【月・過去】未月と麗月
文字数 5,161文字
月にも多くの女がいた。
その大半は、ゲンゴファクトリーの前身である〈家内工業〉の内職に就いていた。
今も昔も、地球に溢れている多くの言語を読み解くことができるのは、黒猫型ロボだけであり、月人と意思の疎通が図れる上に、感情を持つ超翻訳者はクーただひとりだけだった。
しかも、この時代はひとつの月面都市に僅か一匹の黒猫型ロボしか存在せず、物語から抽出される鉱石を造るまでかなりの時間がかかった。
女たちは、決められた時間にIDとパスワードを入力し、自分たちの生活圏に配属されている黒猫型ロボから仕事をもらう。具体的には、彼らが翻訳した物語を与えらえたテキスト通りにリズミカルにオトハタで打ち込んでいく。
地道な作業の末、オトハタで造られた編み物は一定の時間が経つと硬くなる。それを、職人技の男たちが裁断、研磨して月人たちの命の源である鉱石を作り上げる。完成した物語の鉱石は、〈物語ロード〉の管理棟宛に送られ、そこで初めて給与を受け取るシステムだ。
しかし、物語の鉱石を造る女、いや、月面都市で女が生き生きと生活する時代に待ったをかける事件が起こる。
その名も、魂暴走事件。
初めは何が起きたのか誰も知る由もなかった。
次第に明らかにされてゆく事件の全容。
どうやら、物語の扱いをひとたび誤ると、物語の中に潜む「魂」が暴走してしまうことがあり、やつらはきまって男の月人ではなく、女の月人を狙って襲い掛かった。
女をひとり、ふたり、食すると、たちまち暴走した「魂」は巨大化し、誰の手にも負えなくなる。そこで、被害を食い止めるため、根本的な解決がなされるまでは産業地域から女たちをできる限り遠ざけた。それでも、なかなか被害はゼロにならなかった。
以降、職を失った女たちの多くは、市街地のマーケットで月織の衣類や食用の鉱物を売って生計を立てた。そう、月の人々にとって「鉱物」は食べ物同然。また、輝きの強い宝石であればあるほど価格は跳ね上がるが、栄養価も高いため高所得者層には根強い人気があった。
女の月人のうち、ごく少数、月遊女(つきゆめ)と呼ばれるものたちがいた。
月遊女たちは、サーカス小屋で見かけるような大きなテント造りの月楼館で生活し、男たちの相手をするのが日課だった。
そこでは、親方にあたる、重力の舞〈みちかけ〉を生業とする月面師の元で、多くの月遊女たちが寝食を共にするのが決まりだ。
月遊女らは、若い頃から厳しい修行を積むことになるが、その多くは母親を魂暴走事件で亡くしていたり、家族分の食用鉱物を買って食べさせる経済力もなく親から見放されていた。
幼い頃から教育を受けていたふたりの月遊女がいた。
物心ついたときから同じ部屋で生活してきた、姉の未月(みつき)と妹の麗月(れいづき)だ。実際、血は繋がっていなかったが、本物の姉妹のように互いの心をわかり合っていた。
月遊女たちの相談役でもある姉の未月は、月楼館で最年長者だった。上背があり、スレンダーな身体は透けるように白い。愛嬌のある下がり目で、性格同様まっすぐな茶髪は、月のかんざしをいくつも挿して後頭部で美しくまとめていた。
一方、未月よりも十歳年下の麗月は、小柄だが丸みを帯びた姿態で男たちを誘惑する。
肩につくかつかないかの黒髪ストレートヘアで、かたちの良いひたいと涼しげな目元がポイントだ。いつも赤い花のかんざしで前髪を留めている。細い眉と目尻の赤いアイシャドウは未月の定番の化粧スタイルだった。
月楼館で一番、魅惑的な舞を披露することで有名な麗月だが、その正体はなんと、月人でも移民でもなく―――高知能な〈人工生命〉だった。この極秘情報を知るものは、今のところ姉の未月だけ。
その日は、月神様が降臨することが決まっていた。
血の滲むような練習を重ねてきた月遊女たち。
その中から月面師が選ぶ五人だけが、円形の舞台に立てる。
皆、暗闇で光る神聖なかたちの盆を手にしていた。
