【?・現在】無色の世界
文字数 3,732文字
我が、月神様。
もうお時間がありません。
切り離されてしまう前に、お戻りください。
夢幻なのか現実なのか、曖昧になってきた。
どことなく視界が靄がかっている上に、空気の匂いも独特で気持ちが落ち着かなかった。
ただし、目を開けると、サンドライトは自分が興奮状態にあることは理解した。
予知夢なのだろうか。
それとも、月の世界の誰かが自分に語り掛けているのか。
切り離されてしまうというのは、魂と肉体? 現世と幽世? それとも……。
深く思考するつもりだったが、外からカンカン、カンカンと鉄を叩くような音が聞こえた。
いや、その前にここはどこかという問題。
今にも崩れそうな鼠色の天井には、あちらこちらに蜘蛛の巣がはっていた。
今さらながら、固い鉄のような冷たいベッドに横になっていたことに気づく。慌てて薄汚れた布団を押し上げて飛び起きた。
庶民の暮らしと無縁のサンドライトは、襞(ひだ)のついたジャボの白いシャツについた汚れを必死に払った。
ドアも窓もない石壁に囲まれた窮屈で薄暗い部屋。
目の届く場所に、アレキも〈顔のない女〉の姿もない。
モノレールに乗ってから、私は……。
うまく思い出せない。
部屋全体が日陰で肌寒く身震いがした。
「アレキ、どこにいる?」
ひとまず不快な音の正体を探るため表へ出た。
「ここは……」
その光景に絶句した。
見渡す限りの世界が〈モノクロ〉で構成されていたのだ。
腰を丸めて一列に並んで歩く〈モノクロ〉の人々の長い列。
カンカン、カンカン。
その列を先導する、やはり〈モノクロ〉の男が金属製の楽器を鳴らしている音だった。
誰もサンドライトを一瞥しない。それどころか、これだけの人で溢れかえっているわりには話し声がまったく聞こえてこない謎。
彼らはただ、どこかへと向かっているようだ。
左右を見れば、下町の屋台のような店が軒を連ねていた。どこも扉や窓はないので店内の様子は丸見えだった。
奇妙な光景は続く。
性別も、身なりも、体格も、顔立ちもさまざまで、よく見れば純粋に人間とは言い難い輩までまぎれていた。
生きとし生けるものたちが、肩を並べて丼ものや麺類をすすっている。
注意深く彼らを見ていると、色を失っているだけでなく、眉や目、髭や口まで消えかかっているではないか。いや、すでに『あるべき場所から』なくなっている者までいた。
彼らは互いに興味を示さないのか、無心で口の中へと食べ物を運んでいる。
認めたくはなかったが、器には到底口にしてはならないものばかりが盛られていた。モノクロの手足、目を閉じて死んでいる赤子の頭部。灰色の液体に浸かるそれらから、サンドライトは目を逸らした。
〈モノクロ〉を照らす光も、空の雲も、周囲の建物も、何もかもが〈モノクロ〉だった。
〈モノクロ〉に侵されている。
思わず自分の手足、衣服を確認してみたが、もともと白い肌はきちんと赤みがかっており、胸元までカールされた髪も艶やかな金色を保持している。
しかし、それだけでは満足に安堵できず、もといた室内に駆け込み、白のトップスも深緑と銀のパンツも脱いで裸になった。
鏡はなかったが、肌から透ける血管の色を目にして生きていることを実感した。
サンドライトはここまでやらなければ理性を保てない状況にあった。
そこへ、ひょっこりとアレキが外から帰ってきた。もちろん、〈モノクロ〉ではないアレキだ。
「アレキ、ここはどこだ?」
サンドライトは興奮気味に問う。珍しく彼は、得体のしれない恐怖に心を乱されていた。
「そうか……〈顔のない女〉に魂を奪われたのだな? ここは、地獄か……」
「坊ちゃん、どうか気を確かに。ここは地獄ではありません。冷静になれば納得できることでございます」
「冷静になれと? おまえは、ここが初めてではないのか?」
アレキは、いつになく冷静だった。
この場に似つかわしくない笑い声まであげるほどだ。
「坊ちゃん。ここは、破綻した物語のあらゆる脱落者たちが目指す場所、〈ハブパーク〉であります」
「〈ハブパーク〉? ならば、ますますユートピアとはほど遠い光景ではないか!」
サンドライトは、アレキの悠長な話し方に苛立ちを抑えられなかった。
