【月・過去】クレーター墓地
文字数 5,011文字
月のフォルムをした銀色のベンチに座って、熱心に古書を読み解いていた。
スピネルが月で呼吸できるのは、地球で苦労して取り寄せた超電導マントをコートの内に装着しているからだ。地表わずかにしか存在しない大気を、超電導の力で口元に運ぶことで、ここまで楽に呼吸ができるとは、スピネルにとっても予想外の性能だった。
「初めは息継ぎも苦しいかと思ったけど、道化師の真似事も慣れたものだね」
過去の月世界へ来る前に予習しておくという考えはスピネルにない。
その土地の空気を肌で感じながら、その土地について書かれた文章を読む。これこそが、スピネルにとって最高の読書スタイルだった。
古書に挟まっていた中綴じを、伸びた爪先でシュッと開封する。
細かい文字で、月の地図や月の基本データや歴史についてびっしりと細かい字で書かれていた。普通の人ならば、ルーペなしで読むのは不可能だろう。だが、スピネルの右眼は黒ウサギのドルークから拝借したもので、左眼は義眼だ。人の視力を超越していた。
「月の昼夜は地球時間で二週間ずつ繰り返される。 一度太陽が月平線に沈むと、次に太陽が昇るのは二週間後。にもかかわらず、えっと、月人が二十四時間を一日として生活するのは、言うまでもなく地球の物語を扱っている手前、地球人の生活に揃えるほうが好都合だったから……。あんまり面白くないかなー。ねぇ、ドルーク?」
月へ来てもなお、スピネルの横には上級月面師エトランジュの仮面を被せられた黒ウサギのドルークがいた。
「月面都市の東に位置する静かの海には、月の五卿相〈ムーンファイブ〉の住まいがあった。静かの海ってさ、ドルークの形に見えるんだよね? やっぱり、月にはウサギっているんだねっ?」
スピネルは細い唇に手を添えて微笑んだ。
ページをめくり、続きを音読する。
「球体の部屋を繋ぐ五角形の〈月の塔〉と、それを挟むようにし北側に十五メートルほどの壁で覆われた月神様の住まいである〈神殿〉、南側には主に月務員たちの寮や裁判、会議などが行われる場所として特異な輪郭を帯びたシームーン。あ、あれかな?」
スピネルは、遠くに見えるシームーンと思われるシルエットの建物を注視した。
「なるほどねー。月人たちの住宅街は、ゲンゴファクトリーで賑わうキタカン工業地域に様変わりする前は、主にムーンパーク3号館と呼ばれる集落地帯があてられたっと。そこは、筒状の都市が外気に触れぬような構造。また、ムーンパーク1号館は隕石により爆発、2号館は月人たちの間で蔓延する流行り病をリセットするため、月神様のご意向で涙による洪水により星屑となったって、えええ、月神様が泣くと洪水になるわけっ?」
本心では、その言葉ほどスピネルは驚愕していなかった。
「月神様は、穏と怒の顔を持つんだって。往々にして目尻の下がった穏の面であられるが、面を上下に百八十度反転させたとき、吊り上がった目から血の涙を流す。そのたびに月では多大な犠牲がつきものとなる。月人たちはこれを、〈月の裏側の支配〉と表現した。
月と地球とを繋ぐ〈物語ロード〉もまた、月の集落地帯であるムーンパークのトンネルを伝って行くことが可能だ。その際、〈ムーンファイブ〉はもちろんのこと、彼らに任命された者だけが舌に刻まれる通行印が必須となる。タトゥーは、痛~い! ドルークもそう思うよね? 因みにね、月の外に出るのは、葬儀のときくらいだって」
スピネルは顔を上げた。
一面に広がるクレーター墓地。
どこを見渡しても、墓には紅色の粉がふりかけられていた。
意図的に掘られた等間隔の窪みの横に、一から三メートルほどの三角錐のクリスタルが立っている。そこには、亡くなった月人たちの名前が刻まれていた。
街頭で繰り返し放送されている、「〈真夜中〉がやってくるまで、あと数日」のカウントダウン。その声から遠ざかるように、月面都市の一部を覆う天窓から今まさに外へ出ようとする者がいた。