月遊女たちの服装は、なめらかで傷ひとつない裸体に最高級のレース一枚をあてがうだけ。すっぽりとレースで顔まで隠れるものの、華やかな化粧は薄っすら透けて見えた。
この日、月遊女たちがまとっていたのは、金の月粉がまぶされた上品な色合いのものだ。
どこからともなく、オルゴール音と女の美声が溶け合うメロディが煙とともにステージ上を包みはじめる。
「ミナサマミナサマ! トワイライトメニューはいかがですかぁん?」
月面師のひとりが、ゆうに十メートルは下らないであろう天井から、いくつもの柱を伝ってカタン、カタン、カタンと降りてきた。柱には、亡き月遊女たちの叫びながらも絡み合う姿が彫刻されている。
「なんと、あたくしがメニューを監修しておりおまぁす。口に合わないッそんなアンビリーバブルなことが起こりましたら、あたくしの耳に直接フーッとお伝えくださいませ~」
ベルベット調の黒いマントを翻しながら、客人の前に颯爽と現れた。顔には、黒と金のマスクも装着している。右目周りには太陽のフレアをイメージした模様で、左は吊り上がった眉を強調するような渦巻きがあった。右頬には、大小異なる真紅の半月が三つあり、左は地肌の白さをそのまま引き立たせるようなアシンメトリーのデザインだった。
その奇妙な装飾もさることながら、男性的にも女性的にも聞きとれる月面師の独特な語り口に誰もが惹きつけられた。
「サテサテ! 本日は、スペシャルゲストをお迎えしておりますッ。ムフフフフ。どなたか、逞しい想像力を発揮できる方はいますかッ?」
月面師は、客席に歩み寄って怪しげなマスクを客人の顔を近づけるなり、真っ赤な左眼の瞳孔を大きくさせたり小さくさせたり奇怪なしぐさで場を盛り上げる。いったいどういった仕掛けなのか、左眼からはゼンマイ仕掛けのようなギチギチといった機械音が聞こえる。
早速、舞台から向かって右端に座っていた赤ら顔の常連客が、「ゲストは誰だ!」と煽った。
「ムフフフ。威勢が良いですね、お客様」
月面師は、ステップを踏むように素早く、合いの手を入れた常連客のテーブルへと移動した。
「スペシャルゲストとは、な、な、なんと、我が月をあらゆるものからお護り下さる月神様でございますッ!」
瞬間、着席していた客たちがいっせいに椅子を引いて床にひざまずいた。
「月人たちよ、安心したまえ」
突如、二階席の最前列から月神様とは異なる声が降ってくる。
黒髪短髪で生真面目そうな男は、皺ひとつない縦襟の白シャツに、黒の光沢あるロングコート、同じ素材の黒のパンツに金色の月の形をしたベルトを腰に巻いていた。
彼は、月神様の側近であり参謀でもあるエリートだった。
店内に緊張した空気が張り詰める。
「今日から三日間は〈祝祭日〉だ。我が月に〈真夜中〉がやってくる前祝いの日。月神様の善意で皆に祝い酒をふるまう。月神様の血と肉だと崇めて体内に巡らせるが良い。我々の生みの親にして、〈物語ロード〉の創始者であられる、月神様に敬礼せよ!」
まるで軍隊仕込みの敏捷さで、月人たちはその場から立ち上がった。
右手を右肩から頭上へ空気を斬るように敬礼した。
「今宵は、月遊女と共に酔いしれようではないか」
柔らかい声質ではあったが、多くの心をひとつに束ねる力が漲っていた。
参謀の後ろで、二メートルの高身長に、腰まですっぽり隠れるほど長髪、白髪の男が微笑をたたえていた。
彼こそが〈物語ロード〉を創造した月神様にほかならない。
太い眉に大きな瞳。顔以外は濃紺のマントで覆われていたが、両腕にデザインされたショッキングピンクのファーが際立っていた。
数秒間、月人たちは月神様に祈りを捧げた。
月神様が「さぁ、間近に控える〈真夜中〉を、共に祝おう」と言って参謀とともに座ると、止まっていた時間が動き出したかのように月面師が口を開いた。同時に赤い左眼がギチギチとせわしなく音を立て始める。
「奇跡的な夜になりそうですッ! はっ、大変申し訳ありません。あたくしの紹介が遅れましたッ」
月の五卿相〈ムーンファイブ〉を除くとして、一般的に月人は靴を履かない。足の裏で呼吸をする必要があるからだ。