「いえ。彼らは我々に危害を加えたりはしません。なぜならば、わたくしも坊ちゃんも、〈物語ロード〉の仕組み、いわば秘密を知る身分。ここでは、不完全な物語の不良品が回収されるだけなのです。単純なプログラムゆえに、我々は〈ハブパーク〉から金星へと飛び立つ方法を模索すれば良いだけなのです。むろん、〈葬除人〉に見つかってしまう前にですが」
アレキは恐ろしく饒舌だった。
これほど難解な世界を意図もたやすく説明できるものなのか。
アレキの知能の高さが、単に年の功とは思えなかった。
とりあえず、身に迫る危機、それも今すぐに直面する恐怖はないと表面的にでも理解したサンドライトは、硬いベッドに腰を落ち着けることにした。
不本意にも、恐怖で取り乱してしまったことが急に恥ずかしく思えてきた。
自身の醜さを露呈することは、サンドライトの美学に反するものだった。
「顔色がよろしくありませんね。長旅でお疲れでしょう。お食事はいかがなさいますか?」
食事と聞いて、サンドライトは体の内側から凍りついた。
すぐそばで赤子を箸で突っつきながら、暗灰色のスープを飲む〈モノクロ〉たちが思い出され、食欲を根こそぎ奪われた気がした。
「坊ちゃん。我々は、彼らとは違うのです。別の場所で、舌鼓を打つまではいかないまでも、普通のディナーを楽しみましょう」
環境が変わっても、アレキの口ぶりからは恐怖というものがまるで感じられなかった。
それでも、屋台での食事が異常だと感じるのが自分ひとりだけでなく安堵した。
「その前に少しだけ眠りたいのだが……そばにいてくれるか?」
サンドライトは弱音を吐いた。
「もちろんでございます。布団の代わりに、わたくしのロングジャケットをお使いください」
アレキは羽織っていたものを脱ぐと、横たわったサンドライトの身体にそっとかけた。
目を閉じると、アレキの香りが染み込んだジャケットは、サンドライトの緊張をほぐした。
手元にも温かさが感じられる。アレキが手袋を脱いで握ってくれていた。
「おまえは、世界のことを知り尽くしているのだな」
「坊ちゃん、わたくしを過大評価し過ぎではないですか?」
「そんなことはない」
「移動中にお渡しした古書を熟読されなかったのですか? そちらを読めば、恐怖を感じずに済んだ話なのですよ」
アレキは横でアゴの髭を撫でながら愉快げに言う。
このまま安眠できることを期待したが、瞬間、サンドライトのなかで違和感が芽生えた。しかし、その正体を探ろうとする余力は最早このとき残っていなかった。
我が、月神様。
赤色偏移には、くれぐれもご注意ください。
あなたの味方には、成りえないのです。
まだ、祈りははじまりません。
それまでどうか、ご無事で。
眠りに落ちると、また耳元で囁き声がした。
――赤色偏移。
夜空の星に赤みがかって見えるものがあるのは、地上からの距離が離れ続けているからだという。
盗聴されるリスクを考慮しての隠語なのだろうか?
ここ最近、不可解な事象を紐解こうとすると、思考力にロックがかかるような感覚があった。
この世界―――〈ハブパーク〉がそうさせているのだろうか。
まだサンドライトの身体は休息を求めていた。
再び眠りにつくまで時間はかからなかった。
翌日、意表を突いてサンドライトの前に〈顔のない女〉が現れた。
相変わらず白の着物姿だったが、改めて見ると、彼女もまた首から足のつま先まで〈モノクロ〉に包まれていた。アレキの気配がなく、辺りを見回していると〈顔のない女〉は欲しい答えを口にした。
「片眼鏡の初老は、新たな寝床を探しに」
アレキが〈顔のない女〉に対して警戒心を抱いていないことは確かだ。
サンドライトは、その言葉を素直に信じた。
「おまえに、ひとつ頼みがある」
「貴族様が私に?」
「色を失っていない、いわば同志を見つけたい。どこへ行けば会えるか教えてくれないか?」
唐突な頼みごとにも〈顔のない女〉の声のトーンは変わらなかったが、うなずくような頭部の動きを見せた。
少し前までは飛び上がるほど恐ろしく感じた〈顔のない女〉の外見だったが、体力が回復したこともあって冷静な自分を取り戻していた。
「〈ハブパーク〉内、羅生門、もしかしたら……」
「すぐにでも、連れて行ってくれ」
すっと華麗に立ち上がり、サンドライトは長く金色に輝く髪をうしろに払った。
「ところで、君の名前は?」
〈顔のない女〉は儚い声で「鶴乃」とだけ答えた。
サンドライトは片膝を折って会釈すると、「鶴乃、キミが頼りだ」と甘く囁いた。