殺すも、わたくしだけに与えられた特権。そう思い立ったのであります」
いつもどおりの話し方ではあったが、美しいサンドライトの顔が歪むほどにアレキは涙を流していた。
「思い出しますね。わたくしも、そんなふうに目を丸くさせて驚いた顔をしたことがありました」
唐突に、アレキは過去の話を述懐し始めた。
「幼い頃の坊ちゃんが、薔薇の花を持ってわたくしに手渡して下さったのです。今日は、父の日だと言って、ご自身で束ねられた花束を下さったのです」
臨戦態勢だったはずの気持ちが、アレキの話術で崩れようとしていた。
「アレキ……おまえは」
そう言いかけたとき、アレキは言葉を被せてきた。
「お迎えが来たようですね、坊ちゃん」
悠長な物言いとは対照的に、とっさにアレキは拳銃の引き金を引いた。
サンドライトは反射的に目を閉じた。
――心臓を貫かれると思った。
アレキが放った銃弾は、窓の外から侵入しようとしていた黒い輝夜姫に命中した。
ガラスが激しく割れ、破片の一端が黒い輝夜姫のぬめぬめとした喉元に突き刺さった。
すでに人間離れした顔になっていた黒い輝夜姫は獣のような声をあげながら、そのまま窓の外へと転げ落ちた。
最後のあがきだったのだろうが、あっけなくそこで黒い輝夜姫は即死した。
本物の静寂がふたりのもとに下りてきた。
しばらくのあいだ、サンドライトとアレキは顔を見合わせたまま一言も言葉を交わさなかった。
アレキが拳銃を足元においた。
「これで、わたくしも共犯者です。さぁ、共に行きましょう、坊ちゃん」
サンドライトは、ひとたび大きく見開いた目を閉じてから再び開け、にやりと微笑した。
「おまえにはほんと、適わないよ」
「坊ちゃん、今後も美しいピアノを存分にお聴かせください」
その言葉は、サンドライトにとって全身を力強く抱きしめられたも同然だった。