しかしどうだろう、マントを脱ぎ捨てた月面師の服装は、燕尾服に、青と赤のチェック柄のベストはともかく、厚底で先の尖った靴を履いていた。
「ここ月楼館の主でもあり、上級月面師でもあるエト、ラァン、ジュ! と申しますッ。どーぞ、お見知りおきをッ!」
エトランジュは、斜めにずれてしまったマスクを慌てて直した。
「それでは、しばしこの月いちばんの舞〈みちかけ〉を、ご覧あれッッッ」
月面師エトランジュは、長い脚を折って一礼すると柱の奥へ軽快な足取りで消えた。
代わりに登場した五人の月遊女たちは、地上から何メートルも跳ね上がる舞〈みちかけ〉を披露した。この場に月神様があらせられるとあって、ひとりは硬い表情、もうひとりは手足の動きに切れがなかったが、そこは選ばれた五人である。すぐに場の空気にも慣れ、華麗なる舞で観客を魅了した。
二階席の中央で鑑賞していた月神様は、首を右に左に傾けながら、ひとりの月遊女の姿を必死に目で追いかけていた。
〈みちかけ〉の途中で、〈ムーンファイブ〉のふたりがさらに月神様のテーブルに加わった。
ひとりは、物語の監視・指導責任のカマル。
月のどこかで生きているとされる伝説上の怪魚〈オオイカヅチザメ〉の兜を被っている。
頭部の角や鋭利な背びれの迫力はもちろんのこと、生け捕った瞬間の表情を残しているため、赤い目元が兜の厳つさを助長していた。
この兜は、カマル亡きあとも、物語の監視・指導責任のトップに立つ者は必ず被るようになる。いつも半裸だった点は継承されなかったが。
もうひとりは、月の警備兵たちの最高指揮官であるチャンドラマー。
歩いた場所が歪むほどの巨躯で、スキンヘッドという風貌からは想像できない女性的な趣味を持つ。お菓子作りは幼い頃からの趣味で、その腕前はプロ並だが、自分と月神様のためにしか作らない。
また、地球人には見えない色での塗り絵も好む。そのギャップからか、〈乙女坊主〉と揶揄されることもしばしばだったが、月神様以外の言葉に一喜一憂することはない。最低限の言葉しか口にしない寡黙な男だが、忠誠心と身体能力が軒並みに高いゆえ今のポジションを長年務めている。
両者とも月神様の横にひざまずき、手の甲に口づけをした。
挨拶もそこそこにカマルは参謀の隣を足早にキープする。
「月遊女ごときが、男を心の底から癒せるわけがない。月神様が惚れこんでいる以上、あまり大きな声では言えんがな」
ひそひそとカマルは参謀に耳打ちした。
女がらみのトラウマを抱えているのだろうか。カマルから大鮫の兜を脱がせば、その素顔はハンサムだと聞くが、どこか女を遠ざけようとする節があった。
「月遊女もピンからキリなんだろうが、代わりが利く世界であるのも、解せないな」
毒づくカマルに参謀の男はどう返せば良いのかわからなかった。
〈みちかけ〉を終えると、月遊女たちは月神様のテーブルに集まった。
レースを軽やかに振りながら、一礼していく。
けっして客に視線を向けてはならないしきたりを、どの客に対しても忠実に守った。
最後に、当代きっての月遊女姉妹の妹が一礼。
背の高い姉未月に対し、伏し目がちの麗月が一歩下がろうとしたときだった。
月神様の横に控えていた男に呼び止められた。
「月神様からの御言葉です」
月遊女が月神様と月の塔の〈戯れの間〉以外で直接言葉を交わすことは禁じられているのだった。
「月の塔で踊って欲しい、とのこと」
月神様と、その直属の部下しか足を踏み入れることが許されない月の塔へ招待されることは、大変名誉なことだった。
滅多にないことなので、その言葉すら知らない月遊女も大勢いた。
麗月はうつむきながらも、月神様から注がれる熱視線を感じながら頬を赤らめた。
月神様に寵愛される月遊女は、例外なしに月の塔へ導かれる。
それを最終目標にする月遊女もいれば、そこから誰も戻らなかったことから推察して怯える者まで様々だった。
しかし、未月にとって今回は事情が少し違っていた。
姉未月だけが知る妹麗月の秘密。
絶対に、麗月の月の塔入りは阻止しなければならなかった。