黒髪ストレートで、両耳は隠れており、センターで分けられた前髪から覗くきめの細かいひたいは角ばって見えた。目元は吊り目で、細い鼻と薄い唇が冷ややかな印象をいっそう増していた。服装は、体の線が引き立つようなシルバーのスラックスに、膝上までのシルバーのロングジャケットを羽織っていた。靴は先が尖った光沢のある白いデザインだ。
静寂の代わりに、立ち上る外気が尋常じゃないほど冷えていた。
けれど、月人たちの身体は〈昼〉と〈夜〉の激しい気温差に耐性を持っているので、気温に対してあまりナイーブではなかった。
ふたり用の小さな球体遊覧船で男は月面を進んだ。
直進するたび、三百六十度外の景色を見渡せる窓には月面の砂がサラサラと音を立てて体当たりする。両足で漕げば速度を上げられるが、彼はオート運転に切り替えて物思いに耽った。
球体遊覧船に乗ること十分弱。
紅色に染まったクレーター墓地群が見えてきた。
墓参りには、埋葬されている場所に紅を着色させるのが月での習わしだった。
『血』を象徴する色を乾いた地に溶け込ませることで、「永遠に、私とあなたは繋がっている」ことを示すのだ。
いつもより紅が濃いのは、〈祝祭日〉に墓地へ訪れる者が多いことを意味する。
男は、目的のクレーター墓地で球体の遊覧船を停止させた。
窪みの周りには、三日月の形をした銀色の椅子が等間隔に置かれていた。以前はなかったものだが、ここで亡き者と語る場所を望む月人の声が多く、月神様が自らデザインして作った椅子だった。
しかし、それは月神様によるプロパガンダに過ぎない。
椅子を置いた本来の目的は、その椅子の内部に仕掛けられた監視システムにある。
過去に存在した墓を荒らす獣の如く、ツクヨミが墓から〈過去〉を彫り返す。
そんな血迷った行為に走らないよう監視しているのだ―――。
ここへ来るたび、月神様の側近にして参謀のツクヨミは、誰にも言えない危険な妄想をしてしまう。
「誰のお墓?」
やにわに女の声がして振り返る。
タイミングがタイミングなだけに、ツクヨミは肝をつぶした。
「お邪魔だったかしら」
背の高い女は、胸元を露わにした白いひざ丈ワンピースの上から、着丈が短めの真っ赤なジャケットを羽織っていた。それだけでも女が最下層の月人でないことは明々白々だった。この月で、衣服に華やかな色彩を選ぶ者は限られていた。
以前は、髪を下ろしていなかったのですぐにはピンとこなかったが、垂れ目でスレンダーなその女は、月遊女の未月だった。
「他人の墓に入るな」
女をチラリと見、ツクヨミはそっけなく返す。
「あら、ごめんなさい」
ツクヨミは未月がそのまま立ち去ることを望んだが、それどころか彼女は三日月の椅子に座り、この場にとどまった。ツクヨミは女と距離をとるため端に座り直した。
「警戒心、抱くのね」
ふとツクヨミは、未月のイントネーションがほかの月人たちとはどこか違うことに気づいた。しかし、どこの訛りかまではこの場で判断できなかった。
「で、ここには誰が眠っているの?」
その質問には答えなかったが、未月は食い下がる。
「教えてくれないと、キスしちゃうけど?」
突拍子もない一言にツクヨミはぎょっとして、思わず女を睨みつけた。
「あら、純情なのねー」
「からかっているのか? 俺は、おまえが嘲笑できる身分ではないぞ」
むきになって返すと、女は「許して許して」と宙で手を仰いだ。
女が立ち去る気配を見せないので、しかたなくツクヨミは彼女の前で墓参りを済ませることにした。
胸元に潜ませておいた一厘の薔薇を墓の窪みに置く。
紅を着色させる習わしに従い、ツクヨミは紅い薔薇を用意した。
「ね、ここは誰のお墓なの? あたいね、一度気になったことはそれが解決されるまでとことん、な性格なのよ」
女は自分が招かれざる客として扱われていることを気に留めるふうもなく、終始楽しそうに言った。
「おまえに教える義理はない」
「最近、ずっと変な夢を見るの。予知夢じゃなければいいんだけど」
よく動く口元は、気の強さとは対照的に桃色の口紅が控えめに艶めいていた。
「予知夢?」
「ああ、純粋な月の生まれの方は、夢なんて見ないわよね?」
ツクヨミは顔を顰めた。
誤解を正すべきか放っておくかで逡巡する。
「夢の話、続きを聞きたい? だったら、ここで誰が眠っているのか教えてよ」
女は、ツクヨミが好奇心を刺激されたことを決して見逃さなかった。
「……俺の墓だ」
意外な回答に、女は大きな目を見開いた。
「先を見越して?」
「葬らなければならない過去の自分を埋めている」
ツクヨミの心に秘められたものは、ツクヨミ自身でもまだ向き合えていない部分があった。対して女は、わずかなやり取りから相手の性格を見極めるのが仕事上得意だった。
「美しい死神さん」
ツクヨミの顔を悪戯な表情で覗きこむ。
「死神? 俺が?」
「約束したから、あたいの予知夢の話もしよーじゃない? それほど遠くない未来に、クレーターの大半が女の名前で埋まるかもしれないわ」
その一言は、ツクヨミの好奇心を刺激した。
「最後まで聞いてやる」
あくまでも上からの立場を崩さなかったが、それでも未月にとっては好都合だった。
「あたいの夢では、月神様はもちろん月で生まれ月で育った神聖なる月人たち、それから、〈ムーンファイブ〉も……まだ覚醒を遂げていない。もし、彼らが覚醒すれば、月世界は一変する。女たちは消える運命にある。どういった経緯でそれが現実のものとなるかまではわからないけど……月神様は……仮面を被ることになるかもしれない。比ゆ的な意味で」
ツクヨミは周囲を見渡し、ここに自分と女以外に誰もいないことを確認した。
「夢医者を紹介してやる。おまえの夢は、すぐにでも取り除かれるべきだ。さもないと……」
「さもないと、排除される?」
「ああ。その猛々しい性格でも、どうにもならないだろう」
「夢が見られるって、凄く幸せなことだと思うけど? 鎖で繋がれた人生でも宇宙を遊泳できるんだから」
あくまでも未月は譲らない。真剣なまなざしをぶつけながら、数秒間、対峙した。
先に相好を崩したのは女の方だった。
「今日、この時間にここで誰かと出会える気がした。夢に、あなたが出てきたから」
得体のしれない女に、ツクヨミはとっさに腰に装備してある拳銃に手をかけた。
「おまえはいったい、何者だ?」
そのときだった。
背後から何かが爆発する音が聞こえた。
振り返ると、先ほどまで利用していた小さな球体の遊覧船が一瞬にして原型を焼き尽くされていた。
「狙われているのは、あなたの方みたいよ」
未月と燃えた遊覧船をツクヨミは交互に見た。
「おまえは、スパイか? それも、ただのスパイではなく異星人ときた。夢を見るだけでなく、金星のクレーターについても知っているようだしな」
「金星のクレーター? 何の話?」
「とぼけるな! 金星のクレーターには、女の名前が多くつけられている」
ツクヨミは、自分専用の白い拳銃をいよいよ腰から抜き取った。
「気づいているんでしょ? あたいは月楼館の月遊女。月以外の星に興味を持つことなんて許されもしない立場」
刹那、昨夜の〈みちかけ〉で透けた未月のツンと張った乳首、激しい腰つきがまざまざと思い出された。レースで覆われていても、彼の立場上、一度でも視界に入った者は忘れなかった。
「あたいは、美しい死神さんと取引がしたいだけよ。女は度胸。諦めないから」
未月は勇ましく言う。
「その前に、場所を移したほうが良さそうだけど」
凛とした未月の声に呼ばれたのかと思うほど絶妙なタイミングで、新たな遊覧船が迎えに来た。
「さすがね。美しい死神さんの命は手厚く護られているのね?」
未月は、確信を突いた言葉を口にしながら片目を閉じた。